your sound ~君の声~

雪乃 直

your sound ~君の声~

 仕事帰り、最寄り駅の改札を出た瞬間に聞こえてきた周りの騒音。

 おかしい、さっきまで私の耳にはジャズの綺麗なメロディーが聴こえていたはずなのに。耳元にあるイヤホンの再生ボタンを何度押してもそれは全く聴こえてこない。いつも聴いているお気に入りのジャズがどうにも流れてこない。

 もしやと思い、ポケットから携帯を取り出して画面を確認すれば【ワイヤレスイヤホンの充電切れ】と、嫌な予想が当たってしまったこと実感する文字がそこにはあった。

 最悪だ。今日は他にイヤホンを持ってきていないのに充電切れだなんて、ついてない。


 いつからこうなったのかは覚えていないけど、周りの音に敏感になり、他人が放つ音を聞いていると落ち着かず、次第に苛々するようになった。知らない人達が笑顔で放つ誰かの悪口、交通ルールを無視した誰かへの怒りをぶつける様な大きなクラクション、遠慮も配慮も無くバタンッと閉じられたドアの音。

 そう言った周りの音を聞いているのが辛くて、世間をシャットアウトするように外出する時は、いつもイヤホンで音楽を聴くようになった。でも、音そのものが嫌いな訳ではなく、好きな音も勿論ある。その一つが、クラシックとジャズ。外出の際、外で聞く音楽は決まってこの二つと決めている。この音楽たちには無駄が無い。音と音の素晴らしい重なりや表現で心が落ち着く。

 だから、「声」なんて要らない、「歌」なんて要らない。


 このまま騒音を聞きながら歩いて帰るなんて耐えられる訳もなく、いち早く騒音から身を守る為に新しいイヤホンを手に入れなければ。そう思ってコンビニを探しに歩く。それでも前を歩く女性のコツコツと響くヒール音に、斜め前のおじさんの踵を擦るように歩く音が気になって仕方がない。あれじゃどちらも煩いだけじゃなくて靴が可哀想だ。


 この世界は、ノイズだらけ……


 普段は気にもならない路上ライブが、今日は嫌でも耳に入る音、音、音。

 ギターも歌も音が合っていなくて下手くそ。この公園は、いつでも路上ライブをやっている人が多くて、管理してくれている自治体の方には申し訳ないけど、個人的には本当に最悪な場所だと思っている。

 正直、路上ライブなんて禁止になれば良いのに。そんなことを思っても一番近いコンビニに行くには、この公園を通るのが近道故に、我慢して通るしかない。二組、三組、四組――   

 一人で歌っている人やグループで歌っている人、そんな人たちを全員無視して歩いて行く。「良かったら聞いていってください」歌の合間にそう呼びかける青年。合間に喋ることで、その曲の世界観は、ぶち壊し。そうやって呼び止めている姿を見ると余計に冷めてしまう。歌が良ければ、きっと人は立ち止まるだろう。貴方の歌に聞き入るだろう。そう思うからこそ、そうやって呼び込みみたいに声を掛けられることが嫌いだったりする。


 ライブをやっている人たちは、公園内のある一定区間に固まっているけれど、一人だけその区間から離れて歌っている女の子がいた。マイクを使わずギター一本で弾き語りか……。

 機材を使わないなんて相当自信があるか初心者か、どっちかだろう。それにしても、あそこの女の子のところだけ人が少ない。上手くないのかな……、それなら早く通り過ぎたい。そう思い気持ち早歩きで向かって行く。


 近づくにつれて聞こえ始める彼女の歌声。えっ、……きれい……

 聞いたことの無い歌だけど、彼女はとても綺麗な音で歌っている。『聴きたい』そう思うと自然と彼女の前で足は止まっていた。でも、どうして他の人は彼女の歌を聴かないんだろう。こんなにも綺麗な声なのに……。あっちで歌っている人たちよりも彼女が放つ声はとても綺麗で比べ物にならないほど上手いのに……


 【目指せCD千枚完売!自主制作CD一枚千円!】

 彼女の足元に置かれたボードにはそう書かれていた。そして、その文字の隣に書き足された【残り一枚!】の文字。ラスト一枚か……。


「最後まで聞いてくださって、ありがとうございました!」

 今のが最後の曲だったんだ、彼女は歌い終わり、数人の観客へ向けて挨拶をするとすぐに片づけを初めた。

「あの、」

「はい!」

 はい、このたった一言ですら、彼女の声はとても綺麗だと思った。

「あっ……、あの、CDってあと一枚だけなんですか?」

「そうなんです! あと1枚で千枚達成なんです!」

 笑顔でそう答えてくれた彼女の表情にどきっとする。ぽつりぽつりと立っている街灯の明かりだけじゃ他の人の表情なんてはっきりとは見えないのに、彼女の笑顔だけは鮮明に見えた。

「……その一枚ください」


 無意識とは怖いもので、自分で言った言葉に内心とても驚いてしまった。とは言え、私の言葉を聞いた彼女がこれでもかと言う程、キラキラした表情になったのを見て、先ほど放った言葉への後悔は少しも無かった。

「えっ、本当ですか?」

「はい……、その最後の一枚、ください」

「ありがとうございます!やった!これで千枚完売だー!」

 両手を夜空に挙げて体全体で喜んでいる彼女を見ているとこっちまで嬉しくなって、自分も微笑んでいることに気付く。誰かの笑顔で自分も笑顔になるなんていつぶりだろう。

「あの、お金」

「あ、ごめんなさい!ちょっと待ってくださいね」

「いえ」

「あの、お名前何て言うんですか?」

「えっ、名前?」

「はい」

「えっと、高原です。高原律です」

「律さんかー、はい、ありがとうございます」

 千円札を渡すと彼女は、CDケースを開けて中の歌詞カードに何か書いていた。書き終わると丁寧にケースにしまい、淡いピンク色の可愛らしい袋に入れて手渡してくれた。

「中のメッセージは、あとで読んでくださいね!」

「メッセージ?」

「はい!」

「分かりました。あの、じゃ帰ります……」

「帰り道気を付けて下さいね! おやすみなさい!」


 おやすみなさい。その言葉になんだか照れてしまい、ちゃんと返事ができなくて、かわりに会釈をしてまた歩き出した。慣れないことはするもんじゃない。頬が熱いのは、きっと気温のせいじゃない。はぁ、久しぶりのこの感覚に戸惑ってしまう、全くどうしたものか……。

 左手にあるピンク色の袋を眺めながらふと思った。そう言えば、初めてジャズやクラシック以外のCDを買った。最後の一枚、この一枚を買い逃したらもう彼女の歌を聴けないかもしれない。そう思ったら、嫌だった。今までこんなこと思ったこと無かったのに。

 彼女の歌声は、また聴きたいと思った。綺麗な声だったなー……


 律さん

 今日は私の歌を聞いてくれてありがとうございました!

 最後の一枚を律さんが手にしてくれて本当に嬉しいです。

 沢山曲聞いてくださいね!

 愛羽より


 帰宅後にピンク色からCDを取り出し、歌詞カードに書かれていたメッセージを確認すれば、そこには彼女の名前もあった。愛羽さん、名前まで綺麗な人。

 沢山聞いてください、か。CDには三曲入っていて全部聴きたいと思い、すぐにパソコンに取り入れて曲を携帯に移す。よし、これでいつでも聴ける。

 この日からずっと愛羽さんの歌を聴くようになった。外出する時も家で作業をする時もずっと。イヤホンから聴こえてくる声は、路上ライブの時に聴いた声と同じで、綺麗な声に心が穏やかになる。

 愛羽さんの歌を聴きながら街を歩くと今まで気付かなかった景色に目がいくようになった。同じ制服を着て楽しそうに笑いあう高校生や優しい眼差しで子供を見つめる母親たち、道に迷った人に優しく道案内をする若い夫婦、お先にどうぞ、と歩行者へ道を譲ってくれるトラックの運転手さん。こんな風に素敵だな、良いなって感じることに出会えることが多くなった。

 これは、世界が急に変わったわけじゃなくて、今までもちゃんとそこにあったのにその優しさに気付ける余裕を私が持ちあわせていなかっただけだった。今までは、外出しても人の嫌な部分ばかりが目についていたのに、まるで愛羽さんの歌声に魔法を掛けられたかのように見える世界が大きく変わった。


 暫くの間、愛羽さんの歌を聴くことで穏やかに過ごしていたけれど、無欲だと思っていても人はどんどん欲が出てくる生き物だ。「また直接、聴きたい……」私は、そう思い始めてしまった。

 愛羽さんは今夜もあの公園にいるだろうか。朝からそんな事を思いながら会社に向かい、少しも残業をしたくないと言う思いのおかげか、しっかりと定時に会社を出て、あの公園に向かう。朝、会社へ向かう時とは比べ物にならない程、体は疲れているはずなのに朝よりも足取りが軽いのは、早く愛羽さんの歌が聴きたいからだろうか。


 そして、彼女は、今夜も此処にいた。


 今日も一人、離れた場所でギター一本で歌う愛羽さんを見つけて、なんだかとても安心した。彼女は変わらず此処に居てくれた。近くまで行くと気付いてくれたのか、愛羽さんは歌いながらにこっと微笑んでくれた。その笑顔に嬉しさと恥ずかしさでどうして良いのか分からず、また会釈だけで返す自分に内心ため息をつく。

 何曲か連続で歌った愛羽さんは、ペットボトルの水を二口ほど飲んで、またにこっと微笑んでくれた。

「律さん、お久しぶりです!」

「えっ、あ、お久しぶりです」

 不意に名前を呼ばれてどきっとする。一度だけしか会っていないのに名前を呼んでもらえたこと、覚えていてくれたことが凄く嬉しかった。それに、愛羽さんから向けられた笑顔に嬉しくなる。


「良かった……」

 少しだけ切なそうに呟く貴女の小さな声

「えっ?」

「初めて歌を聴いてくれた日以来、律さん来てくれなかったから、私の歌嫌いだったかなって、CD良くなかったかなって心配で……」

 そんなことない。だって、ずっと愛羽さんの歌に癒されて、救われていたのに――

「好きです」

「えっ……」

「あっ、いや、その……愛羽さんの歌声、凄く好きです」

「……ほんとうですか?」

 精一杯にうん。と頷き、本当だと言う思いを必死に伝える。

「あのCD、すぐに携帯に曲を入れてずっと聴いてました」

「……嬉しい」

 微笑む愛羽さんは、とても可愛らしくて、少しだけ心臓がぎゅっと掴まれたように痛む。この感覚の理由を知っているけど、全部に気付いてしまえば、もうここに来る勇気が持てない。それなら最後までファンでいた方が幸せだと思う。


「律さん、今日この後お時間ありますか?」

「ん?……はい」

「それじゃ、今日も最後まで私の歌、聴いてくれませんか?」

「はい」

 CDにも入っていた愛羽さんのオリジナルの曲や、アーティストのカバーを全部で三曲歌い、今夜は早めに終わると告げる彼女。もう少し聴いていたかったと思いつつ、愛羽さんにも予定があるだろうし、個人的な我が儘は言えないのでさっと諦める。また聴きに来ればいいかと自分を納得させて、この後はスーパーに寄って夕食の買い物をしてから帰ろう、なんて考えながら歩き出す。

「待って、律さん!」

 えっ……

「……愛羽さん?」

 はぁ、はぁ、と息を切らしながら背中にギターケースを背負った愛羽さんがゆっくりと走ってくる。

「待って……、律さん、歩くの早い」

「あっ、すみません……、何か用でしたか?」

「用って、律さんこそ何か用ですか?」

「えっ?」

「だって、さっき今日は時間あるって言ってたのに歌い終わったらすぐにどっか行っちゃうから……」

「それは……愛羽さん今日はもう歌い終わったみたいだから、帰ろうかなって」

「だめです!」

「えっ……?」

「お腹空きました、ご飯食べに行きましょ!」

「えっ、いやちょっと待ってください」

「お腹空いてませんか?」

「空いてますけど……なんで?」

「なんでって?」

「いやだって、ファンとご飯って行って良いんですか?」

「……ファン?」

「……はい」

 ファンとかファンじゃないとか関係ないです。と、少しだけ不貞腐れた表情で頬を膨らませて言い放った愛羽さんは、遠慮も配慮も無くグッと私の左手を掴んで歩き出した。

 何が食べたいとか、何が苦手とか嫌いとかそんなことは訊いてくれず、愛羽さんは真っ直ぐ迷わず歩く。どこに行くんだろうと気になったけど、きっと愛羽さんとだったらどこに行っても楽しくて、何を食べても美味しく感じるだろうな。


 愛羽さんが話し掛けてくれる、愛羽さんがずっと独り言を喋っている、鼻歌を歌ったり、歌の練習をしたり、寝言を言ったり、夢を語ったり、喧嘩したり、声を出して大笑いしたり、怒ったり、拗ねたり、泣いたり。

 気付けば、私は何をするにも愛羽さんの声に包まれていて、いつしか外出する時にイヤホンをしなくても平気になった。


 この世界は、思っていたほど悪くないのかもしれない。



「ねぇ、律、この世界は音楽で溢れてるんだよ?」

「……音楽?」

「うん、誰かの足音も鳥の鳴き声も車の走る音も全部全部、音楽なんだよ」

「そんなの大袈裟だよ」

「大袈裟なんかじゃないもん。いつか律にも沢山の音を好きになってほしいな……」

「いいよ、愛羽の声があれば他は要らない」

「だめだよ、それじゃ一緒に楽しめないじゃん」

「愛羽……」

「私は、律に沢山私の歌を聴いて欲しいし、律と沢山の音楽を聴きたい。私の歌を好きだって言ってもらえて本当に嬉しかったの。でも、私の歌だけじゃなくて、律には音楽もちゃんと好きになってもらいたいの。私の好きな音楽を律にも好きになってほしい」

「……うん、ありがとう」

「好きな人には自分の好きなものも好きになってもらいたいもん」

「えっ……愛羽――」


 それってどう言う意味って訊こうとした瞬間、愛羽はにこっと私の大好きなあの笑顔で先を歩き出す。

「ほら、律。早く行こう?」

 心臓をぎゅっと掴まれたような痛みと共に愛おしさと切なさで一杯になる。同じ気持ちだよと伝えたくて、先を歩く愛羽の手を握り、隣に並んで歩く。照れくさそうに笑う愛羽の表情は、とても綺麗で可愛くて大好きだと思い知らされる。こんなにも好きな気持ちが溢れるなんて初めてで、愛羽に出会えて本当に良かった――


 ねぇ、愛羽

 これからもずっと、愛羽の歌を聴かせて

 その魔法の歌声を、ずっと一番近くで

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