1-7
埼玉県戸田市の住宅街にヒールの音が響いている。夏の夕暮れの匂いは郷愁の懐かしい匂い。
その匂いに混ざって煮物と石鹸の香りが漂っていた。
神田美夜は自分と同じ苗字の表札がある平屋の前で立ち止まる。
マリーゴールドの黄色、アメリカンブルーの青、サルビアの赤にペチュニアの紫。鮮やかな夏色に彩られた庭を横切って、扉横の呼び鈴を鳴らした彼女は東京では滅多に出さない大きな声で帰宅を告げた。
「お
「はいはい、いらっしゃい。あらま珍しい格好」
「電話で言ったでしょ? 今日は友達の結婚式だったの」
玄関の扉を開けた祖母は美夜の服装を物珍しげに眺めている。美夜が纏っているのはドレッシーな黒のパンツドレス。
普段は履かない七センチヒールのパンプスから解放された脚をさすって、美夜は花束と紙袋を祖母に差し出した。
「ブーケと引き出物のバウムクーヘン。他にもタオルとか、色々入ってるから使って」
「美夜ちゃんがブーケいただいたの? 縁起がいいわねぇ」
夏の結婚式に似合う
最前列にいた女性が掴み損ねたブーケは最後尾の美夜の腕に飛び込んできた。
「貰うつもりもなかったのに私のところに来ちゃったの。……ちゃちゃ丸ただいま。元気してた?」
廊下に出てきたちゃちゃ丸は美夜が高校生の頃に祖父母が動物保護団体から引き取った虎猫だ。
あの頃は子猫だったちゃちゃ丸も今では貫禄のある十二歳、まだまだやんちゃな雄猫である。
「ごめん、すぐにお風呂借りていい?」
「まだお湯張っとらんよ」
「シャワーだけさっと浴びたい。外暑くて、汗だくなの」
すり寄る猫のぬくもりを名残惜しく手放した美夜は脱衣場で着なれないパンツドレスやストッキングを脱ぎ捨てた。
昭和建築の定番であるモザイクタイルが床に敷き詰められたレトロな風呂場には、以前はなかった手すりが壁に取り付けられている。
足腰が弱ってきた祖母が滑って転倒しないようにと配慮したものだ。こうした細やかな気遣いができるのは近くに住む伯父だろう。
普段はしないフルメイクは顔が重たくなる。アイシャドウもマスカラもアイラインもチークもリップもファンデーションも、顔に張り付くすべてを削ぎ落としてやっと顔が軽くなった。
「美夜ちゃん、バスタオル出しておいたからね」
「ありがとう」
浴室の扉越しに聴こえた祖母の声に返事を返す。今となってはどこよりも寛げる祖母の家は甘え下手な美夜が甘えられる唯一の居場所だ。
浴室の窓から射し込む茜色の光は夏の夜の短い序章。包まれた固形石鹸の匂いはどこまでも優しい香りだった。
ブーケの花はさっそく花瓶に生けられている。東京に持って帰っても枯らしてしまうだけ。花も祖母の家で咲いていたいだろう。
食卓に用意された祖母の手料理も食に無関心な美夜の数少ない好物ばかり。冷めた両親の代わりに愛情を注いでくれたのはいつだって祖父母だった。
「お母さんとは最近会った?」
「
母の話になると祖母の返しは素っ気ない。
美夜の母、神田栄子はこの家の長女。町で一番の秀才だった栄子はかつて神童と呼ばれていたらしい。優等生の道を歩む彼女は教師となり、川口市内の学校で教職を続けている。
この町に古くからある家のほとんどが栄子の小学校や中学校の同級生の実家だ。隣の家も向かいの家も、栄子の同級生や後輩の実家。
未だに強固な繋がりを残す地元のコミュニティでは栄子の元夫が援助交際をしていたことも相手が娘の同級生だったことも、それによって別居と離婚を経験したことも広まっている。
当然、栄子の娘の美夜が東京の国立大学を卒業後に刑事になった話も広まっていた。
配偶者の選択の失敗は正解しか知らない栄子の屈辱だった。栄子が地元に帰らない理由も噂話の的にされるのを恐れてのこと。
美夜も生まれ故郷の
蕨市に美夜の実家と呼べる場所はなく、父は蕨市に在住しているが会いたいとは思わない。
何年も親の顔を見なくても平気で生きていられる。その点で美夜と栄子は似た者同士だった。
「ねぇ、おばあちゃん。お母さんはどうして私に勉強しろって厳しく言ってきたのかな」
「私も死んだじいさんも、
一般論では虐待されて育った子どもは虐待する親になりやすいとされる。親から受けた教育をそのまま自分が親になった時にトレースしてしまうのだ。
母も自分が選んだ答えは不正解じゃないと、美夜の子育てを通して証明したかったのかもしれない。
「栄子は教師になったけれど、それが良かったのかどうか。あの子には慈しみの感情が欠けていたんだよ」
「慈しみか。それなら私にもないかもしれないね」
足元にすり寄ってきたちゃちゃ丸は美夜に思う存分甘えている。
「そこまで猫を可愛がれる子に慈しみがないとは思わんよ」
「……動物は裏表ないから」
動物は裏切らない。人間は簡単に裏切る。
だから人間に優しくするのは難しい。
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