第28話 『根暗先輩とひねくれ後輩の文芸部活動記録』

 僕は行き詰っていた。

 餅は餅屋に――って、あれ? なんか同じようなことを以前にも考えた記憶が。……ダメだ、思い出せない。小説のアイデアも思い浮かばない。

 

 合宿所の一室に軟禁されて早四時間程が経過しただろうか。時計がないので正確なところはわからない。四分かもしれない。多分脳みそのどこかが麻痺している。


「――確かに麻痺しているかもね。さっきからずっと『昔々あるところに』ってフレーズを延々書いては消して、ってしているからね」

 

 呆れたような若竹女史の指摘に僕は改めて手許を見る。消しゴムをかけすぎて罫線すらほとんど消えてしまった原稿用紙の冒頭部分に再び『昔々』と書き出しているところだった。……なんだろう、のどかなはずのフレーズに今は狂気すら感じる。


「……もう無理だ。書けない。こんな地獄みたいな環境じゃ書けるものも書けませんよ」

 

 後半部分は傍らに座っている若竹女史に向けて恨み節を吐く。


「その書けるものとやらを早いうちに書いておけばこんな地獄には来ないで済んだんだけどね」

 

 冷静に切り返されそれ以上の抗議を封じられる。が、さすがに狂気染みてきた僕を哀れに思ったのか、少し椅子を寄せて一緒に原稿に向かってくれた。


「倉井はどうして書けないの?」


「いや、どうしてでしょう……アイデアが浮かばないから?」

 

 ざっくりとした質問に僕も疑問符を付けてお返しする。


「別に深く考えなくたっていいんじゃない? 所詮高校生の文集だし」


「えぇぇ……確かにそうですけど……」

 

 所詮とか言っちゃったよ、この人。一応教育者ですよね?

 

 僕の不信の視線など全く意にも介さずに若竹女史は笑う。


「だから適当に自分の好きなものを書けばいいんだよ」


「好きなもの……」

 

 さっきから止まったままのペン先を見つめる。好きなもの。それは僕が一番言葉にするのが苦手なもので。それを書けと言われても無理なのだ。だからこそこんなにも進めないでいるのに――


「ねぇ倉井」

 

 常に似ず優しい声音に僕は若竹女史に向き直る。彼女はにっこりと――けれどいつもの威嚇用のそれとは明らかに異なる笑顔で言った。


「小説は自由だよ。書評みたいに好きなものを論理的に説明なんてする必要もない。好きなものを好きなように書けばいい。普段は言語化できない気持ちも、物語を通じてなら表せることもあるから」


「言語化できない気持ち……」

 

 思えばずっと、僕はそれを探していたのかもしれない。

 

 自分の『好きの気持ち』をうまく言語化することができなくて、それはきっと好きな本についてだけじゃなく、人間に対してもそうで。

 

 きっとそのせいで、彼女を泣かせてしまった。

 

 だからこそ、僕はいい加減にこの気持ちと向き合わなければならないと思う。言語化できないこの気持ちを、それでも彼女に伝えなければと思うんだ。

 

 そのためにこそ、僕は小説を書くべきなのかもしれない。


「小説は自由、か」

 

 僕がそう呟くと、若竹女史は意外そうに目を瞬かせた。それからふ、と微笑む。


「うん。好きなものも、大切な想いも、なんだって込めていいんだ。『好き』という言葉を使わなくても『好きの気持ち』を伝えることができる。それが小説なんだ」


「はい」

 

 ひどく真摯な口振りに思わず真面目に頷いてしまってから、僕は少し我に返って恥ずかしくなった。


「……なんか、急に文芸部の顧問っぽいこと言いますね」


「いや顧問だからね」

 

 僕の照れ隠しに若竹女史は苦笑した。

 

 凝り固まった体を一度大きく伸ばしてから再び原稿に向き直る。

 

 走り出したペン先は、迷いなく物語を――僕の気持ちを紡ぎ出す。

 

 もう大丈夫だね、と若竹女史の穏やかな声が聞こえた気がした。


   *


 窓ガラスの向こう。長かった夏の日も、今にも山の端に落ちようという頃。

 

 走り続けたペン先がふるり、と全てを吐き出しきったように震えて止まった。

 

 原稿用紙五枚分。

 

 僕の好きの気持ち、大切な想いを込めた小説が書き上がった。

 

 いつの間にか若竹女史は部屋からいなくなっていて、もしや鍵が掛かったままなのでは? という一抹の不安があったのだが、無事に扉は開き軟禁状態を脱することができた。……長かった。シャバの空気はうまい。


 刑期を終えた囚人のような気持ちで廊下を歩いていると、向こうからやってくる紺青の姿が目に入った。少しして向こうもまたこちらに気づく。パタパタとポニーテールを揺らしながら近づいてくると、


「やぁ倉井、おつとめご苦労様です」


「懲役刑じゃないからね?」

 

 まぁ僕もさっき似たようなこと思いましたけどね。


「お、もしかして小説書けた?」


「まぁね」

 

 紺青は目ざとく僕の手の中の原稿用紙を見つける。屈み込んで中身を読もうとする彼女とそれを阻止しようと伸びあがる僕。


「……読ませてよ」


「後でね」

 

 解せぬ、という顔の紺青に僕は「山吹は?」と尋ねた。


「……あー、菫ちゃんなら外行ったよ。気分転換じゃないかな」

 

 素知らぬ顔をして答えているが、一瞬謎の間があったのを僕は見逃さなかった。……こいつ、何か山吹に余計なことを言ったのではないだろうな。気になるので急ごう。


「それじゃまた後でね、紺青」


「――あー、倉井!」

 

 玄関へ向けて早足になった僕の背中を紺青の声が追いかけてきた。


「何?」


「……ちゃんと気持ち、伝えてあげなね」

 

 呆れたような、少し心配そうな口振りに僕は原稿用紙を持った手を振って応えた。


「うん。そのために小説を書いたんだ」

 

 その答えでどれだけ伝わったのかわからないけれど、紺青は笑って「早く行け」とばかりに乱暴に手を振り返した。


   *


「山吹」

 

 折しも山の端から僅かに覗く夕陽が山吹色に景色を染めていた。そのどこか郷愁をかき立てるような色を浴びながら、合宿所の前の階段に座り込む小さな背中に声をかける。


「先輩」

 

 ゆっくりと振り向いた山吹はやっぱり少しぎこちなく表情を強張らせていて。どこか寂しげな色に沈むその顔が以前の泣き顔みたいに見えて、僕は一瞬息を呑んだ。

 

 怯みそうになる心を叱咤して一歩、彼女のもとへ近づく。


「……先輩、軟禁されている、って聞きましたけど」


「さっきようやく解放されたんだ」

 

 言葉端にぎこちなさの残る軽口を叩く山吹に、僕は手に持っていた原稿を差し出した。

 

 鼻先に突きつけられたそれに、山吹はちょっと寄り目になる。


「えっと……?」


「ようやく小説が書けたから。一番最初に山吹に読んでもらおうと思って」

 

 大事なことは小説に込めた。後はこれを読んでもらって、込めた気持ちを受け取ってもらうしかない。

 

 山吹は躊躇いがちに原稿に手を伸ばす。


「……どうして、わたしが一番最初なのですか?」

 

 そう問いかける瞳は頼りなく揺れていて、けれどその奥には微かに期待するような色が見え隠れしている。

 

 僕は――僕の小説はその期待に応えられるだろうか。どうかそうあってほしいと思う。


「この小説は僕の大切なものを――そして大切なものへの『好きの気持ち』を書いたものだから。今までどうにも言語化できなかった気持ちを、誰よりも山吹に読んでほしいんだ」

 

 好きの気持ち、と音もなく山吹の唇が動く。

 

 それからため息を吐くような一瞬の後、原稿が僕の手から離れた。


「ひねくれ後輩との文芸部活動記録……?」

 

 タイトルを目にした山吹は思わず、といったふうに零した。


 大切なもの。好きの気持ち。そう前置きした小説のタイトルがそれだ。出オチにも程があるけれど、確かめるようにこちらを見る瞳に、頷いて先を読むよう促す。

 

 山吹は階段に座ったまま姿勢を正すと、原稿に目を通し始めた。

 

 手持無沙汰な僕は、取り敢えず人一人分の距離を置いて山吹の隣に腰掛ける。

 

 もどかしい時間が流れていく。


 遠く山肌を舐めるように落ちていく夕陽、その中を飛ぶ鳥を目で追いかけていると、隣で小さく息をつく音がした。

 

 隣を見ると、同じようにこちらを見る双眸とかち合う。


「……えっと、あの、読んだ?」


「……読みました、けど」


「……けど、何?」


「……このひねくれ後輩って、もしかしてわたしがモデルなのですか?」


「……もしかしなくてもそうだね」


「……そうですか」

 

 なぜかずっと神妙な顔をしていた山吹だったが、最後の一言で何かが決壊したのか「はぁぁぁ」という盛大なため息と共に膝の間に頭を埋めた。え、何、どういう感情?


「あの、山吹……?」

 

 恐る恐る呼びかけると、


「……本当にもう、なんなのですか、先輩は。こんなのが『大切なもの』とか『好きの気持ち』とか、……あぁもう、こんなのってないですっ……今までわたしがどんな気持ちで、ぁあもうっ」

 

 ところどころ死滅した語彙でぶつぶつ言い出した。怖っ……。

 

 まぁでも、山吹の気持ちもわからないでもない。

 

 書いている時こそ必死だったが、今思い返してみると背筋をぞわぞわと毛虫が這い回るようなむず痒さを覚えるような内容である。


『ひねくれ後輩との文芸部活動記録』とはどんな小説であるか。

 

 端的に言えば僕と山吹の部室での日常をベースにした物語だ。

 

 先輩と後輩が部室で皮肉や嫌味を言い合って、時々こそばゆいやり取りもする、そんな他愛もないお話で。

 

 そのお話の中でひねくれ後輩はいつも笑っている。

 

 からかうようなうすら笑い。


 ほんのり照れたような恥じらいを含んだ笑み。


 そして花が咲くような、無邪気な笑顔。

 

 それがいつも僕の傍にあってほしいと思う『大切なもの』だ。

 

 そして物語の最後――


「先輩」

 

 少し笑ったような山吹の呼び声がして僕はそちらを向く。

 

 上目遣いで僕を見る山吹はからかうような笑みを浮かべていて。


「先輩はわたしのことを、ただの後輩だと思っていますか?」

 

 それは物語の最後を飾る会話をなぞったセリフ。答えは小説の中に書いてある。

 

 けれど、わざわざそれを口にして尋ねてきたということは、ちゃんと言葉にしてほしいということなのだろう。名付けられることのない関係が壊れてしまうことを恐れていた彼女だから。

 

 だから。


「僕は山吹のことを、口が悪くて性格も悪くて面倒くさくてひねくれていて――――それでも、そういうところも全部ひっくるめて、傍にいてほしい大切な後輩だと思っているよ」

 

 ――それが僕の、『好きの気持ち』だ。

 

 そのセリフは口にするにはひどく芝居がかっていて、なんだか大げさな気もして、同時に全然言い足りない気もした。

 

 からかうような笑みを形作っていた山吹の唇がふるり、と震える。


「……ずっと、ですか?」

 

 ぽつり、と零れた短い言葉は小説には書いていないアドリブで。

 

 拭いきれない不安がこびりついたその瞳の奥、そのさらに奥の彼女の心まで届くことを願いながら、僕も短いアドリブを口にした。


「ずっとだよ」

 

 真っ直ぐ見つめながらそう言って、じわじわと気恥ずかしさがやってきた僕は慌ててそっぽを向く。

 

 その一瞬。

 

 山の端に夕陽が隠れ切る最後の輝きが、山吹の顔を鮮やかに染め上げる。

 

 その顔はくしゃりと歪んでいて――けれど、今まで見たどんな笑顔よりも可憐な花が咲いていた。


   ***


「あ、先輩。さっきの小説、もう一回貸してもらっても良いですか?」


「えぇぇ、ちょっと恥ずかしいんだけど」


「今さら何を言っているのですか……いいから貸してください」

 

 階段に並んで腰かけながら、山吹は僕の手から原稿を奪い去る。


「先輩、ペンって持ってます?」


「あるけど」

 

 もう面倒なのでおとなしくペンを差し出すと、山吹は嬉々として原稿用紙に何やら書き始めた。


「山吹、僕の小説に落書きするんじゃない」


「落書きではないのですよ。……できましたっ」

 

 そう、得意げに原稿を突きつけてくる。なになに……。

 

 小説のタイトル、元々は『ひねくれ後輩との文芸部活動記録』だったものが、『ひねくれ後輩』の横のマス外に『根暗先輩と』という文言が追加され、『ひねくれ後輩との』の『と』にバツ印が付けられていた。


「……え、改題しろってこと?」


「はい。やっぱり、わたしと先輩で文芸部ですから、表記は平等にしましょう」


「はぁ……」

 

 いやでも、根暗先輩って、……まぁひねくれ後輩も大概だし、いいか。


『根暗先輩とひねくれ後輩の文芸部活動記録』

 

 口の中で転がしてみる。うん、存外に悪くない。

 

 僕らにはきっとそのくらいが丁度良いのだ。


「あ、そういえば先輩」

 

 またも何か思いついた様子の山吹に僕はしかめ面を向ける。


「そろそろいい感じで纏まりそうだったのに、なんなの?」


「いえ、先輩がわたしをどう思っているかは聞きましたけど、わたしが先輩をどう思っているか言っていないな、と思いまして」

 

 そのことについて紺青先輩にも説教されたのですよ、と山吹は肩を竦める。紺青め、やはり余計なことを言っていたか。


「……いや、この間大嫌いって言わなかったっけ」


「それはそれ、これはこれなのですよ」

 

 もはやなんの説明にもなっておらず、勢いだけで押し切ろうとする山吹。いや、どれなの?

 

 聞いても無駄な問答になりそうなので、おとなしく拝聴することにする。


「わたし、先輩がわたしの傍にいてくれるのは一人ぼっちだったわたしに同情していたのだと思っていて、今はその延長でしかないのだと、そう思っていたのですけれど」


「いや、そんなことは……」


「でも違いました。先輩はわたしに罵られるのが大好きなマゾヒストだったのですね」


「それは絶対に違う」

 

 マゾ疑惑は大分前に否定した気がするのだけれど。


「ふふ、冗談ですよ」

 

 可愛らしく、けれど多分に嗜虐的な笑顔を浮かべる山吹。もうすっかりいつも通りだ。

 

 こちらをからかうような、楽しそうな笑み。


「わたしは先輩のことを、根暗で友達も少なくてひねくれていて不器用で―――――そういったところを全部ひっくるめても、傍にいてあげても良い先輩だと思っていますよ」


「なんで上からなんだよ」

 

 結局最後にはこうやって山吹にいいように扱われるのだ。大切な後輩、なんて言ってしまったのは早計だったかもしれない。

 

 そんな内心の不満を見計らったかのように、つい、と山吹は身を寄せてきた。長い黒髪がふわり、と鼻先を掠めて踊る。


「……本当は、大切な先輩だと思っているのですよ」

 

 誰よりも、と密やかに囁くような声が耳朶をくすぐった。

 

 ……まったく、最初からそうやって素直に言ってくれれば良いものを。

 

 熱くなった(そして恐らく赤くなっている)耳たぶを手で隠しながら、僕は確信する。

 

 やっぱり、山吹菫はひねくれている。

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