第12話 ストレイシープ

「よく、『やばいわー、全然テスト勉強してないわー』って、みんな言っているではないですか。あ、ごめんなさい、教室ではいつも一人ぼっちで机に突っ伏している先輩にこんなことを訊くのは酷でしたね」


「話題提起をしたいのか、罵倒をしたいのか、どっちかにしてくれない?」

 

 憂鬱な中間テストも終わり、校舎に漂う空気もどこかふわふわと軽やかな放課後。久し振りの文芸部部室で無為を謳歌していたら、後輩の山吹菫やまぶきすみれが部室の扉を開け放って入ってくるなりなんの挨拶も前置きもなく、開幕ジャブならぬ開幕左フックからの右ストレートみたいな口撃を繰り出してきた。僕はギリギリのバックステップでそれを回避する。

 

 恐らくテスト期間中に僕を罵ることができなかったのでストレスが溜まっているのだろう。誰かこいつに先輩をサンドバッグにする以外の発散方法を教えてあげてほしい。


「いえ、先輩も久し振りに罵倒されたいかな、と思いまして」


「僕にそんなマゾい趣味はない」


「ムキになって否定するところが怪しいです」


「やっぱりマゾかもしれない」


「うわ、否定する気もないとか普通に引きます」


「前門もマゾ、後門もマゾとか僕はどうすればいいんだよ?」


「虎穴に入らずんばマゾにあらず、と言いますよ?」


「なんの目的もなく虎穴に入ればそりゃあマゾだよ。というか勝手に故事成語を捏造するのやめてくれる?」


「それはさておき」

 

 必死の抗議も虚しくさておかれた。さておくくらいなら最初から普通に話しかけてほしい。


「……まぁ確かにテスト前によく聞くセリフベストスリーには入りそうだけれど。それがどうしたの?」


「残りの二つも気になるところですが」


「残りは、『範囲教えて』と『逆にカラオケ行こうぜ』かな」


「サンプルがダメな人に寄りすぎでは……?」


「それはともかく」

 

 ささやかな意趣返しを決めると山吹は少し悔しそうな顔をした。ふふん、僕だってやられてばかりではない。先輩の威厳を思い知れ。……と思ったけれど威厳のある先輩ならそもそもこんな粗雑な扱いは受けていない。


「……ともかく、『わたし全然テスト勉強してないよ』合戦のようなものにわたしも一度巻き込まれまして」

 

 僕のともかくを山吹が引き取る形でようやく話が進んだ。本題が重役出勤すぎる。


「それで、わたしが『勉強をしていないのなら、勉強をすれば良いじゃない?』と言ったところ、微妙な空気になりまして」


「そりゃあ、急にそんな正論を振りかざす王妃様が出てきたらびっくりだよ……」


「後ほど、似たようなことを一番仲の良い子からも言われました。『ああいう時は周りに合わせとくのがいいんだよ』と。――先輩はどう思いますか?」


「どうって……え、何が?」

 

 存外に真面目な口振りで問われ、正直困惑する。何か、そんなに悩むようなことがあるのだろうか?


「いえ、わたしも人間関係において多少の嘘が必要になることもある、というのはわかっているのですよ。ですが、誰にとってもなんら利するところのない同調のためだけの嘘というのは、本当に必要なものなのかな、と思いまして」

 

 怒ったように、あるいは困っているように、彼女の柳眉にはしわが寄っている。その不器用な表情を僕は知っていた。瞳に映る山吹の姿に、かつての彼女の面影が重なる。

 

 あぁ、変わらないなぁ、と思う。高校生になって友達も多くできたと言う山吹だが、多少人付き合いが器用になったところでその本質は変わらない。良くも悪くも嘘をつけない、本当に思ったことしか口にしない、一人ぼっちだった中学生の少女は、今もまだ山吹菫の中に息づいているのだ。

 

 そう思ったら、どうしたって僕は彼女の迷いに煙る瞳が晴れればいいのに、と願ってしまった。不遜なうすら笑いでも、時折見せる無垢な花が咲くような笑顔でも、なんでもいいから笑っていてほしいだなんて、そんな陳腐なことを望んでしまう。

 

 普段は口の悪さが邪魔をしてよく見えないけれど、本当は不器用で真っ直ぐな彼女の心根が、これから先も真っ直ぐであってほしい。そう、思うのだ。

 

 だから僕は言ってやる。


「なんだ、山吹。クラスの人気者になったなんて言っていたけれど、所詮はそんなつまらないことに左右されるような脆い地位なんだね。普段は根暗で友達がいない、なんて馬鹿にしている僕に相談するなんて」

 

 そう、僕は根暗で友達も少ない。迷っている山吹の手を引いて導いてあげることなんてできるような大層な人間じゃない。だから僕にできるのは、立ち止まってしまう山吹の背中に後ろから発破をかけてやることくらいしかないんだ。


「そ、それは」

 

 きゅっ、と山吹は唇を噛んだ。


「わたしだって、先輩に相談なんてしたくはなかったのですよ」


「したくないのなら、しなければ良い」

 

 こんな時ですら嫌味ったらしく聞こえる自分の口振りが嫌になる。


「でも」


「教室では猫を被っているのかなんだか知らないけれど、君は少し考えすぎだよ」


「考えすぎ、ですか……?」

 

 いつも浮かべているうすい笑みを取っ払った山吹は、ひどく幼くて寄る辺なく見えた。迷子みたいに、所在なく垂らした手を取ってくれる誰かを待っているようだ。

 

 けれど、本当は山吹だってわかっているはずなのだ。彼女は自分自身が正しいと思う道を選んで、進んでいけることを。

 

 中学生の頃、一人ぼっちだった彼女と僕は出会った。こんな僕でも、多少は彼女の力になれていたのかもしれない。けれど、僕が卒業した後『一人』になった彼女が『一人ぼっち』に戻らなかったのは、彼女自身が選んだ道なのだ。今はその道の先で新たな分かれ道に差し掛かっているだけだ。

 

 分かれた道のどちらへ進むか、選ぶのは僕じゃなく君自身だよ、山吹。

 

 一つを選ぶということは、もう一つを捨てることで、それは確かに怖い。尻込みしてしまう気持ちはわかる。だから、彼女の手を取って引いてあげることのできない僕は、その怖さを少しだけでも和らげられれば良いと思うのだ。


「難しく考えなくたっていいよ。だって、山吹はいつも僕のことを散々罵倒して、真っ向から否定してくるけれど、それで僕が本気で君を嫌ったり、怒ったりしたことがあるかな?」


「……それなりにいつも怒っているとは思いますが」


「そりゃそれなりにはね。まったく怒らないと言えばそれは嘘になる」


「……そうですね。先輩は本気で怒ったことはない、と思います。嫌われてもいない、と良いのですが」

 

 今日はとことん自信なさげな山吹は俯きがちに呟く。そう思うのならもっと優しくしてくれてもいいんですよ? というのはまぁ置いといて。


「だから、きっと誰もそこまで気にしないよ。山吹が何を言ったところで。ちょっとくらい意見が違ったって、きっと受け入れてもらえる。『そうかそうか、つまり山吹はそういう奴なんだな』って」


「……それ、受け入れられているのではなく、完全に侮蔑されていますよね?」


「今のはちょっとセリフのチョイスが悪かっただけで他意はない」


「どうですかね」

 

 はぁ、と僕を侮蔑するかのようにこれ見よがしにため息をつく山吹は、もういつも通りの生意気な後輩に見えた。


「……なんだか先輩と話していたら色々考えてしまった自分が馬鹿らしくなってきました」


「そうだろうそうだろう。人間の悩みなんて大抵のことは大したことないんだよ」


「誰目線なのですか」


「日々、人間の営みを遠くから眺める者だ」


「つまりぼっちですね。根暗な先輩らしいです」


「……やっぱり僕もそろそろ本気で怒る必要がありますかね?」


「ふふ、怒らないでください。可愛い後輩の戯れではないですか」

 

 可愛い後輩とか自分で言うな。けれどまぁ、軽口が出てくるということはもう大丈夫だろうか。


「先輩」


「なに」

 

 なにやらいたずらっぽく唇の端を吊り上げた山吹に僕は嫌な予感がする。

 

 そして嫌な予感とは大抵当たるものだ。


「先輩は、これだけわたしに悪口を言われても、わたしのことを嫌わないのですね?」

 

 そう言う山吹は群れにはぐれた羊を捕食しようとする狼の顔だ。さっきまでは自分が迷子の羊だったくせに……!


「どうしてなのですか、先輩? ねえ先輩」

 

 そうだった、つまり山吹はこういう奴なのだ。

 

 ねえねえねえ、といつになく絡んでくる山吹に僕は黙秘権を行使し続けた。

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