第6話
廃品広場にはあまり人がいなかった。喪失者もいない。昨日から今朝にかけての喪失者は、いたとしても今日の朝には管理所の人間によって連れて行かれているだろうから当然だ。
瓦礫が積み上げられた薄暗い通りには二つのベンチだけが寂しく置かれている。その一つに老人が座って、空を見上げていた。ドキ、として一歩後ずさる。言うまでもなく顔見知りだった。もっとも、顔見知りなのはどちらかというと僕ではなく四季である。
自分を見ている視線に気付いたのか、老人がこちらに顔を向け、睨みつけるように眉間に皺を寄せた。
「四季んとこのやつか」
僕は、思わず逃げようとした足に力を入れて踏ん張る。代わりに、にこやかな笑顔を作ると老人に近付く。
「こんにちは、厘堂さん」
四季の師匠、厘堂辰彦(たつひこ)さんは、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ニヤニヤ笑いおって相変わらず気味が悪い。お前なんぞに用はないわ! 四季はどうした。まだ寝ておるのか」
強くて早口の語調で捲し立てられる。あまり人に向けられることのない怒号に怯えている自分が分かる。心臓がバクバクと鳴って、頭が真っ白になっていく。好意的には感じられないその語勢が、視線が、何のクッションもなしに真っ直ぐ向かってくる。避けられない嫌悪の感情が、チリチリと肌を刺す。剥がれない笑顔の仮面を割ろうとする。
だから厘堂さんは、苦手だ。
黙然と、僕は俯いた。へばりついた笑顔はそのまま消えない。
少し、こうしていれば鼓動は落ち着くはずだ。何事もなくなるはずだ。慣れるはずだ。平気になるはずだ。痛くなくなるはずだ。辛くなくなるはず――。
カサリと音がして、秋ちゃんの存在を思い出した。
「ごめんなさい、厘堂さん。四季は今、寝込んでいるんです」
厘堂さんの虚を突かれたような顔を見て、自分が言ったのだと思い至った。
「……寝込んでいる? あいつはまた雨に降られたのか」
さっきまでの勢いを無くし、わずかに狼狽した様子の厘堂さんに改めて睨まれても、もう怖くなかった。怖くない自分に、瞠目した。たった今まで感じていた動悸とは違った種類の興奮と拍動が全身を駆け巡った。
ついと、秋ちゃんが僕の横に躍り出た。僕が何かを言おうとする隙も与えず、素早く厘堂さんに頭を下げる。
「初めまして。浅川秋と申します」
突如自分に頭を下げた秋ちゃんに対して、不機嫌な対応を取るのではと焦った僕の予想に反し、厘堂さんはただ優しく彼女を見詰めていた。まるで自分の赤ん坊を見る親のように温かな眼差しだった。
こんな厘堂さんは初めて見た。
「ごめんなさい。四季さんが寝込んでしまったのは私のせいなんです」
切実な声は明らかに自分を責めていて、僕はさっきまでの興奮が嘘のように引いていくのを感じた。
「秋ちゃん」
彼女の背に手を置き、宥めるように撫でるも、それは何の影響も与えない。非力な僕は、秋ちゃんの道徳の前には風も同然だ。
いてもいなくても、同じなのだ。
自嘲的な笑みを浮かべながらも、僕は彼女の背を撫で続けることしかできない。秋ちゃんは頭を下げ続けたまま、もう何も発さなかった。その後に続く言葉はもう言い訳にしかならない。だから言わないのだと、細い背中の大きな意志が誓っているように見えた。
声を上げたのは厘堂さんだった。
「もうよい」
ベンチから立ち上がり、機械が剥き出しの腕を秋ちゃんに向ける。秋ちゃんは顔を上げて、その腕を改めて視認しても顔色を変えることはなかった。
「四季のことなら全て分かっとる。あいつは弱いからな」
「弱い? 四季は僕なんかよりずっとしっかりしてますよ」
とっさに答えて、向けられた鋭い眼光に目を眇めそうになる。それを何とか堪え、曖昧に微笑んで濁す。厘堂さんが呆れたように失笑した。
「何が楽しい? 何で笑ってるんだ? 俺の腕がそんなに可笑しいか?」
無理やり引きちぎった機械のような右腕を、銃のように眼前に突きつけられる。もう何度も見ているものだから、それに対しての恐怖はない。しかし、彼から溢れ出る威圧感が僕を取り囲む。
「春さんを苛めないでください」
諌めるような声が割って入り、厘堂さんが慌てたように腕を下ろした。
秋ちゃんが真っ直ぐな、偽りのない瞳で厘堂さんを見据える。
「春さんの笑顔は春さんの長所です」
……そんなにはっきりとした口調で言われてしまうと。
砂を噛んだ時みたいな、ザラザラした歯触りの言葉が舌の上を這う。それを押し込めるように唇に力を入れた。奥歯を噛み締め、赤くなってしまいそうな鼻を隠すために顔を背ける。
「それくらい分かっとるわ」
返ってきた言葉は、意外なほどすんなりと彼女の言葉を肯定した。
……ああ。
僕は自分の胸がスッと冷えるのを感じた。怖いと思っていた厘堂さんにすら、期待を抱いていたのだと同時に気付く。怖がるのは自分を好いてほしいからだ。自分を知ってほしくて、でも知られたら嫌われてしまう気がして。見透かされてしまうことを期待しながら、見透かされることに恐怖を感じている。
相対する二つの矛盾が体中に蠢いて身動きを取れなくする。
――厘堂さんはお前が思うほど怖くないさ。お前が何でもかんでも場を丸く収めようとするから突っかかるだけで、お前のことだって嫌ってない。お前が本当には笑ってないって、嘘で取り繕ってるって気付いてるんだよ。
気付いてるのはお前だけだよ、四季。
だって、そうだろう?
笑顔は僕の長所だ。だったら嘘が長所で、長所は嘘だ。僕のいいところは偽りで、偽善で、まやかしだ。
じゃあ、いいところなんてないのと同じじゃないか。
「お嬢さんは、俺の腕を見ても何も思わないんだな」
少ししてから低く、落ち着いた声音が静かに問う。僕には向けられなかった問い。僕とは違う、彼女への質問。嘘じゃない彼女への。本音じゃない僕は偽りの姿に怯えて本質なんて見えていない。見えていないことには気付いているのに、見て自分が傷付くのが怖いから見えないふりをする。
「だって、誰がどんな格好をしてようと何をしてようと、それがその人個人ならそれを受け入れるだけです。それがその人の自然体であるなら、否定する権利なんて誰も持ってないでしょう?」
ねえ? と同意を求めるように秋ちゃんが僕を見やる。僕はまた、薄く微笑みながら頷いた。
「秋ちゃんはすごいね」
それは眩しいくらいに。
自分にないものを持っている彼女に対してどうしようもないほど嫉妬を抱くとともにどうしようもないほどに彼女が欲しいと思ってしまった。
眩しい太陽に憧れるのは罪だろうか。こうなりたいと羨望し、手に入れたいと思うのは悪だろうか。
「すごくないです、普通です」
謙遜という言葉すら似合わない、本気の否定は秋ちゃんに合う。彼女には揺るぎない正義感が貫いている。
「夏に似てやがる。あいつも同じようなことを言ってたな」
「夏兄は、スノーがいるから」
ひねくれた言葉が口から滑り出た。秋ちゃんは夏兄の話題に嬉しそうに首を縦に振る。僕のいじけた響きには気付かなかったようだった。そっと胸を撫で下ろす。
厘堂さんは何を言うでもなく、ほんの少しだけ僕を流し見てからベンチに座り直した。肘から数センチしかないその腕を見詰めて、それから秋ちゃんを見てニッカリと笑った。
「気に入った。何か直してほしいもんがあったら俺のところに持って来なさい」
修理屋、二代目厘堂辰彦。
名は主人から譲り受けたものである。
尽くすべき主を亡くしてからもこの世を歩み続けるアンドロイド。隻腕となっても衰えぬその技術。
本来アンドロイドはいくら主人を持っても、従うべきは管理所である。主人を失えば体は管理所引き渡しになるよう、初めからインプットされている。その大半は解体に回される。恵まれたアンドロイドは管理所務めになることもある。
しかし厘堂さんはそのどちらにもならなかった。
主人の技術を全て受け継いだ彼は、もはやこの世界に必要な人材であった。アンドロイドであるとか、そういうことは関係ない。ただその技術が必要だった。彼が本能の赴くまま、失った主人を馳せながら、管理所に向かうその足を引き留めようとしたのは一人ではなかったという。
彼は例外的にここに留まることを許された。新しい主人を持つことを推奨されたが、彼自身も、他の人間もそれを望まなかった。
らしい。
そう厘堂さんが四季に話しているのを聞いたことがあるだけで、実際それを僕が目撃したわけではない。
「俺はそろそろ失礼する。仕事の時間だ」
厘堂さんの目が細まる。
僕はこっそり腕時計を確認した。午後十一時半きっちり。厘堂さんの仕事時間は午後十一時半から午後九時まで。言葉通りの体内時計にそう設定されている。
「またお話聞かせてくださいね」
秋ちゃんが満面の笑みを浮かべると、厘堂さんも満更ではなさそうに微笑んで指まである方の腕で彼女の頭を撫でた。僕はそれをただ眺めて、彼の後姿が去って見えなくなるまで口を閉ざしていた。
静けさ。刈り込まれた土地は雑草すら無くて薄ら寒い。風が頬を撫で、瞼をほんの少し閉じる。秋ちゃんが乱れた髪を押さえつけた。
「秋ちゃん」
自分で出した声に、あまりに感情が籠ってなくて逆に笑えた。苦笑するように微笑を浮かべ、秋ちゃんを見る。彼女は僕の言葉を待つように、僕をじっと見返していた。
「僕ね」
そう言葉を出した瞬間に、目の表面にじわりと滲んだ涙を実感した。そして言葉が出なくなる。何を言おうとしているのか、熱にうなされたようにぼんやりとした頭が警鐘を鳴らす。駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ。
駄目だ。
零れ落ちることもない涙が、うっすらと秋ちゃんをぼやかす。
唾を飲み込んで、息を吸う。
「ごめん、何言おうとしてたか忘れちゃった」
頬を掻いて、さっきよりもにっこり微笑む。
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