名前のない怪物

 脂や臓器の切れ端で汚れた手や身体を小川で洗い流し、血で汚れた白衣は森の奥深くに埋めてきた。


 酒、それも格別に質の悪いもの、に酩酊したようなひどく陰鬱に醒めた気分で私は月夜を町に向かって歩いていた。


 ふと夜空を見上げると月の周囲に雲がほの暗く沈殿して女体のような艶やかな丸みを帯びているのが見えた。それははるか記憶の底に沈殿していた姉の記憶を呼び覚ました。


 姉さんの血は旨かった。


 美しい魔性を宿した、処女の血は。


 やがて、帝都ロンドンの街灯もない真っ暗な貧民街にたどり着いた。道の端に何か動く影があった。見るとそれは背の曲がった老女で、ゴミの中から何かを探し出そうとしているようだった。


 老女も私の存在に気が付いたようで警戒する様子のまま、まばたきもせず私が通り過ぎるまでじっとこちらを睨むように見ていた。浅ましく動く棒のような両手足はまるで得体の知れない虫のようだった。私はそんな老女に内心で寛容な微笑みを浮かべ、我が家の中に入っていった。


 ドアを静かに閉めると、私は自分の診察室から光が漏れているのを不思議に思った。仕切りのカーテンを開けると私の机のところにレティシャがうずくまっていた。


「先生…?!」


 レティシャは驚いた顔で後ろ手に何かを隠すと、飛びのくように後ずった。診察台にレティシャの身体がぶつかり小さく悲鳴を上げた。


「レティシャ…??こんな夜遅くに何をしているのですか…??」


 レティシャは悪戯を咎められたように小さくなっていた。


「申し訳ありません…」


 レティシャが後ろ手に隠したものをおずおずと差し出してきた。それは医学書とノートだった。ランプの下で読んでいたのだろう。


「…少しでも先生のお役に……立ちたくて…」


 そういったレティシャを、私はいじらしく思った。私は気の抜けたようなため息をつき、笑みを浮かべてレティシャの背丈まで目線を合わせると諭すように言った。


「レティシャ…私を助けようというあなたの気持ちを私はとても嬉しく思います。……それは紛れもなくあなたの善なる想いからなる行動です。…しかし夜更かしは体に毒ですよ。私にとって何よりもあなたの存在そのものが既にして救いなのです。わかっていただけますか??」


 レティシャは俯いたままうなづいた。


「今日はもう寝ましょうか」


「………はい……」


 診察室を出ていくレティシャの白く美しいうなじがちらりと覗いた。


 耳の奥で自らの欲望の律動が微かにズクン、と聞こえたような気がした。


 レティシャの血…処女の血は…


 いったん考え始めるとそれを中断することは難しかった。


「先生」


 レティシャは階段の前でこちらを振り返ると、どこか戸惑ったような顔で言った。


「先生は…こんな深夜にどこへ行ってらしたのですか?」


 女の勘というものだろうか。


「…散歩・・ですよ」


 そうだよ、小さなレティシャ。お前はなんにも知らない。お前の目の前にいる怪物のことを。


「…月があんまり綺麗でしたから」


 私はレティシャに対して、まるで稚児をあやすような感情が湧いた。レティシャへの笑顔を作ることはとても容易い。


 レティシャは安堵した表情になった。


「深夜の散歩なんて、素敵ね。いつか私も連れて行ってください」


「…そうですね…考えておきましょう」


 二階へ上がっていくレティシャを見送ると私は体内に喚起された情動にゆっくりと蓋を閉めながら診療所の灯りを落とし、自らの寝所へ向かった。


 頭蓋の血管が張りつめ、びしぴしと音を立てて欲望が律動している。


 また血を欲しがっている。


 次の『狩り』まではまだ時間があるというのに。

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