第17話 暗転
異変は次の日に起きた。
ニベヤが倦怠感を訴え、荷馬車の上で丸くなって横になった。やがて寒いと震えだし、それはシュラフの中に入っても止まらなかった。
タクミがニベヤの額に手を当てると、驚くほど熱い。
「大変だ……」
タクミは青くなった。
「ケンギョさん、どうしよう。西の村に戻りましょうか?」
「いえ、東の村まで後少しです。東の村まで急いで、そこで医者に見せた方がいい」
その日、一行は暗くなり完全に道が見えなくなるまで前に進んだ。
ニベヤの状態は悪化しているように見える。しゃべるのも辛そうだ。
「申し訳ございません……皆さんの足を引っ張ってしまって……」
「そんな、気にしてはいけません。病は誰にでも訪れるものです。東の村まで、もうすぐですよ。一緒に頑張りましょう」
タクミの言葉に、ニベヤは涙を浮かべた。
夕食の後、ニベヤの身体を拭いていたショクジョが、慌ててタクミとケンギョを呼んだ。
「この足……」
それは、オークに誘拐された時に負ったケガの部分だった。包帯代わりの布が巻いてある。
ショクジョがゆっくりとそれを持ち上げると、膿が前世における納豆のような粘っこい糸を引いた。
「それ、ヤバイやつじゃ……」
タクミは愕然とする。
ケンギョが言った。
「明日は、明るくなったらすぐに出発しましょう。何とか明日中に東の村に到着しないと」
この世界も、太陽は東から昇る。
この現象から、タクミはここは地球で、時間軸もタクミの前世と近いパラレルワールドだと推測していた。
その日、一行は地平線から顔を出したばかりの太陽に向かって移動を開始した。
ニベヤの息が荒くなっている。しかし、今のタクミには、ニベヤが生きている反応を示してくれるだけで有り難い。
一行は休憩も取らずに歩き続けた。食事も歩きながら生のトウモロコシをかじる。
ニベヤはもう何も喉を通らなくなっていた。水だけをタクミが口移しで飲ませた。
「西の村は山とそこに生息しているオオカミに守られていますが、東の村は広い川と肉食魚によって守られています。川を渡るにはイカダを利用しますが、船頭は太陽が山に到達すると仕事を終えて村に帰るので、それまでに到着しないと」
ケンギョの説明に、タクミは黙ってうなずく。
三人は懸命に歩いたが、午後になるとショクジョの体力が底を突いた。ショクジョも荷馬車に乗せ、ミミまでグロッキーにならないようにとタクミは荷馬車を後から押した。
太陽が傾きはじめていた。ケンギョが険しい顔で言う。
「まずいですね。もう少しなのに、このままでは間に合わない」
「船着き場までは真っ直ぐですか?」
「ええ、真っ直ぐです」
「じゃあ、ボクが先に走って行って、待ってもらうよう頼んできます」
「お願いします」
「ミミ、ごめんな。後ちょっとだから、なんとか頑張っておくれ」
タクミはミミの鼻を軽くポンポンと叩くと走りだした。
眼の錯覚だとはわかっているのだが、太陽は山に近づくと大きく見え、速度を増したように感じる。
タクミは、時々後を振り返って太陽の位置を確認しながら、必死に走った。
緩やかな丘を登り切ると視界が開け、どこまでも続く広い川が見えた。
力を振り絞って丘を駆け下りると、前世で千葉浦安にあるテーマパークの小島に渡るアトラクションで見た物とそっくりのいかだが見えてきた。
船着き場にタクミが到着したのと、太陽が山に隠れ始めたのは、ほぼ同時だった。髭モジャでビール腹のおじさんが、いかだと船着き場を繋いでいるロープを外している。
タクミは両手を大きく振って合図した。
「待って! すみません、待ってください!」
おじさんのくわえ煙草がポロリと落ちる。
「西の村の勇者様……スイヤセン、すぐに繋ぎ直しますんで」
そして、いかだの進行方向側にいる若者に向かって叫んだ。
「おい! ちょっと待て! いかだを出すのは後だ!」
若者は不満そうに振り返り、タクミの顔を見て青ざめた。
「ゲッ、西の勇者」
声には出さなかったが、唇がそう動く。
タクミは必死で詫びた。
「申し訳ないです、勤務時間外に。でも大変なんです。妻がケガをして、高熱が出てるんです!」
おじさんは、アゴの髭を引っ張りながら言った。
「そりゃ大変だ。で、奥様はどこに?」
「仲間が荷馬車でこちらに向かっています。もうすぐ着くと思いますので、いかだを出すのを少し待っていただけませんか?」
「もちろんでさ。おい、ザゴ。お前、ひとっ走り行って、勇者様の奥様を運ぶの手伝ってこい」
ザゴと呼ばれた若者は、落胆の表情を隠さない。
「ヘイ……」
口ではそう答えたが、心ではこう呟いていた。
――なんでオレ?
ザコは以前に一度、西の勇者と会ったことがあった。キャラバン隊の護衛に、勇者自らが就いた時だ。
西の勇者はザコより少し年下の筈だが、やたらと威張っており、ザコの顔を見るなり眼つきが気に入らないと殴られた。
帰りは帰りで、仲が悪いので有名な東の勇者と案の定口論になったらしく、その腹いせに再びザゴを殴って帰って行った。
ザゴが西の勇者に良い感情を持っている筈がない。
ところがどうだろう、今日の西の勇者は人が変わったように腰が低かった。
「あ、ボクがご案内します。こちらです」
ザゴの前を走り出し、そして何度も振り返っては頭を下げた。
「お疲れのところをすみません。本当にありがとうございます」
ザゴは、東の勇者もオークの大襲撃以降、やたらと腰が低くなったという話を思い出した。
――試練がヒトを丸く磨く、か。
ザゴは人生の先輩として、西の勇者にこう返事した。
「いいっスよ。困った時はお互い様っス」
しばらく走り続けていると、ロバが引く荷馬車が見えてきた。
「見えてきました! アレです!」
西の勇者が指差す。
先頭を、見たこともないほど美しい少女が石をどけながら歩いている。
荷馬車を後から押していた長身の浅黒いイケメンが、勇者に気付いて手を振った。
――オイオイ、西の村は美男美女揃いかよ。
ザゴは思ったが、勇者の巨大なキズの入った顔を見て、声には出さなかったが唇がこう動いた。
「まあ、こんなヒトもいるけど」
荷馬車に近付くと、ロバの呼吸は荒く、フラフラなのがわかった。
「ヤバイっスね、このロバ。ちょっと楽させないと」
勇者が二人にザゴを紹介した。
「船着き場の方です。親切に手伝いに来て下さったんです」
美少女とイケメンが、感謝の眼差しでザゴを見る。ザゴも悪い気はしない。
荷馬車の中をのぞき込むと、蒼白の美女が人形のように横たわっていた。すでに死んでいるのかと思ったが、その時に苦しげに顔を歪めたので、辛うじて生きているのがわかった。
「荷馬車はロバから外しましょう。水はもう必要ないっス。全部捨ててください。兄さんは後から押してくれますか。オレと勇者様が左右から引っ張りますンで」
そしてザゴは、ショクジョを見て言った。
「嬢ちゃんもフラフラっスね。ロバに乗ってください。なあに、嬢ちゃん一人なら、ロバも何てことないっスよ」
ザゴの助けもあり、一行が船着き場に着いた時、空にはまだ明るさが残っていた。
髭のおじさんは、ロバや荷馬車をバランス良くいかだに乗せた。
「さあ、いかだを出しますよ。さすがにワシらでも、これ以上暗くなっては危険でさあ」
いかだは数分で無事に反対岸へ着いた。
警備に当たっていた槍を持った戦士が一人近付いて来て、不満そうに言った。
「オセエよ。今日は子供の誕生日だから、早く帰りたいって言っただろ」
ザゴが言い返す。
「口を慎みなよ。西の勇者様がお見えだぞ」
戦士はタクミの顔面の特徴的なキズを見ると、直立不動の姿勢を取った。
「失礼致しました! 東の村へようこそお越し下さいました!」
タクミは挨拶もそぞろに戦士に頼み込む。
「すみません、突然で申し訳ないですけど、妻がケガをしているんです。お医者さんはどちらですか?」
「なんと、奥方様が。それは大変です。おい、皆来てくれ! ……急げって!」
詰め所である小屋から、三人の戦士がヘラヘラ笑いながら出て来た。西の勇者に気付くと、真顔になって駆け寄る。
「西の勇者様の奥方様がケガをなさっている! 医者の所にお連れするぞ!」
四人の戦士は、要領良く荷馬車をいかだから降ろした。
「従者の方は、我々と一緒に医者の所までご同行願います。西の勇者様は、我が勇者様への挨拶を先に済まされた方がよろしいかと。場所はご存じですよね」
「すみません、それがよくわからなくて」
「ザゴに案内させましょう。ザゴ、聞こえたな。頼むぞ」
いかだを岸にロープで繋いでいたザゴが答えた。
「ああ、まかしとけ」
タクミはニベヤの頬に手を当てた。
「お医者さんの所へ連れて行ってもらえるからね。もう大丈夫だよ」
ニベヤは弱々しく微笑む。
タクミはリーダー格の戦士に深々と頭を下げた。
「お子さんが誕生日なのに、本当のすみません!」
「いやいや、お止め下さい。勇者様をお助けするのが我々の仕事ですから」
ケンギョがタクミの肩に手を乗せた。
「では、先に行っています」
「よろしくお願いします、ケンギョさん」
四人の屈強な戦士に引かれて、荷馬車は丘を登っていく。その後を、ショクジョを乗せたミミと、ミミの手綱を引くケンギョが続いた。
「勇者様、お待たせしました」
いかだの固定を終えたザゴがやって来た。髭のおじさんも一緒だ。
タクミは、おじさんの右手を両手で握る。
「本当にありがとうございました! また改めてお礼に伺いますので」
「奥様が無事に回復なさるよう祈っていますよ」
ザゴと共に役場へと続く急な坂道を登る勇者の後ろ姿を見ながら、髭のおじさんは呟いた。
「……勇者様も、美人の嫁さんもらうとヒトが変わるんだな」
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