夜眠少女編/第1話:少女エマ
王都の繁華街は人にあふれ、昼も夜も活気に満ちている。
夜が近づき空が赤くなりかけた午後の大通りを、エマは紙袋を抱えて歩いていた。
袋の中にはパンが数個入っている。盗んだのではない。酒場の掃除を手伝った報酬としてもらったのだ。
孤児仲間の中には食べ物を盗んでくる子供も多いけれど、エマはまだ何かを盗んだことはない。
みんな、子ども扱いをして「エマにはまだ早い」とか言うのだ。自分と同じ十歳を過ぎたくらいの年齢なら、物盗りをしている子だってたくさんいるのに。
でも、エマだってできれば悪いことはせずに生活したい。だからこうして正攻法で食料を調達することにしている。
「エマ」
路地裏に入ろうとしたところで、背後から声をかけられる。
振り向くとよく知った顔の少年が立っていた。
「ブライ」
少し戻って駆け寄ると、頭にぽんと手を乗せられた。自分よりも高い位置にある顔を見上げると、彼は黒い瞳を優し気に細めた。
エマはブライの黒い瞳も黒髪も好きだ。かっこいいなと思う。自分の髪や目もこんなただのくすんだ茶色じゃなくて、彼と同じ色だったらよかったのに。
「どこ行ってた? もう夕方だろ」
「ウィルの酒場の掃除の手伝い。お礼にパンもらった」
「おお、偉い。頑張ったんだな。でもあの店にはあんまり顔出すなよ。人さらいを商売にしてるやつらも出入りしてんだから」
少しだけ眉をひそめるブライに、エマは頬をふくらませた。
エマに対して特に過保護なのは彼、ブライなのだ。
「心配しなくても大丈夫」
「は? じゃあ何かあっても助けてやんないぞ」
「そんなこと言いながら、いざとなったら来てくれるんだよね」
「うるさい」
血は繋がっていないけれど、同じ孤児院で育ったからエマにとっては兄のような存在だ。
それはブライもたぶん同じで、大人たちからのひどい扱いに耐えかねて施設を一緒に抜け出し路上暮らしになってからも、三つほど年下のエマを妹のように可愛がってくれている。
そしてエマの奇妙な体質について一番理解してくれているのも彼だ。
「早く帰ろう。もう日が暮れる。こんな場所で急に寝られたら俺も困るから」
エマは素直にうなずき、ブライと共に薄暗い道に歩を進めた。
エマの身体は生まれたときから変だ。日が暮れると死んだようにぱったりと眠ってしまう。そして夜明けまで何があっても目を覚ますことができない。
この体質のせいでおかしな場所で突然眠ってしまうことも多く、孤児院では他の子どもたちにいじめられていた。大人には夕飯時や夜の点呼などの時間に起きていられないのは悪い子だ、という理由で何かと罰を与えられてきた。
守ってくれたのはブライだけだ。ぶっきらぼうだしあんまり笑わないし意地悪なことも言うけれど、エマがいじめられると相手にやり返してくれたし、エマをかばった罰で一緒にお仕置きをされてしまう日もあった。
もう嫌だと泣いてしまったエマを孤児院から連れ出してくれたのもブライだ。
それからは連れ戻されないように王都まで逃げ、いくつかに分裂して組織化していたストリートチルドレンの集団のひとつに混ぜてもらい、今に至る。
ここではエマのこともみんな受け入れてくれるし居心地が良い。
家も親もないけれど、幸せな毎日だ。
寝床にしている空き地に向かって2人で歩いていると、すぐそばの足元の排水溝の蓋が持ち上がる。中からひょこっとブライと同じくらいの年の少年が顔を出した。
「ブライ、探してたんだ!」
仲間のアンディだ。彼は下水道に住み着いているため、こうして足元から突然現れる。
「どうした?」
「ちょっと仕事、手伝ってくんない? おまわりさんが詐欺師のおっさんと追いかけっこしてるんだけど、地下のどっかに逃げたらしくってさ。俺らの住処に居座られるのも迷惑だからさっさと捕まえて引き渡したいんだよ」
「そのおっさんを探すのを手伝えってこと?」
「そう。おまわりさんが、協力したら駄賃くれるってよ。お前足速いだろ」
一瞬、心配そうな表情のブライと目が合った。エマは大丈夫、と笑ってみせた。
「行ってきてよ。私ひとりで帰るから」
「……もう薄暗いから寄り道すんなよ」
「はーい」
ブライがアンディとともに排水溝の中に入るのを見届けてから、エマは一人で再び歩き始めた。
けれど、少し歩いて建物の角を曲がろうとしたとき。
「どけ!」
「ひゃっ……!?」
曲がり角から飛び出してきた男にぶつかり、エマはその場で転倒した。手にしていた紙袋が地面に落ちる。
見ると、男のほうもぶつかった衝撃でよろめいている。
「あいつだ! アンディたちが探してるおっさん!」
「捕まえろ!」
角の向こうから、数人の少年少女たちの声が聞こえた。
エマははじかれたように慌てて立ち上がった。
この人が、アンディが探していた人なのか。けれど彼はブライと一緒に地下にもぐってしまった。
手を伸ばせば届く場所にいる。捕まえるなら今だ。
エマは男に駆け寄り、彼が着ている上着の裾をつかもうとしたが、一瞬の差でかわされてしまう。
「エマ!」
背後から仲間の誰かが呼びかけるのにかまわず、エマは走り去ろうとする男にすがりつくように駆け出した。
「エマ、もう夜だから行っちゃだめ!」
体調を気遣う仲間の声も耳に届かない。
みんなの役に立ちたい。頭の中にあるのはそれだけ。
必死になって細い路地を追いかける。
迷路のようだけれど、ここは自分の家と言っても過言ではない。きょろきょろと不慣れな様子で逃げる男よりも有利だ。ただし大人と子どもの体格差は否めない。
最初はなんとか男の背中を追いかけていたが、少しずつ距離が開いていく。
人通りの多い大通りに出たところで完全に見失ってしまった。
道を行く馬車や歩いている人々を凝視するけれど、もうわからない。人込みにまぎれて逃げられてしまったみたいだ。
エマは悔しい思いをため息にして吐き出した。
そしてふと空を見上げる。
「……あ」
ちょうど夕暮れが終わりを迎えようとしていた。
寄り道すんなよ。
ブライの言葉が頭の中をよぎる。
しまった、と思った瞬間、身体が重くなりまぶたが下がる。
人の往来が激しい路上で、眠気に抗うこともできずに意識を手放す。
倒れ込んだ瞬間かたい石畳の路上にしたたかに頭を打ち付けて、エマはそのまま眠りについた。
王都。セントクレア家本宅。
シャーロットは廊下を応接室に向かって歩いていた。急に母に呼ばれたのだ。
場所が応接室ということは誰かお客でも来ているのだろうか。
「お母さま? シャーロットです」
軽く身だしなみを整えてからノックをして声をかけると、どうぞと返事が返ってくる。
中に入ると、母ソフィアともう一人見知った顔の年配の男性がいた。
「アンダーソン先生!」
彼はシャーロットの主治医である医者だ。睡眠に関する病の専門家であるためシャーロットの夜眠病についても診てもらっている。
根本的な治療法が見つかっていないため、最近は定期的な問診を受けるだけになっていたこともあり、会うのは久々だ。
「最近、体調はいかがですかな?」
丁寧に頭を下げられ、シャーロットは笑顔でお辞儀を返した。
「おかげさまで、元気そのものです」
ソフィアがシャーロットに座るよう促しながら、嬉しそうにアンダーソン医師に向き直った。
「この子、先日婚約したんですよ」
「それはおめでとうございます。お相手の方は?」
「ロイド伯爵のご子息です。ちょうどうちの三男の同級生で、ご縁があったもので」
「そうですか。お兄様のご友人なら安心でしょうね」
「本当に。といっても結婚はまだ先なんですけれど。向こうもまだ大学に在学していらっしゃるから……」
シャーロットは先月、セオドアと正式に婚約した。ソフィアは一人娘の結婚を予想以上に喜んでいるらしく、会う人にはこうして必ず言いふらしているのだ。
自分の婚約話で盛り上がり始めた母親と主治医をシャーロットは困惑気味に見守る。結局なんのために呼ばれたのだろうか。
そのときふと、アンダーソン医師のとなりにもう一人座っていることに気がついた。
ダークブラウンの髪と瞳の、痩せた小さな女の子。緊張しているのか息を殺すようにして気配を消している。
彼女はシャーロットと目が合うと、悪いことをしたようにそっと目線を下にそらした。
「ああ、そうそう。シャーロット。話があったのよ」
ソフィアが思い出したように話題を変える。
「この子、あなたと同じ夜眠病なんですって」
目線を向けられた女の子はアンダーソン医師に促され、その場で静かに頭を下げた。
「……初めまして。エマ……です」
なぜか名前を名乗るときに不安そうな表情をする。不思議に思いつつ「初めまして」と返事をすると、アンダーソン医師が口を開いた。
「エマは記憶喪失でしてね。道端で倒れているのを発見されたのですが身元がわからず。身に着けていたスカートに「エマ」と刺繍がされていたから、おそらく彼女の名前ではないかと踏んでそう呼んでいます。子どもの持ち物にしるしをつけておくことはよくありますから。ただ、王都内で子どもが行方不明になっている家に照会をかけましたが、彼女の身元に合う家は今のところ見つからないのです。孤児院も同様で」
それにですね、とアンダーソン医師は話を続ける。
「ひとまず王立教会の孤児院に預けたのですが、どうも睡眠障害があるようだとわかり、私のもとに相談が来たのですよ。詳しく診てみるとシャーロット様と同じような症状で、おそらくこの子も夜眠病かと」
「そうなんですか?」
シャーロットは驚きながらエマに視線を向けた。夜眠病は発症者も少ない難病だ。今まで自分以外の患者と出会ったこともない。
王都に、こんな近くに自分と似た境遇の少女がいたなんて。
「あのね、シャーロット。先生がおっしゃるには、身元がわからないというのは路上で暮らしていた孤児だった可能性もあるそうなの。だから、うちで預かろうと考えているのだけれど、どうかしら」
「うちで……?」
訊き返すと、ソフィアはシャーロットとエマを順に見て微笑んだ。
「もちろん、家がわかれば彼女のご家族にお返しするけれど。本当に孤児なのであれば、養子になってもらうつもり。お父様にも相談してあるわ。エマも記憶がない上に夜眠病のこともあるとなると不安でしょうから。あなたが話し相手になってくれれば彼女も少しは安心できるのではないかと思って」
お姉さんになってあげられない? そう問われ、シャーロットはもう一度エマを見た。
末っ子で、弟も妹もいなかった。上手に接してあげられるだろうか。
そんな不安の中に、少しだけわくわくした気分も混ざりこんでいる。自分に妹ができるかもしれない。
再び目が合う。シャーロットは緊張しながらエマに笑いかけた。
「エマさえよければ、ぜひ」
エマは、シャーロットを見ながらぱちぱちと瞬きをし、遠慮がちに頭を下げた。
「あ、あの……こちらこそ、よろしくお願いします」
シャーロット、ソフィア、アンダーソン医師は、ほっとしたようにお互いに顔を見合わせた。
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