第26話 告白
「先輩の文集用原稿の進捗はどうですか? とお尋ね頂けますか、紺青先輩?」
「……だそうですけど」
「えと、今第三稿の半分くらいまで書いたかな」
「…………」
「――と、伝えてもらってもいいかな、紺青?」
「……だそうですけど」
「わかりました、とお伝え頂けますか、紺青先輩?」
「――ぅぁああ! ええい、まどろっこしい!」
第三回の文芸部文集作成会議。その席で僕と山吹の間に立たされていた紺青は、とうとう我慢の限界がきたように叫んだ。いやまぁ、気持ちはわかる。
例の花火大会での一件。
あの後、僕と紺青の関係を何やら誤解していたらしき山吹にラインで説明はしたのだが、既読は付いても返信は皆無。数日が経った今でも彼女の態度は取り付く島もない。
まずもって部室での座る位置。いつもなら僕の対面に座るところを、わざわざ長机の一番端まで移動している。もちろん目も合わせないし、事務連絡ですら紺青経由で伝えてくる始末だ。
下手に近づこうとしようものなら刃物のように鋭く尖った視線で牽制される。いや、目だけで間合いを制するとか剣豪なの? なんて軽口も叩けない雰囲気である。
「もぉ無理! こんな空気じゃやってられない! 私はしばらく席を外すから、二人でちゃんと話をつけといてねっ!」
早口でまくし立てた紺青はばぁぁん、と部室の扉を乱暴に開けて出ていった。まぁ居た堪れない気持ちはわかる。できるものなら僕も後に続きたかった。
取り残された僕と山吹は一瞬顔を見合わせるが、すぐに彼女の方がふい、と顔を背ける。
「……あの、山吹。やっぱりまだ怒ってる?」
このままでは永遠に死の沈黙に支配される、と僕は決死の覚悟で口を開いた。が、じろ、と剣呑な目つきで睨まれる。うん、聞くまでもなかったですね。
けれど、山吹はふっ、と目許の力を抜いた。その顔になんだか弱々しい、白っぽい表情が浮かぶ。
「別に、怒っているわけでは、ないです」
ぽとり、と雫のように零された山吹の言葉に、僕は意外な心持ちがした。
伏せられた彼女の双眸の上で睫毛が震える。何かを堪えているような、安易に触れることが憚られるような、そんな風情だった。
「ただ、気づいてしまったのですよ。自分の心根の悪さに」
「え」
その言葉に、今度こそ僕は完全に虚を突かれた。いや、まさかそんなことが……。
「えっと、まさかとは思うんだけれど……、え、それ、今さら気づいたの? 山吹の心根はずっと前から悪いよ?」
山吹の心根が悪いのは今に始まったことではない。僕が彼女と出会った時には既に悪かった。むしろそれがアイデンティティであったとさえ言える。それなのに、今さら?
「……なんなのですか、この間から。本当に友達がいたのか、だの、前から性格悪いだの、先輩はわたしを怒らせたいのですか?」
「いや、単なる事実確認ですけど……」
険を取り戻した目つきで睨んでくる山吹。やっぱり怒っていますよね?
どう接すれば良いものか、と思案している僕に向かって山吹は小さくため息をつく。
「……では、もし仮にわたしが怒っている、と言ったら先輩はどうしますか?」
「怒っているんじゃないか……」
「仮定の話です」
「えぇ……そりゃあ、謝る?」
「何に対して謝るのですか?」
「そりゃあ、怒らせてしまったことに対して?」
「ではわたしは何に怒っているのですか?」
「えぇぇ……」
いや知らないけど!? というか結局怒っているの、いないの、どっちなの!?
「いえ、本当はわかっているのです。わたしは、きっと自分に対して怒っているのだと」
「ぉぉう……」
とうとう自己完結しちゃったよ、この子……。え、なんなの、人に尋ねておいて「本当はわかっているのです」って? じゃあ訊くなよ。
なんだか眩暈がするような頭の中で、いやぁな予感がし始める。これは確実にアレがくる……! 脳内アナウンスが『暴走特急・やまぶき、間もなく当駅を通過します』と告げている!
「……あの、山吹? 君の性格が悪いことなんて、別に今さら気にしていないからね? いつもの軽口みたいなものだよ。そんなことを気にしていたら、中学から高校までこんなずっと一緒にいたりしないだろう?」
「――っ、」
「……ん?」
ふるり、と唇を震わせて俯いていた山吹が何か言いかけた気がして覗き込むと、
「先輩がそうやって優しくするのが悪いのですよっ」
「ぅぇええ!?」
ブレーキ代わりに置いた僕のフォローを跳ね飛ばして暴走列車が通過していった。どういうこと……? 僕が悪いの? というかやっぱり怒っているじゃん……。
哀れ暴走列車に轢き潰され疑問符を大量に撒き散らかす僕を尻目に、山吹はどんどん加速していく。
「わたしはこんなにも性格が悪いのに、先輩はいつも傍にいてくれるからっ。だからわたしは勘違いして、……本当は先輩だって紺青先輩のように明るくて親しみやすい女の子の方が良いに決まっています。それなのにっ、」
「んん? なんで紺青が出てくるんだ? 紺青と僕はなんでもない、ただの友達だって言ったよね?」
「それならわたしと先輩だってただの先輩と後輩ですっ」
「? それはまぁそうですけど……?」
激したように吐き捨てる山吹に僕は曖昧に頷くことしかできない。何を当たり前のことを。
「だったらなんで先輩はわたしに優しくするのですかっ?」
「えぇ……先輩が後輩に優しくしちゃダメなの? 昭和の運動部なの?」
「っ、先輩はそうやってすぐに茶化そうとします! わたしはこんなにも真面目に話しているのに、良くないです、そういうのっ」
「マジの説教じゃないですか……」
「先輩が悪いのですよっ、この、ばかっ」
「罵倒が稚拙すぎる! 大丈夫、山吹? 体調でも悪いの?」
いつもなら聞いているこっちが怒りを通り越して呆れてしまうほど豊富な語彙で罵ってくるのに、急に小学五年生レベルの『ばかっ』しか言えなくなるだなんて!
「――っ、またそんな人を悪口を言うしか能のない人間みたいに言って! どうせ先輩はわたしのことなんて、口が悪くて性格も悪くて面倒くさくてひねくれている後輩としか思っていないんですっ」
「いや、まぁ…………概ねその通りです」
否定してあげたい気持ちはあったけれど嘘はつけなかった。正直者の自分が恨めしい。
「だったらっ」
がたり、と立ち上がった山吹の背後で椅子が鳴る。
彼女は湧き上がる感情を抑えられなくなったように、震える唇で言葉を紡いだ。
「――だったら、わたしのことなんて、嫌いになるはずです……」
語尾が、じわりと滲んだ。俯いた拍子に零れる髪の向こう側で小さな雫が光るのが見えて、僕は息を呑む。
「――山吹、泣いているの?」
恐る恐る問いかけると、山吹は両手の平で顔を覆ってしまう。
「泣いていません」
「いやでも――」
「泣いていませんのでっ」
幼子が嫌々をするように顔を隠したままぶんぶんと頭を振る。……どうしよう、全然説得力がない。
「ねぇ、山吹。山吹は僕に嫌われたいの?」
今までに放たれた言葉の断片を頼りに、僕は彼女の涙の意味を探そうとした。
「そうじゃないとおかしい、と言っているのです」
山吹は頑なな声音で言い張る。
「何がおかしいのかわからないよ。山吹の口が悪かろうが、性格が悪かろうが、僕は別に嫌いになったりなんてしないし」
僕の言葉に、そっと、山吹の顔の覆いが取り払われる。露わになった目許はほんのり赤かった。嫌々をしたせいで髪も乱れたままだ。
「嫌いじゃないのなら」
笑おうとするように口角が不格好に持ち上がる。そして。
「――わたしのこと、好きになりますか……?」
溢れそうな感情を押し留めきれなかったみたいに、くしゃり、と彼女の顔が歪んだ。
まただ。
息が止まる。そんな錯覚をするくらいに激しい感情が喉元にせり上がってくる。
山吹の苦しそうな、傷ついたような顔が僕の胸を狂おしい程に――この手でかきむしりたくなる程に詰まらせる。
この文芸部に山吹が入部してからというもの、彼女とは長い時間を一緒に過ごした。その時間の中で、彼女はたくさんの顔を見せるようになった。
僕をからかう時のうすら笑い。
意外と反撃に弱く、頬や耳を赤く染めて照れる顔。
フグの擬態さながら不機嫌そうに頬を膨らませた顔。
微笑みの裏に怒りを忍ばせた不穏な表情。
そして、時折見せる蕾が花開くような笑顔。
そのどれもが僕にとっては新鮮で、他の表情ももっと見てみたい、と思わせるものだった。
でも、僕が見たいのはこんなふうに苦しげに歪められた顔じゃない。涙の跡が痛々しく、見ているこちらの胸も哀切に締め上げられるような泣き顔なんて、見たくはないのに。
僕は山吹に、いつも笑っていてほしいのに。
不遜でも、面倒くさくても、ひねくれていてもいいから、笑っていてほしい。
けれど。
目の前の少女の涙を拭ってあげたいのに、僕にはその術も――涙の理由すらわからない。
「……ずるいですね、こんな言い方」
僕が何も言えないでいるうちに、山吹は今度こそ上手に笑って言った。さっきまで小さな子どものように泣いていたのに、そんなふうに上手に取り繕ってしまえる彼女の不器用さが、こんなにも苦しい。
もう、そこにいるのはすっかりいつもの――ひねくれ者で可愛げのない後輩でしかなくて。
「ごめんなさい、先輩。突然わけのわからないことを言って、怒ったり泣いたりして。でも女の子にはこういったヒステリックな一面もある、ということを根暗な先輩に教えてあげるためだったのですよ?」
からかうようなうすら笑いは完全に見慣れたそれだ。
多分山吹はこうして誤魔化すことでいつも通りの、僕らの文芸部の日常に戻ろうとしている。だから僕も笑って、いつものように軽口を叩くべきなのだろう。
そう思ったのに。
笑う山吹の頬には、くっきりと涙の跡が残っていて。
それを見たら、僕にはとても無理だった。見ない振りなんて、できない。
「……ごめん、山吹」
何を謝っているのか、自分でもよくわからない。でも言わずにはいられなかった。
「……なんで先輩が謝るのですか。いつもみたいに皮肉とか、嫌味とか、言えばいいじゃないですか」
一度は取り繕ったはずの山吹の声音が、また湿りけを帯びる。
「……先輩のその、遠ざけるでもなく、かといって近づきすぎるでもない距離感が、わたしには心地良かったのですけれど」
山吹は泣き笑いみたいな変な顔で、その背後からは場違いに明るい夏の陽射しが降り注ぐ。部室はひどく暑くて、僕の喉はすっかり干上がったようにカラカラだった。
「今は、それが怖いのです。わたしたちはただの先輩と後輩でしかなくて。先輩はいつか離れていってしまうから。それが卒業でも、誰か――わたしよりも大切で親密な人ができた時だとしても」
だから、と山吹は言葉を継ぐ。僕はもう、彼女の顔を真っ直ぐ見られないでいた。
「だから先輩。わたしを嫌ってください。遠ざけてください。いつ来るかわからないそれに怯えるくらいなら、いっそその方が良いのですよ」
そうだろうか。それで、本当にいいのだろうか。
釈然としない気持ちばかりが湧いて、けれどそれに対する答えは見つからなくて。
「山吹は」
ようやく、僕は乾ききった喉からそれだけを絞り出す。
「僕のことが嫌いなの?」
もう、戻れないと思った。
今までずっと触れずに、踏み込まずに、ぬるま湯に浸るように過ごしてきた日常には。
「――大嫌いです、先輩のことなんて」
遠く、山吹の声が聞こえた。
俯いていた顔を上げると、窓を背にしていたはずの彼女は部室の扉の前に佇んでいて。
いつの間に移動していたのだろう。窓から差す陽射しが、背を向けようとする山吹の横顔を一瞬だけ白く切り取る。
「さようなら、先輩」
扉を開けて出ていくその瞬間、山吹は泣いていた。
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