奴隷市の夜

 レティシャは私の奴隷だ。


 これは性質たちの悪いレトリックでもなんでもない。


「お前がこんな誘いに応じるとは驚きだ」


 レザボアは一見して安そうな煙草を吸いながら面白がるようにそう言った。レザボアとの付き合いは長く、私が最初に帝都ロンドンに来た時に借金をして市民証を偽造してもらったのが付き合いの始まりだった。始まりからしてそのようであるため、悪友としての付き合いになることは必然といえよう。


 私がその夜レザボアからの、奴隷市場に行かないか、という何とも悪趣味な誘いに乗ったのはなぜだろうか。


 今となって、それは自明という気がする。


 それは私がわざわざ貧民街で診療所を開業していることと同じ理由だったろう。


 おそらく人の欲望や罪悪に最も近い場所に自らをひたし、他者の悪を眺めることによって、怠惰な安心感を得ようとしているのだ。


 革命により産業の構造の変革が顕著な近代に至っても奴隷に人権を認めることができないという人間の矛盾を私は滑稽だと思っていた。だが世相には紛れもなく人間の仄暗い真理が通奏低音の如く流れているものだ。


 正しくあろうとしながらも、どうしようもない暗部を同時に抱えている。それは自慰を覚えたばかりの子供の様に、切実であるがゆえに尚更滑稽で悲哀に満ちている。


 そして私はその不完全性ゆえに人間という存在をいとおしむのだ。


 貧民街を通り抜け、奴隷市場が催されている通りからひと際大きなテントにたどり着くと中は異様な熱気だった。中の人間はそれこそ種々雑多で、冷やかしで来たと思しき酔っぱらいから身なりのいい貴族のような男まで様々だ。


 着くなりレザボアは端にいた男とこそこそと話し始めた。


 私は初めての場所で辺りを観察するように眺めた。貧富様々な客達の一様に興奮した下品な横顔を見て昏い満足感を感じていたところ、男と話し終わったレザボアがこちらに耳打ちしてきた。


「おい、今出てる“あれ”が今夜の目玉だ」


 そういわれて私は初めて舞台の上に視線を移した。


 そこにいたのは金髪の全裸の少女だった。齢は12か13といったところだろうか。


 恥じるように、絶望しきったように、両手で露わになった裸体を隠そうと甲斐甲斐しい努力をしていた。


 所作や顔立ちの上品さから、おそらく高貴な家の出であることが見て取れた。


 奴隷商人の男が客を煽るように金額を怒鳴り散らす。客は意味もなく猥雑な言葉を舞台の上の少女に浴びせる。場の興奮は天井知らずに上がっていくようだった。


 ふと、一匹の蛾が少女の右肩の上に止まった。まるで少女の光に吸い寄せられたかのようだった。


 少女にはどちらかというと蝶が似合うように思われたが、グロテスクな紋様が羽に描かれた蛾だった。


 私はそのモチーフに心を奪われた。


 少女の純真さとその光に吸い寄せられる蛾は少女とここに会する下種達の隠喩メタファーであり、引いてはこの奴隷市の象徴アレゴリーのように思えた。


 だが、さらに驚くことには、それだけでは終わらなかったのだ。


 少女は蛾に気が付くと震える指で拭うように、手の甲にそっと乗せた。


 少女は監視員の方を見て注意が向けられていないことを確認すると、その手の甲を暗い舞台袖に向けて振り、静かに追い払った。


 少女は一瞬だけ薄く微笑んだように思ったが、すぐに元の痛ましい表情に戻った。


 私はその一連の出来事を、私は場の喧騒から取り残されたように。その一部始終を無音の活動写真を眺める様に見ていた。


 こんなにも醜い欲望の渦巻く世界であの少女は一体何を見て、何を信じようとしているのだろう。


 少女に口汚く猥褻な言葉を投げかける男、威圧的な様相で鞭を振る監視員、好色そうな目を少女に向けては舌なめずりする男。


 こんな醜悪な地獄に一体何を見て、何を信じているのだろうか。


 その時浮かんだ感情に名前をつけるとすれば、好奇心だった。


 そう、ただの好奇心だった。だが、それが結果として私に行動を起こさせたのだ。


「……1400」


 私は舞台に向けて手を挙げてそう言った。一瞬、場が静まり返った。


「…そこの紳士は今、何と?」


 舞台の上にいる商人が聞き直してきた。


「1400……1400です。コール」


 周囲がどよめき始めた。視界の端のレザボアはどこか面白がるような顔で私の顔を見ていた。


「馬鹿かあいつは!?」


「家一つ買える金額だぞ!!」


 会場からどよめきと非難めいた声と囃し立てるような声が同時に聞こえた。


「…おい、見ない顔だが冷やかしじゃないだろうな」


 ぼそりと事務的な声色で後ろから声がかかった。背中の辺りに重たい何かが突きつけられた感触がした。


 私は振り返らずに懐から帝都の紋章付きの医師免許証を取り出して後ろ手で男に示した。


「私はクライド。医者を生業としています。流石にこの場で即金とはいきませんが、足りない分は小切手で支払いましょう」


 男は私の取り出した免許証を隅々まで確認すると無言で去っていった。


 医者、という肩書が私の提示した金額に説得力を与えてくれたようだ。


 一人の貴族商人らしき男は額に青筋を立ててこちらを睨みつけていた。先ほどまでの高レートを声高に叫んでいた男だ。私は見て見ぬふりした。


 私は自分自身がこの状況を少しばかり楽しみ始めていることに気がついた。


「…1500…!!1500でコールだ!!」


 その貴族の男の一声で場がまた盛り上がる。


「では2000でコールします」


 追随する私の一声で場にさらにどよめきが増した。


 おそらくここにいる集まっている人間達に私は誰よりも娯楽エンターテインメントを提供している。そう考えると何とも底意地の悪い快感が背中を貫くように感じた。


 なんと献身的なクライド!


 私はこの享楽的な放蕩がもたらす高揚に身を委ねることにした。


「……くそったれ!!この小児性愛ペドフィリアの気違いが!!」


 貴族商人の男は吐き捨てるように言うと席から立ち場外へと去っていった。


 おそらく最有力の落札者候補と目されていたであろう男が場を降りたことで、会場にはしんとした空気が流れた。


「…それでは…2000で確定でよろしいでしょうか?」


 奴隷商人の一声にも静まり返ったままの会場に、私は少しばかり自らのサービスが過ぎたことを知った。

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