第25話:魔女と殴打
「まだかなぁ……そんなに売店、遠かったかな……」
人の形をした紋様を刺繍した収納箱の上蓋を、コンコンコンコンと指で突くヒナシアは、利用客の金と欲求を詰め込んで円状に疾走する小球を見やった。レンタル従者のハニィが飲み物を買いに売店へ向かってから、既に五分が経過しようとしていた。
バクティーヌで遊ぶからには、タップリの余裕と大量の金が不可欠――施設情報誌を読み込んでいた時に憶えた合言葉が、ゆっくり彼女の脳内を過って行く。
分かっている、ゆったりした気分が必要なのは猛烈に分かっている。でも……私には時間が無いんですよぉ……。
「赤の一二、赤の一二で御座います」
目付役の出目の発表に続き、利用客は喜びや落胆の声を上げた。卓上を専用硬貨が行き来し、中年の男は実に満足げな表情で収納箱に詰めると、何処かへと去って行った。
「赤の一二、っと…………」
まさか横になって菓子を食う訳にもいかず、仕方無しにヒナシアはハニィの手帳に自ら出目を記入していた。目付役も利用客も彼女の事は気にしていないらしいが、流石のヒナシアも出目の記録だけを行うのは気が引けた。
「……おっそいなぁ」
収納箱をゴツゴツと突き始めたヒナシア。腹を空かせた野良犬が如き目でルーレットを見つめた。そんな彼女を気に掛けてくれたのか、目付役は「お客様」と微笑み問うた。
「お待ちの間、少しだけ遊ばれますか?」
「でも、私初めてで……やり方が分からないんです……」
お任せ下さい――目付役はニコリと笑い、他の利用客に「少々お待ち下さいませ」と声を掛けた。一方の彼らは勝負の一時中断に怒る事も無く、軽い会釈をして酒を飲んだり、やはり手帳に記した出目の整理を始めた。
うわぁ……皆優しいなぁ……。
思わずウットリするヒナシア。先日ムルダン食堂で見た「豚肉が隣と比べて一枚少ない」と目を剥いて叫ぶ客とは大違いだった。
「まず、此方をご覧下さい。ルーレットは多様な賭け方と配当が御座います。憶えて頂くと遊戯のお役に立つかと。賭けて頂いた後は至極簡単、小球の出目を見守って頂くのみです」
卓の下から取り出された表には、ルーレットでの賭け方が簡単に記されていた。ヒナシアは卓上の枠線(緑地に白い線が走り、大小様々な枠とその中に数字が書かれていた)と表とを見比べた。
「一点賭け、二点賭け……三点……奇数偶数…………あの、目付役さん」
「如何されましたか?」
魔女としては有り得ぬ程の博才――というよりは強欲を持つヒナシアは、瞳に金貨の輝きを湛えて訊ねる。
「一番配当が高いのは、その、要するに一点賭けですよね」
「左様でございます。配当は三六倍ですから」
一点賭け。ルーレットにおいて最も高配当かつ、運気と殴り合う賭け方であった。大抵は……当たらなかった。しつこく同じ目に賭け続け、何度目かで溜息と別の数字を選んだ瞬間、ふっとその目が出る――そんな賭け方だった。
「なるほどぉ…………ほっほぉ……」
顎をスリスリと撫でるヒナシア。
仮に、仮にである。仮に……八〇〇〇〇ゼル(今はモン、だが)を一点賭けで増やす事が出来れば、ものの数分で二八八〇〇〇〇ゼルを叩き出す事が可能だ。
大変な欲に塗れた唾液が、ヒナシアの口端から漏れ出しそうだった。
そりゃあ当たりませんよ。確率はウンと低い訳だし。うんうん、当たらない当たらない。
でも、まぁ、ね。一回考えてみよっと。持っているモンを全部賭けて、球が回る。うん、選んだ数字は三七分の一で出るよね(唯一、〇だけは赤黒どちらの色も割り当てられていない。この数字は緑色だった)。
三七分の一。三七分の一だよ? たったの三七分の一だよ!?
というか……アレじゃん。数字を二つに分けたら、確率は更に上がるって事じゃん。それでも儲けは一四四〇〇〇〇! あ、一つは必ず外れるから一四〇〇〇〇〇か……でも、でもでしょ!
そ・れ・に。
さっきの出た目が偶数。まだ二回しか続いていない、って事は次も偶数の確率が高い。って事は奇数を無視して良い。って事は、って事は……!
「お客様……?」
恍惚の表情を浮かべる女――或いは不審者――に目付役も眉をひそめた。他の利用客も同じく顔をしかめたし、隣の女性客は椅子を少しだけ離した。懸命な判断である。
「あっと、すいません…………分かりました。一切分かりました! モンを交換して下さいな! 全部!」
果たしてヒナシアの手元には八〇〇〇〇モン分の硬貨が並んだ。その全てが過激な初陣の勝利を祈り、高らかに軍歌か何かを歌い上げている気がした。
「皆様、大変お待たせ致しました。唯今よりお賭け頂き――っ!?」
目付役は眼球が零れんばかりに見開いた。他の客は言葉を失ったのか、呆然としてヒナシアの途方も無き馬鹿張りを見つめている。
「よっしゃあ! これで勝ちました!」
ニッコリとヒナシアは笑い、「二」と「三六」の枠に四〇〇〇〇モン分の硬貨を積み上げた。
「…………あの、お客様」
「はい? 特に上限額は無いですよね?」
仰る通りなのですが……目付役は困り果てた様子で続けた。
「その、差し出口となってしまい申し訳ありませんが、お客様は初めてルーレットを遊ばれますよね」
「はい、賭博の純潔はここで散らしますよ」
「純潔……? いえ、それよりも……大抵のお客様は、最初は少額を賭けて遊ばれます。まずはルーレットに馴れて頂くのが一番かと――」
問題無しです! ヒナシアは白い歯を見せて笑った。生まれてから一度も悩んだ事の無いような笑顔だった。
「こういうものは馴れるとか馴れないとか、そんな甘っちょろい事は言っていられません! 第一、私は負けるだなんて毛頭考えていませんし? 持ち切れないモンを持って換金所に行って、財布を破裂寸前まで膨らませて帰る未来しか見ていませんし!」
未開の土地で謎の部族に囲まれたような表情を……一同は揃って浮かべていた。
「勝つか負けるか、だなんて考える時点で負け! 私は勝つ、儲ける! この考えで頭を一杯にしているとですね、不思議と出目も引き寄せられるものです! まぁ賭博は初めてだけど!」
ビシッとヒナシアは銀色の小球を指差した。
「さぁ! その球を回しなさい! どのように放り込んでも二か三六しか出ませんけどね! 運命は既に決まっています、ルーレットなど、このヒナシア・オーレンタリス、恐るるに足ら――ゲヘェア!?」
威勢良く演説を行っていたヒナシアの後頭部を、息も絶え絶えになって思い切りに殴った者がいた。それは……。
「い、急いで戻って来たら……な。何を貴女はやっているんですか!? そ、そんな馬鹿張りが、当たる訳無いでしょうがぁ!」
売店からようやく戻って来たヒナシアの従者、ハニィ・フォーであった。
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