第3話 夫と妻

 タクミは部屋の中を見回した。当然だが物が無い。

 テレビや照明器具はもちろん、ガラスや陶器すら見当たらない。

 壁には木製の戸があり、そこから漏れてくる光で、今が昼間であることがわかった。

 村長達が出て行って足音が遠ざかると、ニベヤは涙を手の甲で拭いながら立ち上がった。

「勇者様……勇者様にこれ以上不潔な姿をお見せする訳にはいかないので、浴場で身を清めてまいります。それから、お食事をお持ちしますので」

「はい、いってらっしゃい。……あ、その前に鏡とか……何か自分を映すものってあります?」

 タクミは自分の顔が見たかった。

「祭壇に村のたった一つの銅鏡が飾ってありますが、司祭様しか触ることが許されていません。村人は通常、桶に水を入れて自分を映しています。ですが……」

 ニベヤは隣に部屋に行くと、何かをうやうやしく持ってきた。

「……勇者様にはこれがございます」

 それは、前の世界でタクミが校舎から飛び降りる時に握りしめていたカランビッドナイフだった。

「ボクのカランビット……」

「神の剣だと皆言っていました。長老も、見たことの無い金属だと」

 ――そうだろうな。この世界の文化レベルじゃ、チタン合金が開発されるのは、ずーっと先のことだろう。

「見た者の話では、勇者様は一度力尽きて倒れたそうです。すると天から炎が降ってきて、勇者様の上に落ちたとか。再び立ち上がった勇者様の手にはこの剣があり、アッという間に沢山のオークを切り刻んだそうです」

「その後に心臓が止まってしまったんだ」

「はい。剣を構え、仁王立ちのままだったと聞いております。それにしてもこの剣、銅鏡よりも遙かに鮮明に美しくものを映します。神からの授かり物としか思えません」

 ――いえ、ネット販売で23100円税別です。

 タクミは思ったが口には出さない。しかし、このカランビットであれば、刃の部分が鏡面加工されており、小さいながらもハッキリと映してくれるだろう。

「じゃあ、早く行っておいでよ」

「ありがとうござます。すぐに戻ってまいりますので」

「ユックリしてきなよ。ボクの看病で、おフロに入るヒマもなかったんでしょ」

 後で知ることになるが、この村の風習は重傷患者の看病をする女は不眠不休でロクに食事も取らず、入浴もせずに看病を続けるというものだった。そして、男はヒゲを剃らないのだという。

 そうやって、神に患者が回復するようにと祈りを届けるのだそうだ。

 つまり、ニベヤが薄汚れていたのも、村長達がヒゲを伸ばしていたのも、全てタクミの回復を祈ってのことだった。

 ニベヤが部屋を出て行くと、タクミはためらいながらナイフに自分の顔を映した。

 そして、小さくため息をついた。

 ――ああ、やっぱりな……。

 別に、アニメのような精悍なイケメン勇者を期待していた訳ではない。喋る時に唇が突っ張るので、イヤな予感もしていた。

 ――だけど、まさかこんなに醜いなんて……。

 タクミの新しい顔には、斜めに大きなキズがあった。切れ味の悪いノコギリで顔面を力一杯引いた、そんなキズだった。

 キズは唇の下まで達しており、それが干渉して喋り辛かったのだ。

 タクミはナイフの刃を畳むと、自分の顔は二度と見るまいと心に決める。よく見ると、手にも腕にも無数のキズ痕があった。

 前の世界であれば醜状障害として認定確実な顔のキズも、幸いこの世界ではあまり気にされないらしい。

 ――ま、いいか。どうせ一度死んだ身だし……。

 タクミは気を取り直すと、上半身が起こせるかどうかにチャレンジを始めた。



 一度心臓が止まったが生き返ったヒトを、ニベヤは三人知っている。

 まず、漁師のテキさん。冷たい海に落ちて心臓が止まったが、すぐに漁師仲間から助けられた。後遺症は何もなく、今も元気に漁師を続けている。

 次に、毛皮職人のエデエさん。以前から胸痛を訴えていたが、仕事場で倒れているところを隣人に発見された。一命は取り留めたが、新しいことを何も覚えられなくなり、更に極端な短気になってしまった。

 そして、大工のエボさん。山で土砂崩れにあった。何とか掘り出され、心臓も動きだしたが、三ヶ月余り意識を取り戻すことなく亡くなった。

 祈祷師のばあさまが言っていた。人は一度心臓が止まると、生き返ってもどうなっているかわからない、と。

 だから、夫である勇者が生き返り、人が変わってしまった今も、きっとそういうものなのだろうとニベヤ思っていた。

 そんなことを考えながら、疲れ切った身体でニベヤは水場へ向かう。

 水場は集落の山側にあった。

 湧き水が出る所に、まず水汲み場がある。湧き出た水は二メートル四方の石製プールに貯水され、村人がひっきリなしに飲料として汲みに来た。

 その隣に浴場はあり、水汲み場から溢れた水が流れ込む構造になっている。男女は壁で仕切られており、水を溜めている貯水場もそれぞれ三メートル四方と水汲み場より大きい。しかし、今の寒い季節に利用者は少なく、逆に暑い季節には行列ができた。

 そして、浴場より一段低い所に流し場があった。衣類や食器はここで洗う。幅一メート長さ五メートル程の水路で、常に水がチョロチョロと流れている。浴場から溢れた水や利用後の廃水を再利用する仕組みだった。

 女性用の浴場に入ろうとした時、ニベヤは呼び止められた。

「ニベヤ様」

「ハーシュ姉さま」

 ハーシュはニベヤの従姉妹で一つ年上、姉妹のように育った。

「ニベヤ様が浴場に向かっているということは、勇者様が意識を取り戻したということですね」

 笑顔とは裏腹に、ハーシュの眼は笑っていない。ハーシュは知っていた。勇者は意識を取り戻せば、ニベヤとの離婚が成立することを。しかしまた、ニベヤが勇者の暴力に晒されていることも知っていた。

「ニベヤ様……いえ、ニベヤ。これで良かったと思うわ。やっぱり、子供を作るって、神様のご意志と相性があると思う。子供ができない理由を女にだけ押し付けるって間違ってるよ」

 ニベヤは言葉を探した。どこから説明すれば良いか……。

「それが姉さま、勇者さまが離婚を撤回したいって、村長さん達に」

「えっ? 何で……」

 ハーシュは驚愕で言葉が詰まる。

「意識を取り戻されてから、とってもお優しくなって……まるで別人のようなの」

「そんな……だって、あんなに離婚だ離婚だって騒いでたじゃない。あんな辱めまで受けて……」


 結婚半年ほどで、妊娠の兆候を見せないニベヤに対し、勇者は苛立ちを見せ始めた。一年後には、離婚を口にするようになる。

「コッチはいつ死ぬかわからない仕事をしてんだ! 女が妊娠するのを二年も待つほどヒマじゃねぇ! 次の女をつれてこい。もっとケツのデカい女だ」

 村長に対し、このような暴言を吐くようになった。

 その頃、勇者とニベヤの夜の営みが少ないのでは、といった発言が村長の関係者からあったとの噂が勇者の耳に入る。激怒した勇者は、村長と副村長の三人を家に呼び出した。

 勇者は三人をテーブルの前に一列に座らせると、正面にニベヤを立たせた。そして、ニベヤにテーブルに手をつくように命じ、衣服をたくし上げると、いきなり後からニベヤを貫いた。

 ニベヤは止めるよう哀願したが、勇者は相手にせず腰を振り続けた。村長達から見られていることで更に興奮したのか、勇者はいつもより激しくニベヤを攻めた。ニベヤは、眼の前の村長達から顔を隠し、喘ぎ声を押し殺すので精一杯だった。

 あまりのことに唖然とする村長たちに勇者は言った。

「コイツを抱く回数が少ないだと? フザケたこと言いやがって。よく見とけよ、今から出すからな……オラッ!」

 勇者はニベヤの中に精を放ち、そこから溢れ出たものがニベヤの足をつたって流れ落ちた。それを見て、勇者は満足げに言った。

「どうせオマエら、次はオレの精液の量が少ないとか、そんなこと言うんだろ? 少ないかどうか、コッチにきて自分の眼で見てみろ。コイツの腹ん中に収まりきれなかった分が溢れ出てるからよ」

 村長達は、コメツキバッタのようにペコペコと頭を下げて謝り、逃げるように帰って行った。

 この様な異常な状況で絶頂に達していたニベヤは、テーブルに伏したまま、しばらく動くことができなかった……。


 ニベヤにとって、何より思い出したくない出来事だ。

 このことは、すぐに村中に広がった。誰もがニベヤに同情したが、面と向かって勇者を非難する者はいなかった。

 村を一歩出れば、ヒトも他種族のエサとして狩られるこの世界で、勇者の助けなしに生きていける者など誰もいないからだ。

 ニベヤはハーシュを安心させようと笑顔を向ける。

「本当に心配しないで、姉さま。私、精一杯看病したから、願いが神様に届いたのかなあって。勇者様、前にも増してキズだらけになったけど、キズが増えるたびにお優しくなったような気がするわ」

 ハーシュには、あの乱暴者が優しくなるとはとても思えなかったが、どんな事情があろうと離婚された女というレッテルが貼られるよりはマシだと思った。この封建的な村では、一度離婚した女が再婚できることは有り得ない。その後の人生を、差別を受けながら生きることになる。

「そう、それなら良いけど……でも、私だけには何でも本音で言ってよ。聞くことしかできないけど」

「ありがとう、姉さま。もう少し勇者様が元気になられたら、ぜひ会いに来てね」

 こういったことをニベヤが口にすること自体が、ハーシュにとっては驚きだった。一ヶ月前の怯えきった姿からは考えられない。

「ええ、伺うわ。また、イスを投げつけられなければいいけど」

 この世界のイスは、多くが丸太を座りやすい高さに切っただけの物だ。勇者とニベヤが結婚して間もない頃、ハーシュは家を訪ねたが、些細なことで勇者の機嫌を損ねてしまい、その丸太を投げつけられたことがあった。身を屈めて避けなかったら、骨の二、三本は折れていただろう。

「そんなこと、もう絶対ないから。お言葉使いから、本当に優しいの」

 ――今だけでしょうね。元気になれば、また元の乱暴者に戻るに違いない……。

 ハーシュは、ニベヤを哀れに思った。

「では、姉さま。身体を洗って勇者様の元に戻らないと」

「カゼひかないでね」

 ハーシュは、浴場へ入るニベヤに手を振った。

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