第13話 衣替え
部室の扉を抜けると雪国であった。
なんて一瞬でも思ってしまったのは、先に部室に来て座っていた
彼女はひどく白かった。それこそ雪の精が季節外れに訪れたかのような、そんな清廉な白さであった。別に顔面蒼白であったとかではない。
要するに山吹は衣替えをしていた。紺色のブレザーを脱いだその姿は、ブラウスの白さがやけに眩しく見える。多分夏服のブラウスが新品だからだろう。
何せ着ている本人の腹の中は白いどころか真っ黒である。この眩しさは山吹本人由来ではなく、夏服由来の成分であると察せられた。うん、絶対そうだ。
「あの、先輩」
扉の前に立つ僕を横目で見ながら、山吹は口を開いた。
「な、なに」
「なんというか、見すぎではないですか?」
言いながら、山吹は居心地が悪そうにもぞもぞとする。横髪を一房耳にかけると、うっすらと朱に染まった肌が覗いた。
「いや、これは、その、……馬子にも衣裳だな、と」
うっかりとそんなことを言うと、山吹はにこり、と凄絶な笑みを浮かべた。なぜだか、殺される、と本能が叫ぶのが聞こえる。まずい、話題を変えねば。
「というか、夏服にするの早くない? まだ六月に入ったばかりだよ?」
僕らの高校では六月の頭から二週間、制服の移行期間が設けられている。今日はまだその期間が始まったばかりということもあり、大抵の人はブレザーを着たままだ。
「そうですね。クラスでもわたし一人でした」
こくり、と山吹は首肯する。
「けれど、どうしても早く着たかったのですよ」
うすく微笑みながら、山吹は意味深に僕を見た。何、その理由を訊けと?
「……えっと、どうして?」
「はい、ではどうしてでしょうか?」
「あ、クイズ形式なのか……」
楽しげに人差し指をつい、と立てる山吹に僕は面食らった。どうしよう、そこまで興味ないのだけど。
僕の困惑をよそに、山吹は立てた指をチッチッチ、と倒していく。えぇ、制限時間あるの……。
「えっと、じゃあ、暑がりだから――とか?」
「違います」
ええいままよ、とパッと思い浮かんだ答えを口にするが山吹は冷徹に切り捨てた。いや知らんし……。
僕の反感もよそに山吹の指は刻々と時を刻んでいく。なんでそんな頑ななの? とは思うがなんとなくこちらも意地でも当ててやろう、という気になってきた。
「えっと、ちょっと待てよ。早く衣替えすることの理由……暑さが原因ではないとすると、外見的な部分か……? それとも心理的側面からのアプローチ……?」
「なんかブツブツ言い出した……」
真剣に取り組んだら取り組んだで引き気味に顔を引きつらせる山吹。そっちが出題してきたのに理不尽だろ……。そんな理不尽にもめげずに僕は思考を巡らす。唸れ、僕の灰色の脳細胞……!
夏服と冬服の違いとは? 目に見える一番大きな変化はブレザーがなくなることだ。部室に入った時に白さが強烈に印象づいたことからもそれは明白だろう。では、ブレザーを着ないとどうなるか? 薄着になる……軽くなる……あ。
「わかった! ブレザーを脱いで体が軽くなったことで肩こりが解消される!」
「違います。……そもそも私、肩凝ってないですし」
「えぇ……あぁ、まぁ確かに凝らなそうだね」
「……今、どこを見て言いました?」
臙脂色のリボンタイの下、ブラウスの慎ましやかな膨らみから視線をちょっと上に移すと、そこには凄みに満ちた顔があった。あの目は恐らく過去に数人は処理している目だ。ヤバい。
「と、というか、さすがにノーヒントじゃ難しいと思うのだけど。何かヒントはないの?」
「ヒントですか……そうですねぇ」
苦し紛れの話題転換だったが山吹の気は逸れた。ほっ。……全然関係ないけれど闘牛士ってこんな気持ちなのだろうか。
さっきまで時間を刻んでいた指をあご先に当て、山吹は思案げに小首を傾げる。その拍子に彼女の髪が一房零れ、艶やかな黒が白いブラウスの上で踊った。そのコントラストはとても鮮やかで、僕の目は否応なしに惹きつけられる。
「ええっと、先輩が見惚れていたではないですか」
「え」
やおら放たれた山吹のセリフに、僕はまさに今この瞬間を咎められたような気がして鼓動が速くなった。
「あ、さっき部室に入ってきた時のことですが」
「あぁ……いや別に見惚れてはいないけど」
なぜか咄嗟に嘘をついた僕に山吹は苦笑する。
「さすがにそこを否定するのは苦しいですよ……」
「あれは、あの、山吹の服が白くて照明を反射していたから目が眩んで……」
「先輩の桿体細胞弱すぎではないですか」
確かに。これからはもう少し光に反応する視細胞を鍛えよう……ではなく。
「僕が山吹の夏服を見ることと、君が早くに衣替えをすることのどこに関係が?」
「そうですね……要するに、深淵を覗く時にはなんとやら、といったところでしょうか」
ヒントはここまでです、と言って山吹はくつり、と笑う。どうしてだろう、涼しげな服装に変わっただけで笑顔の輝度すら上がったように感じられるのは……なんて、そんなことを思ってしまう自分に気づいてむず痒い気持ちになる。どうも山吹が見慣れない姿なのが違和感なのだろうか。
異様に据わりの悪い視線を持て余していると、ふいに妙な心地がした。
無理やりに視線を前に向けると、じっ、とこちらを見つめる二つの深淵。
「……あの、どうしたの、山吹?」
長机の上で組んだ両手の甲にあごを乗せ、こちらを一心に見る山吹に僕は慄いた。
「いえ、お気になさらず」
澄ました顔でそう嘯いてから、ふわり、と蕾が花開くような笑顔を浮かべる。
「ただ、わたしの夏服姿に先輩が照れているのが他愛もなくて可愛らしいな、と思っていたのですよ」
その瞬間僕は気づいた。
異様に早いタイミングでの衣替えも、その理由をわざわざクイズ形式で僕に考えさせたのも、全部が僕に山吹の夏服姿を意識させるためのものだったのだということに。そしてまんまと彼女の思惑に嵌った僕の反応を観察して楽しむためだったのだということにも。
まさに、覗き込んでいたはずの深淵に覗き込まれていたのだ。事態を理解した僕の頬がじわじわと熱くなる。そんな様子を見て山吹の笑みも深くなる。なんという屈辱。おのれ山吹菫、後輩の分際で先輩を愚弄するとは許すまじ……!
湧き上がる怒りと羞恥でモノローグのキャラまで若干ブレだす始末だ。まったく始末に負えない。
「――ん? でも、ということは山吹は僕のためだけにわざわざ衣替えをしたっていうこと?」
「え」
僕の言葉に、山吹の笑顔は一転、「しまった」みたいな表情を浮かべたその顔は見る間に色づいていく。
「べ、別に先輩のためとかではなく、どうせ衣替えはしなければいけないですし、それならさっさとしてしまった方が楽ですし、先輩がわたしの夏服を見てどんな反応してくれるのか見てみよう、なんてほんのついでで、深い意味なんて全然ないのですけど?」
「めっちゃ早口……」
「なっ、根暗ぼっちで話し相手のいない先輩と違って、わたしは普段からしゃべり慣れているのでこれくらいの早さは普通なのですよ」
「いや、いつもはもっとゆっくり話してるじゃん……」
「それは会話というものに慣れていない先輩に合わせてあげているだけですからね。イージーモードで、先輩の乏しいコミュニケーション能力向上に貢献してあげているのですよ」
「さっきから僕への罵倒が著しいな!?」
あたふたと言い募る山吹を、僕は今一度見つめてみる。
彼女の朱に染まった頬と夏服のブラウスの輝くような白は、とても鮮やかなコントラストであった。
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