間話 山吹菫の日常
毎朝、鏡に向かって笑顔の練習をする。
今ではもう、すっかり自然に笑えるようになった、ような気がする。
どこか作り物めいたその笑顔には、かつて周りの誰もを敵だと思って睨みつけていた孤独な少女の面影はない。
けれど、わたしは知っている。その笑顔は嘘だ。偽物だ。
そのうすい笑顔の下には、人を傷つけることをなんとも思わない、それが自分なのだと開き直るような、そんな醜い性根が隠れていることも。
そんな欺瞞を、わたしは今日も見て見ない振りをするのだ。
*
「あ、おはようー、すみれちゃん」
「おはよう、あんず」
教室に入ると、わたしの一つ前の席の
「ねー聞いて? 今朝の占いでわたしの運勢一位だったの。何かいいことあるかなー」
「今日返ってくる小テストの点数が良いとか」
「あー、それ嬉しいー」
ふにゃふにゃと目許を緩める杏に、わたしも自然と笑みが浮かぶ。テレビの占いなんてもので気を良くしてしまえる杏の他愛のなさが、わたしは結構好きだ。言ってしまえば単純で、子どもっぽい性格だけれど、幸せのハードルなんて低い方がきっと生きやすい。わたしにはないそれを時折羨ましく感じる。
「いや、待ちたまえ、アンちゃん。返ってくるテストの結果が今日の運勢で決まるというのはおかしいと思わないかね?」
唐突に、わたしと杏の間から生えてきたお団子ヘアーが異議を述べてきた。
「あ、手毬ちゃんおはようー」
「おっはよん、アン」
「おはよう、手毬」
「おっはさん、スミ」
マイペースな杏がお団子ヘアーを引っ張って立たせながら挨拶をすると、眠そうな顔で全身を現した
「で、手毬ちゃん、さっきのはどういう意味?」
ほんわりした問いかけに、手毬は待ってました、とばかりに杏に向かってズビシッ、と指を突きつけた。が。
「お、アンのほっぺは柔らかいな。水まんじゅうのようだ」
大発見、と杏のほっぺを執拗にぷにぷにする。
「手毬、脱線しているよ」
「そうだよ、それに水まんじゅうって見た目のわりに結構固いよ。せめて大福にしてよー」
杏がこれまたズレた抗議の声を上げたところで「おっはよー!」と教室中に響き渡る大声と共に
「おはようー、鏡花ちゃん」
「おはよう、鏡花」
「おっはに、キョウ」
「おっはに? 何言ってんの手毬?」
めいめい挨拶を交わしたところで(案の定手毬の挨拶は怪訝そうな顔をされていた)、わたしと杏の机を囲むようにいつもの四人が揃う。
「なんの話してたの?」
鏡花の問いに、
「わたしの今日の運勢の話ー」
「水まんじゅうと大福どっちが好きか、って話」
杏と手毬が各々答える。どっちも真面目な顔なのが極まっている感じだ。
「ヤバ……全然噛み合ってないじゃん……」
異空間に迷い込んだかのような顔をしている鏡花は助けを求めるようにわたしを見た。仕方ないのでわたしが簡単に説明する。
「あんずが占いで運勢が一位だって言うから『今日返ってくる小テストの点数が良いかもね』っていう話をしていたの。そうしたら手毬がそれはおかしくない? って。今はその説明待ち、という感じかな」
「へぇー……てかマジで水まんじゅうと大福はどっから出てきた」
「アン氏のほっぺたから出てきたのよん。キョウちゃんも触ってみ」
「ほぇえ、あんずのほっぺ柔らかぁ」
「きょうかひゃん、てまりひゃん、ひゃゆうからつっつかひゃいでー」
二人からほっぺをぷにぷにされている杏は文句を言いながらも無抵抗で、満更でもなさそう。というかさっきからまったく話が進まない。
「ねぇ手毬。さっきのは結局どういう意味なの?」
ほっぺつつかれマシーンと化した杏の代りにわたしが訊くと、手毬はようやく満足したのかつつくのを止めると説明を始めた。杏、ちょっと寂しそうにほっぺを触るのやめなさい。
「アンの今日の運勢がいくら良くっても、それがテストの点数に影響を与えるのはおかしいって話だっけ? 要するにさ、テストの点数ってものはさ、返ってくる日じゃなくてテストを受けた日には決まっている、ってことなんだよね。たとえ今日のアンちゃんが最強の運勢でも、テスト受けた日の運勢が弱々だったらもちろんその日のテストの結果も弱々なわけで」
「なるほどー。手毬ちゃん賢い!」
心から感心したように手を叩く杏。確かに弱々そうではある。頭とか。
「ちょっと待って!」
一方真剣な顔で異議を唱えたのは鏡花だ。
「今の手毬の話だと、あんずのテストの点数はテストを受けた日の運勢によって決まる、ってことだよね? でも違くない?」
「……その心は?」
すっ、と目を細める手毬、ごくり、と喉を鳴らす杏。そしてわたし、愛想笑い。
やがて、鏡花は神妙な面持ちで、
「――テストの点数ってさぁ、どれだけ勉強をしたか、で決まるもんでしょ?」
至極当たり前のことを言ってのけた。もちろん真顔だ。極まっている。
「……! 鏡花ちゃん、すごい、その通りだよ……!」
「キョウ氏、運命論の否定とは……やるねぇ」
杏と手毬はそれぞれ鏡花に称賛の視線を送る。手毬はなんとなく頭良さそうなことを言っているけれど多分何も考えていない。杏は言うまでもなく何も考えていない。
「ふふ、そんなに褒めるなよぅ」
とりあえず褒められると気持ち良くなってしまう鏡花は馬鹿二人の賛辞にも頬を染めている。あまりのチョロさにこの子の将来が心配ですらある。
「それで、あんず。テスト勉強はどれだけしたの?」
「え?」
話の流れ的に訊くべきか、と思って放ったわたしの質問に杏は疑問符を頭上いっぱいに浮かべてみせた。いやいや、まさかね。
「小テストって実力を計るためのものだよね? だから勉強なんてしてないよー?」
「…………」
あっけらかんと、わたしの予想ど真ん中の回答をする杏。この子は、本当にもう……!
「それでよく良い点取れるかも、なんて話に乗ってこれたね……鏡花、あんずにも勉強の大事さを教えてあげた方がいいんじゃない?」
「へっ、あっ、ももももちろんっ! 勉強は大事よー」
「…………」
めちゃくちゃ棒読みで勉強の大事さを説く鏡花はわたしと目を合わせない。
「……もしかして、鏡花も勉強していなかったの?」
「えへへ、あの、定期試験なら勉強するよ? でも小テストとかいちいち勉強してられないっていうか……」
いったいどの口で運命論を否定したのか。自分がやらないことを偉そうに言うんじゃない。
「へいスミ。私には訊かないの?」
「だって、手毬が勉強なんてするわけないじゃない。中間テストですらノー勉だったのに」
かもん、と指先をクイクイする手毬にわたしは先回りした。そう、この手毬という少女、『テストなんて普段の授業の復習じゃん。わざわざテスト前にまとめて勉強するなんて非効率では?』なんて嘯くような奴である。まったく、誰かさんに聞かせてやりたいものだ。それにしても馬鹿なのか賢いのか、未だによくわからない子ではある。
「まぁそれでいい点取れるのだから、しょうがないよね」
「うわぁん、ずるいよ手毬ちゃん!」
「手毬ー! 中間試験、あんたにだけは勝てると思ってたのにー!」
「ふはは、負け犬の遠吠えが耳に心地良いわー」
阿鼻叫喚の騒ぎの中で、わたしは小さくため息。浮かべ続けていた笑顔が綻びそうで、改めて気を引き締めているところでHRの予鈴が鳴った。助かった。
*
「うわぁん、すみれちゃん、小テスト赤点だったよー!」
放課後、二十三点の答案をぶんぶんと振り回しながら泣きついてくる杏に、わたしはうっかり「そうでしょうね」と本音を漏らしてしまった。
「つ、次のテストはちゃんと勉強頑張ろうね」
慌てて笑顔でフォローを入れると、
「うん、勉強するー」
と至って素直な返事。良かった。素直なのは杏の数少ない美徳だ。
「でもその前に小テストの再試験があるのー」
杏は捨て犬が拾ってもらうのを待っているような、なんとなく哀れっぽい表情を向けてくる。そんな顔をしている杏を見捨てることは、今のわたしにはできない。
「……じゃあ、教えてあげるから、今から一緒に勉強しよう」
そう笑顔で言うと杏の顔がふにゃふにゃと崩れていく。
「うんっ、やっぱりすみれちゃん好きー!」
「現金な子ね」
どこまでも無防備な笑顔に、またつい本音が零れてしまった。慌てて口許を押さえるけれど、杏は気にした様子もなくニコニコふにゃふにゃしている。
「たまぁに辛辣になるところも、好きだよ?」
そんなことを、真っ直ぐ言ってくる。
でも違う。そんなことを言えるのは昔のわたしを知らないからで。彼女はわたしの本質が優しい人間だと思っているからこそ、時折零れる本音にも目を瞑ってくれる。
でも、本当は逆なのだ。杏が一側面だと思っている辛辣な部分こそわたしの本質で、偽物の優しさでそれを隠しているに過ぎないのだ。
杏は、それを知ってなおわたしのことを好きだと、言ってくれるだろうか?
……なんて、そんなことは考えるだけ無駄だ。それは絶対に知られてはいけない。そのつもりもない。わたしは、杏と手毬と鏡花と、今の関係を壊したくはないから。
ようやく手にした、友達と呼べる人たち、なのだから。
「あのー、すみれさん? 実はあたしも再試験で……」
「わーい、鏡花ちゃん仲間ー!」
「ちょ、あんずと一緒にしないでくれる!?」
「……鏡花も一緒に勉強しようか」
「それはお願いー!」
「スミちゃんスミちゃん、私も一緒に勉強いい?」
「良いけど、手毬は赤点じゃないでしょう?」
「そうだけど、キョウとアンが悶え苦しむ様を近くで眺めていたい」
「ひどいよ手毬ちゃん!?」
「手毬ー! あんた期末で絶対負かすからねぇぇ!」
「ふはは、井の中のプランクトン共が吠えよるわー」
またしても阿鼻叫喚となる一団の端っこで、わたしはスマホを取り出してメッセージを送る。
『友達の勉強を見てあげることになったので、今日は部活行けません。すみません、先輩と違ってわたしには友達がいるばっかりに』
ややあって既読が付き、その後返事がくる。
『了解。あと僕にも友達はいるから。何度も言わすんじゃない。鳥頭か、君は』
素っ気ない、辛辣なやり取り。でも、だからこそ今のわたしには必要なのだ。
ふいに視線を感じて顔を上げると、杏が柔らかく微笑んでわたしを見つめていた。その温かな眼差しにどきりとする。
「あんず、どうしたの?」
「んーん。ただ、すみれちゃん、楽しそうに笑ってるなぁ、と思ってー」
「そ、そう?」
「うん! とっても好きな人なんだねー」
わたしのスマホを指差しながら杏はふわふわと笑う。
好きな人? 先輩が? 杏の言葉を反芻し、それから首を振る。
違う、あの人はそういうのではない。好きとか恋とか、そんな簡単な言葉で片付けられるようなものでは。もっとこう、何ものにも代え難い、特別な存在なのだ。
だから、別に好き、とかでは決してないのだから……!
「すみれちゃん、顔真っ赤だよー?」
「へぇ?」
「あ、ほんと。すみれ、どうしたの?」
「キョウとアンが赤点なんか取るから、スミの顔まで赤くなったのだよ!」
「えぇー、そうなのすみれちゃん!? ごめんねー!?」
「手毬、あんたはまた適当なことばっか言ってー!」
「……もうっ、勉強するよ!」
気を抜くとすぐに騒ぎ出す三人をなんとか勉強に向かわせながら、バレないようにまた小さくため息。
なかなかに個性的な三人を相手にするのは大変だ。いつも優しく笑顔で接するのも疲れる。
けれど、それでもわたしが彼女たちと一緒にいるのは、きっと彼女たちと過ごす日常が大切で、必要だからなのだろう。
それは先輩との時間とは別の意味で、けれど同じくらいに、わたしにとって特別なのだ。
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