第5話:夜空の下のシャーロット
夏に舞踏会で訪れたきりだったロイド家の別荘をシャーロットは再び訪問していた。
呼ばれたのはシャーロットだけ。兄のエディは別荘まで付き添ってはくれたけれど、この休暇中は大学の教授の手伝いで忙しいからと、また戻っていった。
冬の別荘に日食を見に来ませんか。
そんな短い文のお誘いをセオドアからもらっただけで、唐突な招待にそれ以上の説明はなかった。
でも、セオドアに会えるのは楽しみだったし、エディや家族も反対しなかったから、お邪魔することにした。
それに、太陽が月に隠れるという現象は珍しいものらしい。見たことのないシャーロットは、それも楽しみだった。
セオドアと自分と、少人数の使用人しかいない冬の別荘は、静かだ。
昨日ここに到着して庭園を散策させてもらったりもしたけれど、十二月だけあって寒い。シャーロットは暖かい屋敷の中をセオドアに案内してもらったりして過ごしている。
日食は今日の昼前に見られるらしい。まだ観測にはしばらく時間があるシャーロットは、暇つぶしに屋敷内の図書室にいた。部屋の中を歩きながら適当な本を手に取ってぱらぱらとめくってみたりする。
まぶしくなって本から目をあげると、部屋全体を明るくする役割を果たしている大きな窓から、太陽の光が差し込んでいた。今朝は曇り空だったけれど、晴れてきたようだ。
「シャーロット」
呼ばれて振り向くと、いつの間にやって来たのか、セオドアが本棚にもたれてシャーロットを手招きしていた。
「日食の時間にはまだ早いけど、外に出ない?」
セオドアに連れてこられたのは、ロイド家の森の中にある湖だった。以前、彼が人工的に作ったと言っていたが、そこそこの広さで水も綺麗に透き通っている。庭や森と同じくしっかりと管理されているのだろう。
シャーロットとセオドアは小さなボートを漕いで、湖面の真ん中に進んでみた。シャーロットはコートを着たうえに、もう一枚毛布を肩から掛けている。それでも冬の空気が冷たい。
そっと手を伸ばして素手で水に触れてみたけれど、冷たいを通り越して痛い気がして、すぐに手を引っ込めてしまった。それを見ていたセオドアがそっと笑う。彼の鼻や耳も、寒さで少し赤くなっていた。
「ここから日食が見られたら綺麗かなと思ったんだけど、寒いね。これでもまだ今年の冬は暖かいんだけどな。二月頃になったらもっと寒くなって、この湖も氷が張ってスケートができるようになるよ」
「素敵。私、スケートは好きです。何回か家族と一緒に滑ったことがあるけれど、楽しいですよね」
「へえ。そういえば前に学校の庭の池で同級生たちとスケートをしたことがあったけど、出不精のエディが珍しく積極的に滑ってたよ。好きなのかな」
「ええ、たぶん。エディ兄さまは私たち兄弟の中で一番上手に滑れるんです」
そんな話をしているうちに時間が過ぎていき、太陽は少しずつ昇って上空で位置を変えていた。セオドアが両手で目の上にひさしを作りながら空を見上げる。
「あ。もう、始まってる」
「えっ」
「太陽をあまり直接見ないようにね。目を傷めるから。でも少し太陽の端が欠けてきてる。今からだんだん暗くなってくるよ」
太陽を見ようとしていたシャーロットに注意をしながら、セオドアも空から目を離した。そしてにっこりと笑みを浮かべてシャーロットに言った。
「太陽が全部隠れたら、真っ暗とはいかないけれどかなり暗くなるらしいんだ。昼なのに夜みたいになるんだって」
「夜みたいに……?」
夜。その言葉にシャーロットは目をぱちぱちさせた。
「そ。だからシャーロット。本当の夜ではないけど、数分間だけ夜みたいな空を見られるかも。エディによると、この別荘からなら綺麗に皆既日食が見えるらしいから」
セオドアをまじまじと見つめる。だから今日、自分はこの別荘に呼ばれたのか。彼が自分に夜を見せてくれようとして、わざわざ。ちょっぴりくすぐったい気分になりながら空を見上げると、さっきよりもさらに薄暗くなっていた。
なんだかわくわくしてきた。最初は明るい薄青色だった空が、少しずつ深みを帯びた青に変化していく。それに合わせて、太陽のそばをただよう小さな雲も影を濃くしていった。
シャーロットは束の間、自分が兄の友人と一緒に湖でボートの上にいるという今を忘れた。今どこにいるとか自分が誰だとか、夜眠病のことであるとか、いろいろなことがどうでもよくなっていた。
目の前の夕暮れのような空が、いつも眠ってしまって知らない、まだ見たことのないその先の暗さへ変わろうとしているのを一心に見つめる。
やがて月によって完全に太陽が隠れた空は、紺にも黒にも見える色になった。まるで夜のような。
いつもなら、こんなに暗くなったら必ず眠ってしまうのに、起きていられるのが不思議だ。
湖の周囲に茂る木々のすき間の暗闇や、空の色を反射した黒い湖面が少し不安な気持ちにさせる。
「外がこんなに暗くなるのは初めてで面白いけど……ちょっとだけ怖いかも、です」
か細い声でそう言うと、セオドアが安心させるように毛布の上からシャーロットの肩に触れた。
「大丈夫。空、見てみて。あそこに光ってるの、星だよ」
言われた通りに見上げてセオドアの指の先を辿ると、白っぽく輝く点があった。
なんとか見える程度の粒のような光に目を細める。
「絵や写真では見たことがあったけれど、本物の星って、あんなに小さいのに綺麗に光るんですね」
「季節や天気、場所によってはもっとたくさんの星が見られる場所もあるよ。その……もちろん、昼の空じゃなくて本当の夜空に、だけど」
気遣うように口ごもるセオドアに対して、シャーロットは星に目を奪われたまま首を横に振った。
「私、本当の夜空なんて知らないもの。だから、そういう星空に興味がないわけではないけれど……今は、目の前に見えている星が一つだけ見られる空が、私にとっての夜空です」
本当は夜みたいな昼、だけれど。今のシャーロットには、この束の間の静かな紺色の世界がすべてだ。
「これが私の初めて見る夜空です。連れてきてくれてありがとう」
いつの間にか、周囲の暗闇への不安や恐怖は消えている。
視線を感じて、星から目を離し隣にいたセオドアに顔を向けると、彼は黙りこくってシャーロットを見つめていた。
彼の優し気なグレーの瞳にとらわれて動けずにいると、肩に置かれていた手が滑り落ち、シャーロットの小さな手を握った。そのまま手を引かれて抱き寄せられる。
セオドアが顔を寄せてシャーロットの薄い唇にキスをしたのは、一瞬のことだった。
すぐに離れていくセオドアの顔をシャーロットはぼんやりと見つめた。
「……ごめん、つい。嫌だった……?」
おずおずとそう尋ねられて、ようやく何をされたのか理解する。今さらだがシャーロットは頬を紅潮させた。
「……」
「……」
どう答えたらいいかわからず黙りこくっていると、セオドアが慌てたようにシャーロットの手を離した。思わずシャーロットはその手を追いかけてつかむ。
「シャーロット……?」
シャーロットはうつむいて、囁く。
「嫌じゃなかった……です」
十数分の長いようで短い日食は、二人が気づかないうちに皆既状態を終え、空は再び明るくなりかけていた。
数日後、ロイド家の車に送られて本宅に帰ってきたシャーロットは、一足先に教授の観測の手伝いを終えて帰宅していたエディに久々に再会した。
「もう帰宅の挨拶は済ませたか?」
シャーロットの部屋を訪れたエディに、元気よく頷く。
「ええ。お父さまにもお母さまにもご挨拶したし、他のお兄さまたちにもさっき会ったわ。エディ兄さまが最後よ。家には帰れないかもって聞いていたから会えて嬉しい」
「そうか。思ったよりも観測後の片づけが早く終わったんだ。ところでセオのところはどうだった?」
シャーロットはエディが腰かけている長椅子に駆け寄ると、隣に座って「あのね」と彼に笑顔で話しかけた。実は聞いてほしくてたまらなかったのだ。
「すごく楽しかった! 日食のときにね、セオが湖に連れていってくれて、ボートから空を見たのよ。あんなに暗くなるのは初めてだったし、星も見えたの。それから……」
興奮して矢継ぎ早に話している途中でシャーロットは急に言葉を止めた。
「……それから?」
エディが首を傾げる。
シャーロットは、セオドアにキスされたことを思い出していた。あのときの彼の優しい瞳や暖かくて大きな手を思うと、なんだかふわふわした気分になる。
「おい、シャーロット。大丈夫か?」
エディに肩をゆすられて我に返った。慌てて笑みを浮かべて続きの言葉を考える。
「大丈夫。えっと、それから……あっという間に日食も終わって、空も明るくなっちゃった。また生きているうちに見られるかしら。あっ、あと湖なんだけど、もっと寒くなったら凍ってスケートができるんですって。セオが、興味があるならその時期にまた遊びに来てもいいよって」
キスのことは、なんだかエディには言わないほうがいいような気がして黙っておくことにした。この兄に対して、初めての隠し事だ。
まあ結局のところ、後日セオドアが正式にシャーロットに交際を申し込んだことで、湖での出来事もエディの知るところとなるのだが、そんな未来のことがシャーロットにわかるわけもない。
ただ今は、シャーロットの胸の内だけで、忘れられない素敵な一日の思い出として輝いていた。
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