第3話
時刻は九時過ぎ。シャッターが開いたばかりの店、まだ閉まったままの店も結構ある。僕は取りあえず、商店街にある二階部分がオープンテラスのようになったファストフード店に入ろうと歩みを進めていた。値段の割にあそこのパイは美味しい。ご飯を軽くしか食べなかった腹が現金にも切なく鳴る。
鳴ったお腹に手を当てながら歩いていると、ふと呼ばれているような感覚に陥った。背中がむずむずする感覚。振り返るのと、しっかりと彼女の声が耳に届くのは同時だった。
「春ってば!」
きっと何度か呼んだのだろう。ちょっとふくれ面を浮かべた女性が振り返った僕のもとに駆けて来る。小さな顔に大きな目。化粧をばっちり施した長い睫。頬がピンク色になっているのはチークとかいうもののせいではなくて走ったせいだろう。身長は僕の肩ほどであるはずだけど、今はハイヒールのせいで僕と同じくらいになっていた。
「ナズナ」
手首もウエストも全部、女らしい柔らかさを消し去らないギリギリまで細い。折れてしまいそうな華奢さだと、いつも僕は思う。
名前を呼ぶとナズナは嬉しそうに微笑んだ。
「朝帰り?」
尋ねると彼女の瞳が不自然に揺れた。いい香りがしたと思うと同時に首元にナズナの腕が巻き付く。引き寄せられるように抱き締められる。彼女は毎回こうだから、初めこそ戸惑ったが、今ではされるがまま抱き締められることにしている。露出度の高い服から伸びた四肢が酷く頼り無さげに見えた。
「何もしてないからね。言っとくけど、私そんなことしない。絶対しない。私のお客さんは皆いい人だもん。私がこういう子だって知ってて指名してくれてるの。ただ傍でお話し聞くだけだよ。愚痴に付き合って、優しい言葉をかけるだけ。……春にだけは誤解されたくない」
抱き締められる力が強くなった。僕は慰めるようにナズナの頭を撫でる。
ナズナは太一さんの店の指名率ナンバーワン。つまりは水商売で生計を立てている。
僕より二つ上、美人な年上のこの女性と僕が出会ったのはほんの偶然だった。気付いたら懐かれていた。年上に向かって懐かれる、なんて何か変だけど。
「知ってるよ。ナズナが言うことを僕は無条件に信じる。そうだなあ、ナズナは頑張ってお仕事してきたみたいだから、ナズナがお客さんに優しくするように、僕がナズナに優しくしてあげる。うーん、どうしよう。ご飯でもおごってあげたいんだけど、ナズナお腹すいてる?」
クスクスと笑い声が耳元で聞こえ、それからナズナが僕から少し離れる。それでも肩に手を乗せた近い距離のまま、彼女は僕を見つめる。
「ご飯は今度でいい。その代わり、一つ言って欲しい言葉があるの。甘い言葉」
「何?」
グロスがついた唇が艶めかしく開く。
「好き」
それから首を少し傾げて、もう一度僕の肩に顔を埋める。
「言って?」
「それが言って欲しい言葉?」
「そ」
「僕は確かにナズナのこと好きだけど。でもそういう言葉って、言ってって言われて簡単に言うものじゃないでしょ。恋人同士ならまだ分かるけど」
少し考えて、それからはっきりとそう述べる。
ナズナが軽い溜息を吐くのが聞こえた。ゆっくりと僕から離れる。
「ほんっと春は鈍感だよねー。素で言ってんだもんねえ」
呆れるように腰に手を当てて笑う。これを言われるのももう何度目か。何度も言われているのに変わらず、さっぱり分からないので少しムッとした。
「何がだよ?」
「さーあ? 気付かないならそれでいいの。それが春なんだから」
結局今日もこう躱されて終わりだ。それ以上追及してもナズナが答えることはないと僕はもう知っている。
「四季は相変わらず引きこもってんの」
思い出したようにナズナが問う。
「雨の日に外出たから体調良くないみたい。病院行けって言っても嫌がるし」
肩を竦め、それから罪悪感に肩を落とす。「ナズナからも言ってやってよ」、力なく続ける。
「しょうがないなあ。あとで電話してみるよ」
ナズナは商店街の一角にある、太一さんが所有するマンションの一つに住んでいる。距離だけを見ると大した距離ではないが、ナズナが僕たちの住む家を訪れることはない。一言で言えば危ないから、だ。職業柄怪我をするような行為は当然避けるし、整備された商店街の付近で十分生活できる。僕らみたいな場所で暮らす者は、まあ、大多数の人から見れば酔狂に違いないだろう。商店街の中にも似たような建物はあるし、そこに人気の店があったりもするから、不便さえ呑み込めばみんな生活に順応できるとは思うけれど。
ふと思い出して腕時計を見ると、針は九時半を指していた。
「うわっ。もうこんな時間」
ここから夏兄の店まで三十分。時間がない。
「そういや春は何しにこんな時間にここに?」
「秋ちゃ……夏兄のとこにいる喪失者の子と夏兄の店で待ち合わせしてるんだ。まだ時間があるからって時間潰してたんだけどもう行かなきゃ」
きゅう、とお腹が物悲しい主張をしたが無視。
じゃあ、と片手を上げてナズナに挨拶する。元来た道を戻ろうと彼女の横を通り過ぎようとした。
「春」
ナズナの細腕が、僕の腕を掴んだ。顔だけで振り返ると、あまりに彼女の瞳が真摯な光を灯していて、刹那言葉を失う。けれど、ナズナはすぐに悪戯っぽい表情を浮かべた。
「どう? 私を買わない? 春。春なら友達価格で安くしたげる。春とだったら追加料金なしで寝たげてもいいよ。こんなんでも人気あるんだから」
ナズナの手がスルスルと僕の腕に絡まりつく。抱き締めるように抱えられて、ナズナの頭が肩口に乗る。淡いコロンの香り。
「僕はそんな冗談嫌いだよ。そういうことでお客は取らないってさっき言ったばかりじゃないか。第一、僕は友達とそんなことしたくない」
彼女の冗談に真っ向から真面目に答えると、ナズナは手を放した。無実を証明するかのように両手を頭の高さまで上げる。年相応の大人びた微笑みで僕を見る。
「そんなムキになんないでよ。ごめん。引き留めちゃったね。じゃあまた」
ごめん、という言葉がどこにかかっているのかはよく分からなかった。冗談に対してか、引き留めたことに対してか。それともどちらにもか。ナズナはいつも通りのナズナらしく、くるっと僕に背を向けて歩き出す。綺麗な足で、高いヒールを鳴らしながら瓦礫の街を歩く。
この壊れきった世界で、背筋を真っ直ぐに伸ばしてナズナは歩いていく。
僕はそんな彼女と背中合わせで歩き出す。これから秋ちゃんのところへ行くのだと思うと、ふわりと心が浮足立った。自然と足取りが軽くなる。歩き慣れた道筋を、瓦礫の街を進んで行く。
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