虚眼の魔女
突如としてバクティーヌを覆い隠すような魔術陣が現れた時、その見慣れぬ紋様。文字を認めた多くの魔女達は、「どうしようも無い事態」が起こったと自失した。
バクティーヌを飲み込まんとするように、魔術陣の中心から顔を覗かせ、大顎を開く竜を認めた兵士達は、ぼんやりと「国家の消失危機」を悟った。
早朝より続く忌々しいあらゆる元凶が如き振る舞う竜は、まさにバクティーヌ、カンダレアを灰燼へと帰して初めて、充足を覚えて異界に戻るのだ――。
上空を見上げる民草は、皆一様に思い、ある者は跪いて竜に慈悲を願った。またある者は近くの者と抱擁し合い、これまでの感謝を述べた。
「…………何だ、ありゃ……」
「……竜、というより……」
化け物――カンダレア大獄の中央広場で立ち尽くすハニィが言った。彼女が持つ大量のパンを載せた盆を横目で見やり、監督官のザエルは「もういいよ」と呟いた。
「はい……?」
他の監督官や衛兵達も二人と同じくバクティーヌ上空を見上げ、血の気の引いた表情を浮かべている。誰もその場から離れないのは、「何処へ行こうと結末は同じである」と、無意識に理解しているからだった。
「もう、手伝わなくていいって言っているんだよ。ハニィちゃん……君、逃げなよ」
すぐにハニィはかぶりを振ったが、ザエルは空中を裂くようにして佇む竜を見つめながら、虚ろな声で「馬、乗れるかい」と訊ねた。
「連絡用の早馬がさっき戻って来たんだ。誰も使わないし、もう……使う事も無いさ。何処まで逃げれば助かるか分からないけど、ハニィちゃんだけでも――」
「ザエルさんは……?」
青白い顔で彼は笑った。泣きたいのに笑ってしまうような、悲愴的なものだった。
「俺は無理だ。馬術はからっきしだし、持ち場を離れる訳にはいかないからさ」
「じゃあ私も」ハニィは返した。
「私もここを離れません。だって……さっき言ったじゃないですか、『私はヒナシア様の杖の代わりになる』って」
「……ハハハ、そんな事も言っていたなぁ。でも、もう充分だ。バクティーヌどころじゃない、カンダレア自体が傾くかも――いや、もう傾いてんだ。俺には分かる、こういうのだけは当たるんだ、俺。バクティーヌで稼いだ事は一度も無いけど……うん、こんなのだけは当たるのよ」
胸を掻き毟られるような、鼓膜を直接触られるような不快感を覚える声が、バクティーヌの方から聞こえた。大獄の壁面に空いた「開かない小窓」に顔を近付け、囚人達が不安そうに鉄格子を掴んでいた。
数秒の間を置き、「だったら」とハニィが言った。
「私と賭けませんか」
「……賭けるって、何を――」
「カンダレアが助かる方に私は賭けます。ザエルさんは……カンダレアの滅亡に賭けて下さい」
俄にザエルの表情が曇った。
「……そっちに賭けるのは流石に――」
でしたら……ハニィは力強く笑み、今にも地表ごとカンダレアを噛み砕かんばかりに口を開く竜を指差した。
「私と一緒に賭けませんか。今度こそ――勝ちましょうよ、賭けに。……確かに、勝つ確率は凄く低いかもしれません。ですが、この国には頼もしい魔女が沢山います、それに――」
竜の口が光ったぞ、と、一人の囚人が叫んだ。
「もう一人、頼れる魔女が増えたじゃありませんか。少しでも勝ちが見えるのなら、少しでも希望が射したのなら……」
二回光った、と別の囚人が叫んだ。
「『我々は全てに賭ける』、です」
「……ゴホッ、ゴホッ……」
褐色の魔女、ヒナシア・オーレンタリスが為す術も無いように立ち尽くすのを見下ろし、狂える墜堕の魔女エルキュオーラ・ジャベロは喜色に満ち満ちた笑顔を浮かべ……幾度も吐血した。
魔術、《亜命心竜》は非常な破壊力と威圧感を敵に与える事が出来るが、如何せん、魔力の燃費が悪過ぎた。人工竜種の形態維持、竜種自体の生命維持、超常的生物の行動維持と、発動後の方が魔力を必要としたのである。
竜吹砲発射に至る、僅かな時の中で……エルキュオーラは自身を蝕む「自身の魔力」の香りに怯えた。が――。
「……ゲホッ、ゲホッ!」
憎き焔纏の魔女を葬る事が出来るのなら、無限に思えた命が消えたとしても、それ程の悲しみは無かった。
亜空間より出でた竜の口内が眩く輝いた。ヒナシア、バクティーヌ、カンダレアの終焉を報せる福音に違い無く——。
エルキュオーラは、静かに微笑んだ。
上空で嘲笑うエルキュオーラの口元から、止め処無く垂れ落ちる鮮血を認めた時、ヒナシアは種々の思考を停止し、たった一つの「決断」に出た。
莫大な借金による軟禁的生活とはいえ、それでも楽しかったカンダレアでの生活。着実と増えていった友人達との交流。積み上げて来たヒナシア・オーレンタリスとしての「明るい虚構」。果たしてその通りとなり掛けた全てを――。
ヒナシアは、捨てる事にした。
そして、自身を取り巻く温みを捨て去った経験は、過去にもあった。
「…………」
その気になれば逃げる事も出来る、カンダレアなど放棄し、自分を知らない人々で溢れた土地で生きて行く事も可能だった。
合理的な選択を、しかし彼女は選べなかった。
カンダレアに住まう人々への感謝、心優しき彼らへの贖罪として――彼女は今、そこに立ち続けた。
「……っ」
一粒、彼女の右目から涙が落ちた。
誰も知る由が無かった「秘匿すべき正体」へと戻る前の、一種の決別意識でもあった。
持っていた杖を投げ捨て、両手に涎を塗り込む。徐に下腹部の辺りに両手を押し込むと……唾液の付着箇所から、黒い茨のような紋様が浮かび上がり、顔面にまでこれが駆け巡った。
「……はぁっ?」
理解し難い光景を目の当たりにし、身体が震え出すエルキュオーラ。変貌していく魔女の姿を刮目する内に……。
捨てて来たはずの記憶が、狂気で塗り潰した過去が——ソッと、彼女を抱き締めた。
「やっぱり、やっぱり隠していた……」
禍々しき黒紋はやがて全身に行き渡り、邪教徒の奇願を下獄へ届けるべく、踊り狂う巫女のような様相と成り果てた。紅緋に輝いていた美しき双眼は、次第に神々しさ、燃え盛るような清廉さを失い――。
「…………お前、最低の魔女だ。皆……流石にそこまではしなかったのに」
ふと、ヒナシアは、怯え切った墜堕の魔女を、ゆっくりと——横倒しの双眼で見上げ、妖しき赤光を放った。
あの術、もしかして——。
刹那、エルキュオーラの腹部が円状に圧壊し、周囲に臓腑や骨が飛び散った。
「…………っ、あ……あぁ…………!」
目に光を失ったエルキュオーラは、最期の足掻きとして、魔術陣の竜を一瞥し、竜吹砲発射の合図を出した。一秒後、主人の望み通りに人工竜は口内から破壊的光線を放ち、ヒナシアの抹殺を開始した。
「……お願……い……どう……か……殺して……」
道理を忘れた、虚眼の魔女を……。
地面に落ちたエルキュオーラの身体は、二度と再生する事は無かった。
「……」
動かなくなった肉塊に目もくれず、異形の双眼を取り戻した魔女は、迫り来る竜吹砲に左手を向けると……。
計三〇に及ぶ呪術陣の結界を生成した。術者を守護するが如く一列に並んだそれは、全てが暗色に染まり、また強力無比な防壁と化した。
宿主を失った竜は見る見る内に弱まり、竜吹砲の威力を下げていき……。
果たして、結界を一枚も破る事が出来ずに射出を終えてしまった。
寸刻置かずにヒナシアが左手に力を込めると、三〇もの結界は一挙に重なり合い、一個の「光弾」へと変質し——。
魔術陣ごと、亜空間由来の怪物を爆砕したのであった。飛散した竜の肉片は粉雪のように舞い落ち、やがて消えた。
奇々怪怪なる両の瞳は、消し飛ぶはずだったバクティーヌの地表から、疎外されたような一掴みの雲を見つめていた。
美しい褐色の肌には、見る者を怯ませる邪気を孕んだ紋様が浮かんでいる。彼女は自らの頬を、腕を、胸を、腹部を撫で……。
唯、その場に佇んでいた。
最早隠し立てもままならない、呪われるべき圧倒的な戦力。エルキュオーラだけにとはいえ、人目に晒してしまったのは事実であった。
他者を欺いていた多くの忌避的秘密——例えば、ヒナシアは魔女でありながら、「魔力では無い別の力を使う事」である。
ヒナシアの五体に流れる、魔力とは異なるもの。
一部の識者は、これを《呪力》と呼んでいた——。
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