第15話 友達(本当にいた)
「あれ、先輩」
部室の長机に座り本を開いていると、同じく鞄からブックカバーの掛かった文庫本を取り出していた
「どうしたの、山吹?」
「いえ、いつもは文庫本なのに今日は珍しくハードカバーの本なのですね」
「あぁ、そういうこと」
そう言われると確かにそうかもしれない。ハードカバーは文庫よりも少々値が張るのであまり買わないし、買ったとしても持ち歩くにはかさばるので大抵家で読んでしまう。必然的に普段部室で読むのは文庫本となる。それは山吹も同様だ。
「先輩のくせにハードカバーを買うなんて、随分と羽振りが良いのですね……あっ、わかりました。友達のいない先輩の出費には交際費という項目がないので、その分わたしよりも書籍に費やせるのですね。それなら納得なのですよ」
「勝手な憶測で人を貶めて納得するな。これは買ったのではなく図書室で借りたものだ」
山吹の失礼極まりない推測を打ち落としつつ、本の裏表紙を捲って貸出カードのポケットを見せる。
山吹はそれを見て小さく頷いてから、こてん、と小首を傾げた。
「でも、それはそれで珍しいですね。先輩、中学の時なんて年中図書室にいたのに全然図書室の本なんて読んでいなかったではないですか」
まるで僕が図書室に引きこもっていたみたいな言い草だが、それは図書委員だったからであって、ちなみにそれを言うのなら山吹だって同類である。
「まぁ、中学の図書室は普通に品揃えが悪かったからね。というか、山吹だって昔からいつも自前の本じゃないか」
僕の指摘に山吹は微妙な顔をする。どうしても通らなければならない道の脇に肥溜めがあることに気づき、それでも見ない振りをして通り過ぎる時のような諦念と嫌悪の表情。
「わたし、保存状態の悪い本を見ると非常に気分が悪くなるのです。図書室の本って、結構雑に扱われていることも多いではないですか。だから不快な気持ちで本を読みたくないので自分で買っているのですよ」
なるほど、本好きの山吹は本のこととなると少々行きすぎた潔癖を発揮するらしい。
「よくそれで図書委員なんてやっていたものだね。返却された本を戻す作業とかで嫌でも目にするだろうに」
「そうですね。そういう時は先輩の方が多くなるように作業量を割り振っていたのですが……。その反省から高校では図書委員になりませんでした」
「今さらっと過去の怠慢を暴露しなかった?」
「なんのことでしょう」
涼しい顔ですっとぼける山吹を僕は唖然として見遣る。
そうか、あの頃山吹は僕より仕事が速いなぁ、なんて思っていたのは単純に彼女の方が仕事量が少なかったからなのか。よくぬけぬけと『先輩は仕事が遅いのでもっと効率を考えて動いたらどうですか』なんて言ってくれていたものだ。
僕の不穏なオーラを感じたのか、山吹は明後日の方向を見ながらやけに明るい声を出した。
「……こほんっ、それにしても、先輩も高校では図書委員にならなかったのですね。何か理由があるのですか?」
山吹の問いに、過去の己の失敗が蘇る。中学時代、意気揚々と図書委員に立候補した僕を打ちのめした現実が、まざまざと。
「――図書委員になればさ、ずっと本を読んでいられると思っていたんだよ」
ため息混じりにそう言葉を吐くと、山吹は綺麗な眉を僅かにしかめる。
「でも、現実はそうじゃなかった……。確かに受付で座っている間本を読むことはできたけれど、貸出の手続きや本の検索なんかをお願いされる度に中断しなければならなかったし、返却された本を戻したり、本棚の並びを点検したり、傷んだ本の補修をしたり、細々した仕事も多くて、全然自分の読書に集中できなかったんだ……」
言いながらも、苦い記憶が生々しく僕を苦しめる。息をする間も惜しいくらいに夢中で読み進めたお話がとうとうクライマックスに差し掛かった瞬間、『あの、貸出お願いします』という無粋な声で現実に引き戻されるあの空虚さ。
「僕は……ただ、本を読んでいたいだけだったんだ……それなのに、図書委員なんていう甘美な響きの言葉に騙されて、したくもない仕事をやらされ読書時間は減るばかりだった……そんなのはもう、うんざりだったんだ……だから僕は図書委員をやめた」
「先輩が真剣な顔でめちゃくちゃ馬鹿なこと言ってる……」
山吹はドン引きしていた。
「図書委員が図書室の仕事をするのは当たり前ではないですか……何馬鹿なことを言っているのですか。馬鹿なのですか?」
「おい、何度も馬鹿馬鹿言うんじゃない」
「むしろ先輩が『馬鹿』なんて安直極まりない罵倒しかできない程に愚かなのが悪いのですよ?」
「えぇ、ひどい言われようだな……さすがに半分くらいは冗談だよ?」
「半分も本気ってところに驚愕を禁じ得ません」
鉈でぶった切るように言い捨てる山吹。今日の彼女は切れ味では普段よりも劣るが、割と普通に引いている感じが精神にダメージを与えてくる。
「えーっと、ともあれ、そんな感じで高校では図書室から離れていたんだけれど、友達に図書委員の奴がいて。結構うるさくて、あんまり図書委員って感じではないんだけど」
力業で話題を軌道修正するも、山吹の微妙な顔は直らない。むしろ哀れみすら込もる視線を感じる。そんな目で僕を見るんじゃない。
「……先輩、あんまり細かい設定を語ると後で齟齬が出てくるかもしれませんよ?」
「イマジナリーフレンドの設定じゃないから! ちゃんといるから、図書委員の友達!」
「はぁ、まぁ先輩がそこまで言うのならそういうことにしておきますけれど」
まったく信じていないな、こいつは……。
山吹の態度には幾分不満が残るが、僕は数日前の紺青とのやり取りを手早くまとめて話した。
「――で、その彼女が大層薦めてくるものだから、僕も読んでみようと思って図書室で借りてきた次第ってわけだよ」
「…………?」
特にオチもない僕の話に耳を傾けていた山吹だったが、数秒間フリーズしたかと思うと疑問符が浮かんだ顔でしげしげと見つめてきた。
驚いているような、疑っているような、なんとも居心地の悪い視線を遠慮なく注がれる。なんなのだ、いったい。
「どうしたの、山吹……?」
「いえ、あの……さっき『彼女』って言いましたけど、先輩の友達って、もしや女性なのですか?」
「? ……そうだけど」
その瞬間の山吹の顔といったら、地球外生命体でも見つけたかのような驚きと猜疑に満ち溢れた、今までに見たことがないようなものだった。
かと思うと、今度はポンプで空気でも送り込んでいるかのようにぷくぷくと頬が膨らみだす。……たまにフグの擬態をするのはなんなの、趣味なの?
「ふぅん、先輩はその女友達と好きな本の話をするくらい仲良しなのですね」
むっすりと膨れたままの山吹が吐き出した言葉はトゲトゲしていて、フグというよりはむしろハリセンボンを思わせる。どちらにせよあまり可愛くはない。
そんな可愛くない後輩の山吹は、ぽつりと呟く。
「……わたしだって、先輩と好きな本の話をするようになったのはつい最近なのに」
思わず、といった風情で零されたそれを僕は聞き逃すことができなかった。
今まで僕は好きな本の話も、読んでいる本の話も避けていた。いわば精神的なパーソナルスペースだ。そこに誰かを招き入れるのは、旧知の仲である山吹相手でも躊躇いがあったのだ。
だからこそ山吹は、僕が彼女の与り知らぬところで友達とそういう話をしていたことが不満なのだろう。山吹は『根暗で友達のいない先輩にわざわざ構ってあげている優しい後輩』という役割に酔っているので、僕が普通に交友関係を持つことを快く思っていない節があるから。
要するに、山吹が膨れている理由とはすなわち『自分のものだと思っていた玩具(おもちゃ)を誰かに取られたようで面白くない』という気持ち――これだ! ……いや、誰が玩具だ。
まぁおおよそ山吹が不機嫌な理由がわかれば対処のしようはある。
むすり、と黙り込んでいるフグ――じゃなくて山吹に僕は言う。
「あの、山吹。何か誤解しているかもだから言うけど。紺青と本の話をしたのは今日が初めてだよ? というか一方的に彼女の好きな本を薦められただけだし」
ちら、とそっぽを向いている山吹の横顔を窺うも、その頬はまだ不機嫌そうに膨れたままだ。
ぅうん、これ以上言うのはちょっと恥ずかしいのだけど……まぁそれで山吹の機嫌が直るなら……でもなぁ。
しばらく悩んだが、もうこの際言ってしまうことにする。
「僕は自分の好きな本とか、それを好きな気持ちとか、そういうのを話すのは正直まだ苦手で。……だから、僕がそういう話をできるのは、今のところ君だけだよ」
やっぱり『好き』だの『君だけ』だの、言ってみると恥ずかしさで体温が上がるのを感じる。
こんな顔を赤くして何やら含意が読み取れないこともないセリフを言っているなんて、また山吹にからかわれそうだ、と思って彼女を見ると、
「…………っ」
なぜか彼女の横顔から、ぷしゅうぅ、と気の抜けるような音がして、先程まで膨れていた頬と耳の辺りまでうっすらと赤く染まっていた。いや、恥ずかしいのは僕の方なんですけどね?
「ま、まったく、根暗で口下手な先輩の話を聞いてあげられるのなんて、わたしくらいしかいないのですから。本当に仕方のない先輩ですね」
なんて高飛車とも取れる言葉を吐きながらも、山吹の口許はほんわりと緩んでいて。
……何はともあれ、ご機嫌は直ったみたいなので良しとしておこう。
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