第18話 寂しいとは言っていない
何が彼女をそうさせているのか、というと間近に迫った一学期期末試験――ではない。
言わずもがな、その後に控えたる全学生待望の夏休みに、である。
いやまぁ、僕とて夏休みは嬉しい。が、しかし彼女のそれは度を越している。ここ最近の彼女は口を開けば夏休みがどうの、とかしましいことこの上ないのだ。
「先輩、夏休みといえば何か予定はあるのですか?」
「先輩、夏休みといえば部活の合宿なんてものも定番ですよね」
「先輩、夏休みといえば――」
「ちょっと待った、山吹」
今日も今日とて心だけは早くも夏休みに突入しているらしい山吹に、堪らず僕は両手の平を見せた。けれど当の山吹はきょとんと目を瞬いている。何事? みたいな顔をしているけれど、それはまったくこっちのセリフだ。
「一つ、一つだけ言わせてくれ――――君、いくらなんでも浮かれすぎだろ! このところ口を開けば夏休み夏休みと、馬鹿の一つ覚えみたいに!
いいか、確かに夏休みはもうすぐだが、その前に期末試験というものがあるんだよ! 試験前の今僕らがこうして部室にいるのも、テスト勉強をするためという名目があるの! それなのに君は勉強も全然手についていないし、壊れたラジオみたいに夏休みのことしか話さなくなるし、どうしたっていうんだ! 頭の中向日葵畑か!? ちゃんと勉強しなさい!」
ここ数日間の鬱憤が噴出した僕の長広舌に山吹は一瞬ポカンとしたが、やおら怪奇現象にでも遭遇したかのように目許を引きつらせる。
「せ、先輩が偉そうに正論を振りかざしてくるなんて、いったいどうしたのですか? 夏休みが近いからって浮かれているのですか?」
「君がな! 君が浮かれて熱暴走を起こしたみたいにポンコツ化しているから仕方なく僕が正論なんてものを言い聞かせなきゃいけなくなっているんだよ! いいか? 勉強しなさい!」
「先生……?」
「先輩だよ!」
あまりにも危機感のない山吹に僕はため息を禁じ得ない。
「まったく、この調子で君が全然勉強せずに期末試験で赤点なんて取ったら、そんなに楽しみにしている夏休みが補習漬けになるかもしれないんだぞ?」
「赤点……補習……となると夏休み中も学校に……はっ」
「今置かれている状況がわかっただろう?」
ようやく危機感を覚えたか、と安堵した僕を、けれど山吹はあっさりと裏切った。
「わかりました。わたし、赤点を取ります」
「話聞いてた!? 何がわかったのか全然わからないよ!」
「なので先輩も赤点を取ってください」
「何、その流れ弾!? 文脈が全然わからない!」
この後輩、もはや日本語も通じない程ポンコツ化している。普段はそれなりに知性を持っているはずの山吹ですらここまでアホの子になってしまうとは、夏休みとはかくも恐ろしいものなのか……あぁ、頭痛い。
「本当に、いったいどうしてしまったんだよ……」
頭を抱える僕を見て山吹は不満げに頬を膨らませる。
「先輩が悪いのですけど」
「僕の何が悪いと言うんだ……」
もうダメだ。意味がわからなすぎる。宇宙かよ。
山吹の更生を諦め、僕は長机に突っ伏した。もういいよ、赤点でもなんでも勝手に取ればいいよ。僕知らない。とは思うものの、仮にも先輩としてここで後輩を見捨てて良いものか。いや、良くないな。今一度歩み寄る努力だけでもしてみるべきか。
そう決意し、頭をもたげ再度山吹と向き合う。
「だって、先輩に夏休みの予定を訊いても『家で本を読む』しか言わないですし、部活は合宿どころか夏休み中には活動しない、とか言いますし」
「言ったねぇ」
山吹氏の供述に僕は首肯する。ここまではわかる。
「だからもう、補習を受けるしかないのですよ」
「なぜぇ」
再び机に沈む僕の頭部。頑張ってついて行こうとしたのに一瞬で振り落とされた。何、この暴走列車。
「なぜって……そうでもしないともう学校に来る理由もないですし――というか、逆になぜわからないのですか」
ぷいっと仏頂面になる山吹。えぇ……今までの会話のどこかに解答載ってましたかね? それとも暗号か何か? 僕ミステリは読むけど、解決編までサクッと読んじゃうタイプなのでそういうのよくわからないです。
山吹は不機嫌そうにぷくぷくとしているし、僕は僕でもう水揚げされたクラゲみたいな無力さを味わっているしで、すっかり消沈ムードの文芸部部室に、唐突にノックの音が響いた。
「おーい、ちゃんと勉強してるかー、って――してなさそうだな、これは」
部室の扉を無遠慮に開け放って入ってきてジロリ、とこちらを睥睨したのは顧問の若竹女史だった。なんという間の悪さ。
「テスト勉強に部室を使わせてほしいって言うから様子を見に来てみればこれだよ……」
これ見よがしなため息に僕は慌てて抗議する。
「違うんですよ。さっきまではちゃんと勉強していたんです。というか今も勉強と言えなくもないというか……対人分野の人生勉強的な」
もごもごと言い淀んでいると若竹女史はナイフのように怜悧な視線で僕を貫く。
「人生は試験範囲に含まれますか?」
「……含まれないですね」
「わかったらちゃんとテスト勉強すること――あー、それと確認なんだけど、今年の文芸部の文集作り、進捗はどんな感じ?」
何気なく放たれた若竹女史の言葉に僕の脳は一瞬停止した。
文集。そうか、すっかり忘れていた。
思わぬ事態に固まる僕とは対照的に、山吹は椅子をガタッと鳴らして若竹女史に向き直る。
「文集? 文芸部は文集を作っているのですか? わたし、何も聞いていませんけれど」
「え、部長から聞いてないの。毎年夏休み後の文化祭で文集を出してるんだけど……その様子だと何も進んでないのか」
こくり、と頷く山吹。僕、愛想笑い。
「期末試験が終わってから始めるとなると、夏休み中にがっつり作業することになるな」
「えぇー」
「えぇっ」
顧問の夏休みぶっ潰し宣言に、僕と山吹の上げた声は字面こそ似ていたが込められたニュアンスには雲泥の差があった。
「……なんで嬉しそうなの、山吹」
「えっ、いえ別にっ、あー、夏休みにわざわざ学校に来なければいけないなんて嫌ですねー。先輩が文集作りのことを忘れていたせいですよー」
「まぁそれは悪かったけれど……なんかやっぱり嬉しそうなのは何? 補習を受けようとしていたこともそうだけど、そんなに学校に来たかったの?」
「いえ、学校に来たいというか、その」
もにょもにょと口ごもっていた山吹はちろり、と上目遣いを向けてくる。
「夏休みは長いですから、その間会わないのは寂しいかな、と思ったのですよ……――あ、わたしではなく先輩が、という意味ですよ!」
慌てて言い繕った言葉に、僕は一連の山吹の不可解な言動にようやく得心がいった。
わかってみればなんのことはない。山吹が文芸部に入部して早一学期が過ぎようという今、この部室で過ごす日々はすっかり日常の一部で。
それが一ヵ月以上もなくなると考えるとやっぱり少し物足りない気がするのだろう。それは僕も一緒で、つまりその気持ちは『寂しい』という言葉に言い換えることもできるのかもしれない。
寂しいから会いたい、なんて、僕らは死んでも口にはしないだろうけれど。
若竹女史が出ていくのを見送り、山吹はにこり、と不遜なうすら笑いを浮かべる。
「――さて、夏休みも部活動をすることが決まったわけですし、赤点なんか取らないようにちゃんと勉強してくださいね、先輩?」
いや、それは散々僕が言っていたことですけどね?
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