間話 山吹菫の葛藤

 なぜかわたしは文芸部の合宿なんてものに来ている。

 

 ……いや、部活動なのだから何もおかしいことはないのだけれど。それでも紺青先輩からは『嫌なら無理はしなくてもいいからね』と言われていたので、来ない選択肢もあるにはあったのだ。

 

 どうせいつか別れる時が来るのなら。それならいっそ自分から離れてしまえば良いと、そう思っていたはずなのに。

 

 それなのに来てしまったのはなぜなのか。自分でもよくわからない。ぐちゃぐちゃだ。あの日、部室で先輩にみっともない泣き顔を――幼いわがままを晒してしまってから、ずっと。


「――菫ちゃーん、おーい?」

 

 目の前でひらひらと揺れる手の平にわたしは物思いから醒めた。紺青先輩が不思議そうにこちらを覗き込んでいる。


「あ、すみません。ボーっとしてしまって」


「いいよいいよー、ゆっくりやろ」

 

 にこり、と優しげに笑う紺青先輩にわたしも曖昧に笑い返した。

 

 合宿所の一室、わたしは紺青先輩と文集の原稿以外の細かい部分について打ち合わせをしている。何やら先輩は別室に軟禁されて小説を書かされているらしい。

 

 先輩にはちょっと悪いけれど、わたしは少しほっとしていた。顔を合わせても何を話せば良いのか、今のわたしにはまるで見当もつかなかったから。これまであんなにも気安く話せていたことが、今となっては嘘みたいだ。今日なんて、わたし『……いえ、結構です』しか言っていないし。なんなら先輩よりもよっぽど根暗っぽい。

 

 なんてことを思っていたら、はぁぁぁ、と深いため息が漏れた。


「菫ちゃん?」


「あ、ごめんなさい。わたし、また」

 

 集中していなかったことを慌てて謝ると、紺青先輩は笑ったまま少し困ったように眉を下げた。


「倉井のこと、気にしているの?」

 

 ずぶり、と胸元の柔い部分を突かれたような気がした。その内側で渦巻くものは、先輩に対するまとまらない感情ばかりだ。誰かに話してしまいたい。ぶちまけてしまいたい。けれどそれを紺青先輩に話したところでどうなる、と思う自分もいる。

 

 わたしが黙ったままでいると、紺青先輩はふいに大きく伸びをした。


「ちょっと休憩しよっか」


   *


 ロビーの片隅に設置された自販機とベンチ。休憩所と呼ぶにはいささか手狭なそこに、わたしと紺青先輩は並んで腰を下ろした。


「はい、菫ちゃん」


「あ、ありがとうございます……」


「倉井に『大嫌い』って言ったんだって?」


「……はい。先輩から聞いたのですか」


「まぁ、ね」

 

 手に持った緑茶の缶の一つを渡しながら何気ないふうに尋ねる紺青先輩に、わたしは咄嗟に目を伏せた。

 

 先輩はなんでも紺青先輩に話すのだな、とまた性懲りもなく思ってしまう自分がいる。卑しい心の動きにまたぞろ自己嫌悪が顔を覗かせる。


「ねぇ、菫ちゃん。それって本当の気持ちなの?」

 

 伏せていた目をつい、と下から覗き込まれて、わたしの心臓はどきりと跳ねた。


「……どういう意味ですか?」


「どういうって……菫ちゃんって、素直じゃないじゃん? だから本当は好きなのに何か理由があって反対のこと言っちゃったんじゃないかなー、って、……菫ちゃん、変な顔してるけど大丈夫?」


「……へっ、あ、いえ大丈夫です。――ではなくて、えっと、わたしってそんなにわかりやすく素直じゃないですか?」

 

 紺青先輩の指摘にぽかん、と無意識のうちに開いていた口を慌てて閉じる。素直じゃないって、紺青先輩にはバレていたの? 高校生になってから先輩以外にはひねくれた性根を見せないようにしてきたつもりだったのに。

 

 わたしの驚きを尻目に、紺青先輩は若干呆れたように笑いながら首肯した。


「そりゃあね。図書室で初めて会った時もあんなに『わたしから先輩を取らないで』オーラ出してたのに、でも付き合っているわけじゃない、って、こりゃあこじらせているな、と」

 

 うっ……そんな恥ずかしいオーラ出していたつもりはないのだけれど……。それでも紺青先輩の指摘は的を射ているように感じた。

 

 肩に入っていた力がへなへなと抜けて、わたしは観念して話すことにした。


「……紺青先輩にはもうバレていると思うのですが、わたし、高校では猫を被っていて。中学生の頃はもっと、その、ひねくれていたというか。……友達なんかも全然いなくて」

 

 結構唐突であったはずのわたしの告白にも、紺青先輩はケロリと笑って応じる。


「あー、確かに友達とかいなさそうだねー」


「い、今はいるのですよっ」

 

 誤解のないように訂正はしておく。なんだか紺青先輩の視線が生温かくなっている気がしてならないので。


「……それで、その、先輩だけは中学の頃からわたしのことを遠ざけたりしないで、隣にいてくれて。わたし、これからもずっとそうなのだろうな、ってどこか高を括っていたのです。先輩がわたしより先に卒業してしまうとしても、別に、全然追いかけられますし。でも」

 

 言葉が少し鼻に詰まった。思えばこんなふうに誰かに自分の気持ちを語ってみせることなんて初めてのことだった。素直じゃないなんて言われたことで、却って開き直ってしまえたのだろうか。


「でも、この間の花火大会で先輩と紺青先輩が一緒にいるのを見た時に、『これからもずっと』なんて、そんな保証どこにもないのだな、と気づいてしまったのですよ」


「その件については誤解で、わたしと倉井はただの友達だよ――っていうことは聞いている?」

 

 紺青先輩の柔らかい声に頷いて応える。でも違う。そういうことではないのだ。


「違うんです。たとえ紺青先輩ではないとしても、これから先、先輩にも特別な人ができる可能性があるのだな、って、そう思ったのです。そうなったらきっと先輩はわたしの傍からいなくなってしまう。年齢とか、所属とか、そういう隔たりならどうとでもなります。でも、先輩の気持ちが全然別の方に向いてしまったら、そんなの、無理じゃないですか……」

 

 ぐしゃり、と語尾が震えてしまって羞恥に頬が熱くなる。改めて言葉にしてもひどく幼く、身勝手な感情だった。紺青先輩だってさぞ呆れていることだろう。

 

 けれど、掛けられた声は存外穏やかだった。


「菫ちゃんは怖いんだね。倉井がいつかどっかに行っちゃうかもしれないって。だから『大嫌い』なんて言って突き放そうとしたんだ。そうすればもう『いつか』に怯えなくて済むから」

 

 的確にわたしの感情を切り取ってみせる紺青先輩は、けれど真摯な眼差しで瞳の奥を見据えてくる。


「でもさ、そうやって遠ざけて、菫ちゃんは楽になった? 違うんじゃない?」

 

 見透かしたような言葉に唇を噛む。そうだ。怖くなって、遠ざけて。でもわたしの心の中はずっとぐるぐると渦巻いている。楽になるどころか、どんどん苦しくなる。


「……でも、どうすれば良いのか自分でもわからないのです」

 

 結局わたしの口から出てきたのはそんな弱々しい言葉で。

 

 やっぱりわたしは他者とうまく関わることができないのだ。どれだけ取り繕ってみても、根本的なところでわたしは欠落していて。そんな卑屈な想念が胸の内を満たして息ができなくなりそうだった。溺れていく思考に引きずられるように、俯く。

 

 けれど、パチリ、と頬に力がかかってわたしの顔を持ち上げる。紺青先輩に両手で頬を挟まれ、やむなく彼女と正面から見つめ合う。


「怖いからって、自分の中に籠っているだけじゃ、ダメだよ」

 

 真っ直ぐに、強い瞳が訴えてくる。


「傍にいてほしいのなら、『傍にいて』って言わなきゃ伝わらないよ」


「でも、先輩は優しいから……そう言えばきっと傍にいてくれるけれど、でもそんな同情や哀れみみたいなことをされても……嬉しくないです」

 

 そうなのだ。きっと中学の頃からずっと、先輩は一人ぼっちのわたしを放っておけなかっただけで。その優しさに甘えるようなこと、わたしはしたくない。


「――はあぁぁ、面倒くさっ」

 

 唐突に、紺青先輩は深ぁいため息を吐いた。えぇっ、急に何?


「菫ちゃん、君、面倒くさすぎるよ!」


「えぇ……」

 

 そんなズビシっと指を差されましても。


「あのねぇ、そもそも考え違いをしてるよ、菫ちゃんは。あの倉井がただの同情なんかで菫ちゃんみたいなクソ面倒くさい女の子と一緒にいるわけないでしょ! あいつもたいがい根暗で人間関係には消極的なんだから、そんなボランティア感覚で誰かと接するなんてありえないから!」


「今クソ面倒くさい、って……」


「とにかく!」

 

 抗議しかけたところを無理やり封殺される。え、今普通に罵倒されましたよね?


「あいつもあいつなりに思うところがあって菫ちゃんと一緒の時間を過ごしてきたんだと思う。だから菫ちゃんも自分の殻に籠って怖い怖い言ってないで、ちゃんと自分の気持ちをぶつけてみなよ! それでちゃんと倉井の気持ちも聞くこと! そうすれば、えっと……多分良い感じになるから!」

 

 紺青先輩はぐわぁぁっとまくし立てると一息に残っていた緑茶を飲み干して立ち上がる。……なんか最後の方は適当に濁していましたけれど? お茶だけに、ってこと?

 

 なんだか釈然としない部分が残りながらも「はい、じゃあ休憩終わりね!」と言う紺青先輩に引っ張られるようにしてその場を後にする。

 

 手に持った緑茶の缶はとっくに温くなっていた。

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