第4話
扉を開けると、今日も相変わらず生暖かい空気が僕を包んだ。開店前のラーメン店。スープの匂いが再びお腹を鳴らす。
「あ。いらっしゃいませ。春さん」
カウンターの向こう、厨房の湯気の間から秋ちゃんが声を掛けてくれる。ここに来たすぐ翌日から秋ちゃんは夏兄の手伝いをしていた。器用で習得の早い秋ちゃんは開店前にも練習を欠かさない。エプロンをつけた彼女がお湯から麺を引き上げる。
「せっかくだし、食うか? 朝飯大して食ってないんだろ?」
秋ちゃんの横で、大鍋に入っているスープをかき混ぜているのは夏兄だ。
家で食事を作っているのは四季だ。不器用な僕の料理を見兼ねた四季が作ると言い出して早五年。その四季が体調を崩すと僕の食事は必然的に疎かになる。
夏兄の言葉を聞いて、秋ちゃんの表情がサッと曇った。手は動かしたまま、器に水を切った麺を入れてから僕の顔を改めて見る。
「まだ……四季さん、具合が悪いんですか?」
「いつもこんなだから気にしないで。病院行かないっつうし、心配しても追い出されるし」
気にさせないようにと軽く言ったものの、秋ちゃんの表情が明るく戻ることはない。不安そうに組んだ手を胸の前に引き付けて言う。
「無理を、させてしまったから……。お見舞いに行ってもいいですか?」
僕はすぐには答えずにカウンターに座る。ふらりと奥から出てきたスノーが僕を見とめ、コップに注いだ水をくれた。
すぐに答えなかったのは焦らそうと思ってのことではない。答えようとして、うまく言葉が出てこなかった。乾いてもいなかった喉をもらった水で潤して、コップをカウンターに置いてから答えた。
「あそこはすごく埃っぽいし、来ない方がいい。四季は大丈夫だよ。それに……四季に会わせたくない」
言ってしまってから驚いた。僕は、何を。
秋ちゃんが何かを言おうと口を開きかけた。化粧っ気のない顔立ちはまだ幼く、ナズナとは全然違っていた。
「夏兄。ご察しの通り、朝ほとんど食ってないんだ。もらっていい?」
話を逸らすように、矛先を夏兄に向ける。すでに夏兄は秋ちゃんの入れた麺の上にスープを注いでいた。さっき混ぜていた大鍋とは違う鍋のようだ。
「秋。ちょっと麺が柔らかい。もっと早く上げて」
秋ちゃんに向けてそう言ってから僕に器を寄越す。わかめとコーン、チャーシューが二枚。
「食って感想聞かしてくれ。練習用だけど秋が初めて一人で作ったスープだ。麺は柔らかいけど味は保障する。味付けはまだ見てないと不安だけど、覚えは早くて助かってるよ」
「僕が最初なんて光栄だ」
にっこりと笑って、箸を両手に挟む。いただきます、そう言ってから箸を割る。
「えっ。春さん。あの、それ、私が食べます。春さんはお兄ちゃんのを……」
秋ちゃんが慌てたように身を乗り出すが、僕の方が早かった。麺を啜る。確かにいつもより柔らかい。噛む、というよりも唇で潰れて千切れる。
「美味しいよ? ありがと、秋ちゃん」
飲み込んでから微笑む。この言葉に嘘はない。麺は柔らかいし、夏兄の味とは少し違う。それでも僕は結構好きらしかった。ホッとしたような秋ちゃんに礼を言われ、僕がなぜか安堵した。
ラーメンをスープまで飲み干して、お手拭で口を拭う。ごちそうさまでした、と告げると満足そうに夏兄が器を下げた。
「秋。ごめん。洗い物、頼んでいい?」
夏兄は秋ちゃんが気を遣わないようにと、僕の時と同じように呼び方を約束させた。夏兄が彼女のことを秋と呼ぶこと、そして自分のことを兄として生活すること。
頼まれたことが嬉しくて堪らないというように、秋ちゃんが器を持ってシンクで洗い物を始める。自分がさっきまで食べていたものを洗われているのは何だか恥ずかしい。僕が洗うよ、とでも言いに行きたくなる。そう言えないのは、まだ気を遣おうとする秋ちゃんに対し、夏兄が善意で頼みごとをしているのが分かるからだ。ここにいていいのだと、存在意義を与えるために。僕がここに来た時も、四季の仕事を手伝わせることで存在意義を与えてくれた。あの時は分からなかったけど、夏兄はそういう人だ。
あ、と隣の椅子に目を落とし、漸くそこに乗せたリュックを見て思い出した。
「そうだ夏兄。四季からこれ」
綺麗にラッピングされた箱を見て、夏兄は怪訝な顔をする。
「依頼品。いつのだか知らないけど」
そう補足すると、少し考えた顔をしてから緩慢に、ああ、と呟く。僕がしたように箱を振り、中を確かめてから顔の横に並べる。
「ちょっと片してくるわ。外出るんだったらいってらっしゃい。もうグダグダしてると昼になるぞ」
てっきり目の前で包装を解いてくれるものと思っていた。物も確認せず、受け取って貰えるほどに腕を信用されているのだと言えば名誉なことだが、それよりも何より、僕は中身が気になって仕方がない。じっと穴が開くほど箱を見詰めていると、苦笑するように夏兄が箱を振った。
「気になるのか?」
「だって四季、いつもはそこまで頑丈に封をしない。これじゃあ依頼品じゃなくてプレゼントだ」
「プレゼント……うん、そんなもんだ。あいつは俺から金は取らない」
はぐらかされている。それくらい、僕にも分かった。
四季は確かに夏兄から金は取らない。無償で物を作るし、直す。僕が夏兄に恩義を感じているように、四季も夏兄に恩を感じている。詳しい話は教えてくれないけれども。けれどそれは今回に限った事じゃあない。それなのに今回だけは大層なラッピングなのだ。
開きかけた口にぐっと力を込めて堪える。
これは、僕に話せないことなんだ。
「じゃあ、行って来いよ。秋、片付けはそれだけでいいから春と出かけておいで」
言葉に詰まっていると、わしわしと頭を撫でられる。まるでごめんな、と謝罪されているような気になってくる。
秋ちゃんが濡れた手を拭きながら僕の前までやって来る。エプロンを外し、弾けるように笑う。可愛いな、と思うと誤魔化されたことはどうでも良くなった。
「よろしくお願いします」
礼儀正しくお辞儀をされて、今日はデートじゃなくて、ただの案内だったなと思い出した。思い出してから、デートという響きに赤面する。そんな関係じゃ、ないのに。
「じゃあ、ちょっと用意してきますね」
くるくると変わる表情。愛くるしい笑顔。心臓が締め付けられる感覚は病気ではないのだろう。仮に名前を付けるとすれば――。
考えが一つの結論に結び付く前に、僕のその考察は止まった。小さなトートバックを手に現れた秋ちゃんが僕の名を呼ぶ。
「お待たせしました。では春さん。行きましょうか」
「秋」
小首を傾げて、秋ちゃんが呼び止めた相手を振り向く。無表情のまま、スノーが秋ちゃんに近づき、彼女の首元のリボンを結び直す。このワンピースも、トートバックも、全てスノーのものだ。スノーよりも背の低い秋ちゃん用にスノーが仕立て直したもの。自分のお古を来た秋ちゃんのリボンを整えて、スノーは淡く――微笑んだ。
夏兄に向けるものと同種の微笑み。僕には向けられない気安さ。愛情。優しさ。
スノーは、秋ちゃんに気を許している。夏兄に向けた愛情に相対した嫉妬なんかでもなく、夏兄に向ける愛情を秋ちゃんにも向けている。
僕はこの光景をどこかで見たことがある。そう感じた瞬間に、頭に靄がかかるように思考が止まる。
代わりに、その眼差しが僕には向けられないものなのだと痛感するように気付いてしまった。
言いようもない不安感が胸に沸き立つ。その光景に目を奪われたように背けることができなくなった。喉の奥がキリキリと痛くて、肺が強張って上手く呼吸ができない。
近付けなかった。僕の入るスペースが微塵も残されていない。完全な部外者なのだと、そう突きつけられた気がした。頭の中に言葉が過る。
――一人が嫌なら嫌われないように過ごすしかない。
ピクピクと痙攣するかのような頬が笑顔を形作ろうとする。
秋ちゃんに話しかけたくて、夏兄のもとに向かいたくて、スノーに大切にされたい。どこにも向かえない中途半端な願望が、固まった体の全体に行き渡って泣きたくなった。
「ありがとう、スノー」
秋ちゃんが満面の笑みでスノーに礼を述べる。スノーは小さく首を振って、ゆっくりと僕を見た。いつも通りの静かな瞳だった。けれどそれはまるで何かを見透かすような瞳だ。思わず目を逸らしてしまって、人知れず焦りと気まずさを感じた。そんな僕に気付いているのかいないのか、彼女は何も言わずにキッチンに戻り、夏兄の側に寄り添う。
「今度こそ、行きましょう?」
無言で突っ立っている僕を不思議そうに眺めて、秋ちゃんが言った。僕は鼻からそっと息を吸い、頭を振る。
「行こうか」
今度こそしっかりと笑顔で応える。
彼女の手に伸ばしかけた僕の手のひらは、結局勇気がなくなってポケットに突っ込まれた。
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