第39話:魔女と一刻
この声は何だ? 竜……じゃないのか?
ケーニが瓦礫に埋もれながら、夢うつつに聞いた声は二種類だった。
一つは非常に悍ましく、血は通っていても感情は見当たらない……無機質に近いものだった。心臓を身勝手に揺さぶるような轟声は、しかし時折、痛がっている気もした。
もう一つ――今も聞こえた声。野犬……或いは狼に似ていた。まだ自身が幼い頃、母親が口酸っぱく「裏山の狼の群れに気を付けろ」という言葉が、ふと、彼の脳裏を過った。
「……っ」
このまま瓦礫の中で死ぬ訳にはいかなかった。愛するラーニャを一度でも抱き締めなければ、幾年月生き長らえようとも、何度この世に生まれて来ようとも、一切が無駄に思えた。
俺は、彼女を愛する為に生まれて来た!
青臭い生の希望が――小さな奇跡を呼んだ。ケーニが大きく呼吸した事により、瓦礫のバランスが崩れ……。
「っ……はぁ……はぁ……」
果たして、彼の身体は自由を手に入れた。ヨロヨロと起き上がり、しかしながら右足に激痛を覚え、再び倒れ込んだ青年が目にしたのは――。
「…………黒い……狼?」
カンダレアを絶望に叩き込んだ酸噛竜と睨み合う、黒き巨狼の姿であった。
「まさ……か…………」
店長なのですか?
呟く彼に呼応するように、黒狼は猛り狂った声を上げた。
黒狼――ラーニャの牙がカチカチと震えている。刀剣を打ち鳴らすようなその音は、前方の敵を必ず仕留めるという決意の表明である。喉奥から溢れ出す瘴気は使い終えた魔力であり、巨体を維持するだけで魔力を消費し続けた。
一方、尾を振って威嚇を続けていた酸噛竜がゆっくりと立ち上がり、地面に頭を思い切りに打ち付けた。土中への潜航開始を意味する行動は、周囲の建物を無遠慮に揺らした。
即座にラーニャが駆け出した。魔術で身体を構成している為、見掛けに比べて体重が軽い。石材倉庫の屋根へ登り、その場で前方へ跳ねたとしても……建物を大きく壊す事は無かった。両前脚で地面を掘る酸噛竜の尾は、この時だけ垂直に立っている。尾先を目掛け――。
凶暴な大顎が噛み付いた。そのままラーニャは地面に着地し、土中から引き摺り出そうと後退を始める。
酸噛竜は一度顔を上げ、やや高い吼声を上げた。それから地面に四本の脚を踏ん張り、尾に食らい付いて離さない黒狼を吹き飛ばすべく、右に左にと振りまくった。
「……あぁっ!」
死闘の目撃者、ケーニが叫んだ。酸噛竜の膂力によって振られる尾は未だラーニャの口内にあったが、纏った岩石が牙に擦れ、一本、二本と欠けていった。なおも黒狼は双眼を赤く光らせ、少しずつ、少しずつ……逃走を計る竜を我が方へと引き寄せた。
前脚に生えた爪が露出した瞬間、酸噛竜は大きく口を開け、痙攣するように身体を大きく震わせた。
全身から強酸性の汗を瞬時に噴き出す――亜成体までが使用する防衛手段であった。寸刻置かずにラーニャは「ギャッ」と悲痛な声で叫び、口を離してしまった。牙は四割程が折れ、もしくは溶解され……。
口端から赤黒い血を流していた。
「…………」
ケーニが絶望に目を見開く一方、ラーニャはなおも闘志を奮い立たせ、地鳴りのような唸り声を響かせる。先程までは怯えた様子を見せていた酸噛竜は、苦し紛れの汗が効いた事を喜んでいるのか、一歩ずつ、味わうように歩き始めた。
地面が揺れる。その度に小さな木片、ガラスの欠片が落下した。ケーニは再び意識を失い掛け、何とか止めようと頭を叩いた時であった。
遠方から誰かがケーニの名を呼び、何かを引いて走って来たのである。
「おーい! おーい! ケーニィ! ラーニャさぁーん! 生きているかぁ!」
酒場の近所で運送屋を営む男、アデオだった。彼もまた、二日に一度はラーニャから酒を受け取らないと落ち着かないという常連客であり、年下のケーニを弟のように可愛がっていた。
「……アデオさん」
ギギギッと急停止するアデオの後ろでは、つんのめるように大八車が軋んだ。日々の重労働はアデオの巨体を更に逞しく育て、結果として大八車を一人で引く事を可能とした。
「まだ二人がいるって避難所で聞いてな――行くな行くなって止める奴をぶん殴って来ちまった!」
がさつに笑ったアデオは軽やかにケーニを抱き抱え、荷台へ静かに乗せた。
「ようし、後はラーニャさんだけだな。アレか、まさか瓦礫の下に――」
「違うんです……あそこに……」
はぁ? 指された方角に目をやるアデオ。すぐにケーニを睨め付けた。
「馬鹿野郎、冗談言っている暇なんか無ぇぞ! 大体竜だけで恐ろしいのに、化け狼まで来ちまって――」
「それです」
「あ?」
「狼……あの黒い狼が……店長です」
再び後方を見やるアデオは、全身の毛を逆立てて吼える黒狼を見つめ……。
「…………マジかよ」
似付かわしくない、消え入りそうな声で言った。
「勝てんのか、ラーニャさん」
独り言のような質問だった。ケーニは答える事無く、荷台の上で無理矢理に身体を起こし、酸噛竜の噛み付きを躱す黒狼を見つめた。
ラーニャの戦意は失われていなかったものの、余程に強酸性の汗は痛いらしく、なかなか噛み付き返そうとしなかった。代わりに採用した体当たりは効果が薄いらしく、せいぜい酸噛竜を苛立たせるぐらいだった。
「っ! ラーニャさんの身体、湯気みたいの立っているぞ!」
アデオの言う湯気、それはラーニャの体毛が腐食した故のものだった。ケーニが目を凝らした瞬間――事態は急変した。
俄に酸噛竜が走り出し、体勢を戻し切っていないラーニャの首元に噛み付いたのである。
悍ましき竜の意趣返しに……違い無かった。
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