魔女の見参
幼い弟を背負った少年カイルが避難所の扉を開けた時、一人の魔女を中心として、大勢の避難民が車座となって座っていた。一番最初に扉の方を振り返ったのは、カイルと日頃から喧嘩ばかりする、坊主頭の少年であった。
彼は一言も発さず、そのまま立ち上がり……カイルの方へ真っ直ぐに走って行った。それからカイルの肩を叩き、「何処行っていたんだ」と泣きながら怒鳴った。
避難民も少年に倣い、「小さな弟を背負って生き延びた兄」の元へ走り寄った。泣き出す者も少なくなく、人の輪の中で「魔女としての過酷な人生」を熱弁していた魔女すらが、「良かったね、良かったね」とボロボロ涙を流した。
やがて、治療薬の整理をしていた衛生兵が駆けて来て、弟の治療を始めた。一方のカイルはスープを飲みながら、矢継ぎ早に繰り出される質問へ答えていった。
「何処にいたんだ」
「家の近くだよ。ロイルを置いていけなかったんだ」
「一人で助けたのか」
「違うよ、馬車のお姉ちゃんに助けて貰ったんだ」
「ここまでどうやって来たんだ」
「乗せて貰ったんだ。箒に」
要領を得ない回答に、大人達は顔を見合わせて首を捻った。涙に濡れた顔を拭いながら魔女が問うた。
「そういえば、ヒナシアさんは何処に?」
カイルは少し気まずそうに眉をひそめ、「飛んで行ったよ」と答えた。
「『私のお友達を、助けに行って来ます』って」
同時刻。
かつては観光客で賑わったバクティーヌ特別区内にある、土産物横丁入口付近で――シーミィ・ロンドリオンは「あらゆる手段を潰され、あらゆる予測が無意味となり、どうしようも無い絶対絶望的状況」でのみ使用される魔術の発動を考えていた。
「もう良いかな、待って、教えてあげるともっと美味しくなる」
およそ一分の内に……眼前で邪悪な目を細める忌まわしき魔女、エルキュオーラ・ジャベロによって捕食される事を確信した彼女は、自身の脳機能を即座に停止する《向天園迎》を使う羽目になるとはと、何とも情け無い気分になっていた。
恐るべき自決の術は、多くの死者を生んだ《忌夜の闘争》の真っ只中、精神操作に長けた魔女が生み出したとされる。敵軍に捕まり、苛烈と凄惨を極める拷問から逃れる為、「死亡」という最大限の反抗を可能とする魔術を……。
「一番美味しい場所って、何処だと思う? それはね、脳と子宮なんだ」
シーミィは今、恐怖からの逃避の為だけに発動しようとしていた。
「痛みを全く感じなくなるようにしてあげる。するとね、何処を齧られても、啜られても、気絶しないんだ」
ペロリと唇を舐めたエルキュオーラは、シーミィの頭部と下腹部を交互に見やり、「濃厚さかな、美味しさかな」と首を傾げた。
もう一度、身体全体に力を込めたシーミィ。当然の如く――指先すらも動かせなかった。
「決めた」
エルキュオーラの視線は、ゆっくりとシーミィの身体を昇って行き……。
「今日は、脳から食べよう」
よし、ここで私は死ぬんだ。頑張った、完全に出し尽くしたんだから……最期くらい、楽に死んでも良いよね。
ごめんなさい、お父さん、お母さん。師匠。…………レンド君。シーミィは、弱い魔女でした――。
魔力を集中させ、刺々しい球体が胸部から頭頂部に向かって行く想像を膨らませる。球体が一個、二個、三個と増え続け、一二個が頭蓋骨の中でひしめき合う光景が浮かべば……準備は完了となる。
「大丈夫、痛くないから」
奥歯を思い切りに噛み締め、自決を敢行したシーミィは…………。
「……っ!?」
何故か、未だに生存している自分に気付いた。
「ごめんね、言い忘れたけど」
横倒しの目が細まった。
「《向天園迎》、使おうとしたよね」
どうして!? どうしてそんな事が分かるの!? 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! お願い、死なせて! ゆっくりと食べられていくなんて……耐えられないから……!
上手く呼吸が出来なかった。逃げ出せるはずだった辛苦の釜に、再び叩き落とされた者の反応であった。
「その術ね、私の魔術が掛かっていたら使えないんだ」
だって――墜堕の魔女は微笑した。
「《向天園迎》はね、私が作ったんだ」
痛みすら感じる程に……シーミィの心臓が高鳴った。魔術を使わずともその運動だけで、心膜が破け飛びそうだった。
「どんなに才能の無い魔女でもね、使えるようにしたんだ。絶対に死ぬって分かった人間は、人生で一番集中するんだけど、この集中力を利用したって事。けれど、欠点が一個だけあるんだ」
残念そうな表情を浮かべ、エルキュオーラはシーミィの右側頭部を軽く突いた。
「ここが、とっても不味くなっちゃう。脳が先に死んじゃうと、鮮度はグングンと落ちていく。どうやって言えば良いかな? こう言えば良いよ、『食べられたものじゃない』って」
それじゃあ、そろそろ食べようかな。
エルキュオーラの両手が、ソッとシーミィの頭部に触れ……旋毛の部分が見えるように傾けた。これによってシーミィは地面を見据えたまま、脳が啜り喰われる形となり、最早笑いさえ込み上げてきた。
「この縫合部分が一番良いから、うん、そうだね。ここかな」
目当ての贈り物を受け取った子供のように……魔女は笑った。
「外そうね」
一〇本の指が頭部を掴み、次第に力が込められていく。痛覚を奪われているシーミィは夢の出来事に思える程、無痛だった。
更に注力しようとしたエルキュオーラは、俄に両目を見開いた。
「何だろう? 何処から? いきなり? あぁ、うるさいね――」
左だよ。
左手を頭部から離し、真横に向けたエルキュオーラ。間も無く、彼女の手に――よく研がれた槍が向かって来た。高速で襲来する槍を即製の魔術陣によって、容易く受け止めてしまった。
甲高い音を立て、槍は近くの屋台に突き刺さった。チラリと屋台を見やったエルキュオーラは、直ちに右側へ振り返り……。
「はっ?」
惚けたような声を上げた。
彼女を目掛け、今度は独りでに箒が……一直線に飛来して来たのである。穂先からは真紅に染まった粒子が噴き出ており、爆発的な推進力を生み出していた。
「何だろう、馬鹿なのかな」
エルキュオーラはとうとう右手も離し、先程と同じく魔術陣を展開した。箒の柄がこれに激突した瞬間――。
「熱っ……」
墜堕の魔女だけを包み込むように、灼熱の火炎が柄から放出された。着実に外套を焼いてくる火炎に眉をひそめたエルキュオーラは、両手に唾液を塗り込み、魔術を発動しようとした。
刹那であった。
「隙ありいぃいぃいいぃっ!」
エルキュオーラの右頬へ途轍も無い外圧――蹴撃――が加わった。小さな身体は途端に吹き飛び、三〇メートル先の倉庫の壁をぶち抜き、瓦礫の山に埋もれた。
「あっ……」
シーミィに施されていた魔術がこの時、一斉に解除された。術者の集中が殺がれた事を意味した。自分で立つ事が出来ず、その場に崩れ落ちそうになった彼女を……抱き抱える者がいた。
「いやぁ、遅れましてごめんなさいね? 野暮用がありまくりでして……」
「……ヒ、ヒナシア…………さん、なの?」
シーミィを助けた魔女の名は、確かにヒナシア・オーレンタリスであった。
何故、彼女が困惑したような目で知り合いのはずのヒナシアを見つめるのか?
理由は至極単純である。
バクティーヌで、酒場で、ムルダン食堂で、街中で……対面した時の彼女と比べ、違いが生じていたからだ。
特徴的な薄黄色の髪は薄らと赤みがかり、毛先が風も無しに炎の如く揺らめいていた。
双眼は紅緋色に染められ、直視しにくい程に輝き、見つめる者に原始的な安堵感を与えた。
そして――全身からは、薄らと赤い魔力の粒子が放出されており、魔杖を持っていない時とは比較にならない「魔力」の躍動が感じられた。
ヒナシア・オーレンタリス。
名門とされる《春暁の夢》から排出された、数多くの名高い魔女の中で……。
最も不真面目で、最も強い魔女であった。
『その身に秘めた魔力量、まさに神山の孕む岩漿の如く』
彼女の師、ドローナ・デンの評である。
「ままま、積もる話は後でタップリ……。それより今は、自分の治療と避難を優先して下さいな」
「で、でも……! 貴女一人じゃ絶対に――」
「良いから良いから。後は私に任せて、バナナ酒牛乳割りでも飲んでいなさい」
何を馬鹿な事を――シーミィが言ったと同時に、倉庫の瓦礫が盛大に吹き飛ばされた。土煙の中からは明らかに怒気を孕んだエルキュオーラが現れ……。
ヒナシアをギロリと睨め付けた。
「……どうする? さっきのより美味しそうだけど……うん」
「何ですかアイツ。一人二役とか気持ち悪っ!」
などと軽口を叩いた瞬間、墜堕の魔女の双眼が光った。俄に空中から魔術陣が出現、光弾を射出し、ヒナシアを狙ったが――。
彼女の繰り出す右裏回し蹴りが、赤黒い光弾を弾き返し……エルキュオーラの足下へ着弾した。
「っ…………躍り食いは無理そうだね」
「さぁ、シーミィさん! 早く行きなさい! バクティーヌには貴女が必要です!」
背を叩かれたシーミィは黙して頷き、即座に箒を発現、全速力で戦域から離脱した。禍々しき魔力を滾らせたエルキュオーラは、最早シーミィに目もくれず――。
焔纏の魔女、ヒナシア・オーレンタリスに襲い掛かった。
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