第5話
夏兄の店から外に出るには、エレベーターの他に、一階上に上がると行ける外階段がある。この階段は他のどの階にも接続されておらず、地上まで直通だ。僕たちの家からも階段で地上に下りればここから入れるのだが、辿り着くまでの道が入り組んでいて面倒なので基本帰りしか使わない。
その階段を下りながら秋ちゃんにどこが行きたいかと聞くと、しばらく考えた後、『廃品広場』と答えた。
廃品広場。それは俗名だ。
本当は『月明かり公園』なんていうキレイな名前がある。でも誰も使わない。公園なんて言ったって遊具はないし、第一、あそこは遊び場には成り得ない。
廃品広場。名前の通りだ。あそこにあるのは建物が崩壊した後の瓦礫と使わなくなった機械などのガラクタ、そして喪失者。あそこを通るのは、僕のような使える部品を探す修理屋、喪失者を救助する管理所の人間と管理所に用がある人間、あとは太一さんのような、喪失者を使って仕事をする人たちくらいしかいない。
喪失者というのは、秋ちゃんも僕も、またナズナも然り、簡単に言えば記憶を失くした人間のことだ。生活上必要不可欠な言語や常識、学習で得た知識などといった記憶は残っているのだが、その他の記憶――自分が誰であるか、どこに住んでいたか、家族は誰か――そういった記憶を一切持たない。自分を見失い、行く当てを無くした人間。そういった存在がこの世界には多くいる。わざわざ隠す人もいないけど、聞こうとも思わないので具体的な数値は分からない。聞こうとも思わないほどには人数がいると言ってもいい。喪失者という呼称がつけられた時期も、僕が生まれるずっと前だからよく分からない。アンドロイド所有法と同じくらいの時期だったと思う。その喪失者がなぜか集まるのが廃品広場だった。
喪失者だった僕もそうだし、ナズナもそうだと言っていたから皆同じだと思うけど、喪失者は喪失者であるその時の記憶も薄い。つまり、廃品広場にどうしていたかということや、廃品広場で何を考えていたかなどの記憶がほとんどない。僕の場合は、たまたま管理所に向かっていた夏兄に声を掛けられて初めて自我を感じた。それまでは空無だったとでも言えばいいのだろうか。自分が自分であるという感覚もなければ、自分という存在を感じもしない。生まれたばかりの赤ん坊のように、真っ新な状態だった。
なぜ、と思うことは多い。喪失者についてはほとんど分からないことだらけだ。管理所ですら何も分かっていない。伝染病だとか流行病だとか、色々言われてきた歴史もあるようだけど、もう今ではそれすら言われない。いることが普通で日常。世界が喪失者に合うようになってきたのだ。僕が喪失者になった時も、もうすでに世界が受け入れ態勢であった。多い少ないはあるにしろ、毎年数人の単位で喪失者は増えるのだから。
「でも広場にはもう行ったでしょ?」
廃品広場は、SEAONに行くまで時間を潰した商店街のさらに向こう。そして広場を通り抜けた先に、生活上欠かせない管理所が聳え立っている。戸籍登録と学力検査を、夏兄の家に来た翌日に済ませている秋ちゃんはもう広場を見ているはずだ。
「行きました、けど……通っただけですから。時間の余裕もありませんでしたし、お兄ちゃんには頼めませんでした。お兄ちゃん、あそこを通る時、どうしてか泣きそうな顔をしたんです」
「泣きそうな顔?」
「はい。泣きそう、というとまたちょっと違うんですけど。困ったというか苦しそうというか、一瞬だけそういう顔をして」
「夏兄は、すごく真っ直ぐな正義感を持つ人だからな。太一さんの店を否定したがるみたいなとことか。だから喪失者の人を見るとやるせなくなるのかな」
夏兄を思い浮かべる。優柔不断でしっかりしてない僕と違って、しっかりした兄。僕はそんな兄の泣きそうな顔なんて見たことがなかった。強く前を見据えていたり、笑っていたりする姿しか知らない。
「秋ちゃんは、どうしてあそこをもう一度見たいの? 質問を繰り返すようだけど、あそこは何もないし、実際通るだけで十分の場所だよ?」
「どうして、って聞かれると困るんですけど……。もどかしいんです。喪失者が当たり前の世界だし、記憶がないことがもどかしい訳じゃないんです。だからどう説明していいか分からないんですけど……。広場に行ったら何かが分かるとも思わないですし、何かを探しに行こうと思っている訳ではないんです。
ただ、私たちの記憶はあそこから始まっているじゃないですか。あそこで、春さんに声を掛けられたところから始まっているんです。声を掛けられた瞬間は夢から覚めたばかりのように不確かな感覚でしたし、もう一度、きちんと始まりを知りたいと思ったんです。そうしなきゃ、私は『秋』としての生命を、ぶれない精神の上で歩めない気がしたんです」
秋ちゃんは、明確な口調でそう言った。
僕は、何かを考える前に自分の頬があやふやな微笑みを浮かべるのを感じた。
ごまかそうとしているのだと、そう分かる自分に救いようのない痛みを覚えた。胸の奥を引っかかれるようなキリキリする痛み。うっすらとたった鳥肌を見られないように秋ちゃんを覗き込む。
「すごいね。秋ちゃんはすごい」
笑顔は得意だ。それが本心だとか嘘だとか関係なく、自然と顔がその表情を形成する。それを、僕は知っている。知っている。知っている。
そうしている内に何が何だか分からなくなって、何もかも平気になる。
「すごくないです。面倒なんです、多分」
恥じらうように秋ちゃんは苦笑し、肩を竦めた。
僕は内心、ホッと息を吐いた。僕の笑顔は、何でもない印。誰にも迷惑をかけないための印だ。
しかし、ホッとするのと同時に気付かない彼女に対してどうしようもない絶望感も覚えてしまうのだった。
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