魑魅魍魎跋扈

 澄んだ夜。月明かりが煌々と輝き、小川から清水が流れる音が聞こえる。足元の微かな芝の感触が革靴ごしに伝わってくる。


 歩いているだけでも無心に至れるような、そんな静謐で清新な夜だった。


 帝都ロンドンの北の外れへ向けて一刻も歩けば、魔物が跋扈ばっこする森にたどり着く。


 近代化と共に魔物と人間の棲み分けというのは見事なほど秩序だったものになった。人間達がむやみやたらに魔物に近づかないようにすることは昔からの習性だが、近年では魔物達が自分たちの住処を侵犯せずに済むよう、魔力磁場を利用して生活圏を保護していた。数年前から観察しているだけの門外漢の私から見てもその技術の進歩についてはつくづく見事なものと感心せざるを得ない。


 知能の高い魔物達にも人間の近代兵器など諸々の危険性が知れ渡った向きもあり、人間の里に近づくことは滅多になくなっていた。


 私は人間と魔物のいずれにも属さないが、どちらかと言えば魔物に近いのだろうか。人として暮らすようになったのは数年前のことだった。私は吸血鬼ヴァンパイアとしての永い一生の中で気まぐれに人の真似事をしているに過ぎないのかも知れない。


 取り留めもない思考に耽りながら歩いていると、ようやく森の入り口に差し掛かった。


 木の上から不穏な鳴き声を投げかけてくる暗闇の梟に対して、挨拶のつもりで私は微笑を浮かべる。


 夜になってから本性が顔を出す点で、私たちはそう変わらない。


 時折どうしようもなく血を欲することを止める術はなく、私は夜に白衣を羽織り闇深い森の中へと繰り出す。


 月に一度買い取る輸血パックだけでは収めようがない。レザボアの持ってくるものは時折老人や病人の血など粗悪品・・・も混ざっており、量も乏しい。


 四足動物なら百歩譲っても、魔物の血を啜るなど同胞が知れば顔をしかめるだろう。魔物の血など下手物ゲテモノもいいところだ。


 如何にも吸血鬼ヴァンパイアらしい唯美的価値基準に思えるが、その血液の所有者が美しいほどに美味いという暗黙の真実がある。


 美しい女の、それも処女のものであれば至高だ。


 私はレティシャのことを思い出した。


 ここ4.5年で随分と美しく成長したレティシャは、修道女のような高潔さと聖母のような柔和さを身に纏っている。貧民街という場所柄、そんな彼女に下卑た態度を示す者も時たまいるようだが、意外にも恭順の意を示す貧困者も多かった。確かにレティシャの放つ美しさには人々の信仰に足る何かがあるようにすら思う。


 相変わらず漫然とした物思いに耽りながら昏い森の中を歩いていると、濃密な魔力を感じた。


 するとそこにあった巨木のような巨体が振り返った。気が付くと私はオルクと20フィートほどの至近距離で対峙していた。


 力の差は私から見たら歴然としていたが、鬼はそれにも構わず突進してきた。


 おそらくひ弱な人間の男に見えたのだろう。半端な知能が災いしている、と私は他人事のように思った。


 私は体内から赫手かくしゅをぬらりと取り出した。


 赫手かくしゅはしなる鋼鉄のような吸血器官。純度の高い高位の吸血鬼ヴァンパイアほど、獰猛な捕食のための器官である赫手かくしゅが備わっている。


 私の赫手かくしゅは肩甲骨と左右の肺臓の下辺り。合わせて四本が生えている。


 オルクには私が体を揺らしたようにしか見えなかっただろう。


 時間にして、数舜。私の赫手の上には熱い血潮が流れる臓物がびくびくと痙攣するように脈動していた。


 オルクは茫然としたのち、口から空気が抜けたような声を上げると大きな音を立てて巨体を地に伏した。


 私は赫手の上にあるまだビクビクと脈動する血の出ずる臓物を月夜に掲げた。そこから溢れ出る真紅の液体を舌の上で転がす。


 不快な粘性と臭みがあり、どうしようもなく不味い。だが体内に収まってしまえば味など関係がないことだ。


 最後の搾りかすまで飲み干すと背中の方から新たな魔物の気配がした。どことなくこちらを伺うような気配を感じる。


 こちらの能力を推し量るほどの力はあるのだから、先ほどよりは愉しめるだろうか。


 そこでいつの間にか目的と手段を混同している自分に気が付き私は苦笑した。


 血を求めるために魔物を屠るはずが、魔物を屠ること自体が目的にすり替わっている。魔物の血の匂いと味は少なからず私に高揚を与えているようだった。


 私は殺気で歪む空間から横に飛びのき、自分がいた空間に爪の一閃が通り過ぎるのを眺めながら、第二の獲物の心臓目掛けて再び赫手を振るった。

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