第6話 好きな本
「先輩、少し気になっていたのですけれど」
「ん? 何が?」
「この部室の本棚のことなのですが」
いつものように放課後の部室で長机に二人、黙って本を繰っていた時だった。ふと思い出したように放たれた
「何が気になるの」
「少し、変ではないですか?」
「というと?」
視線を前に戻すと山吹は考え込むように指先をあごに添えている。
「なんだか並び方が不自然なのですよ。ジャンルも出版社もバラバラですし、かといって作者や作品名が五十音に並んでいるわけでもなく。規則性が読めないので、少し変に思えます。しかも棚の三分の一ほどは空いていて締りが悪いです」
山吹の指摘に僕はなるほどと内心で感嘆する。僕は自身の感じたことをそんなふうに的確に言葉にして伝えるのは苦手だからだ。
「山吹の言うことはもっともだ。だけどね、規則性は読めないわけじゃない。そもそもないんだよ」
「……それは、何も考えず乱雑に突っ込んだだけ、ということですか?」
僕の回答がお気に召さなかったようで、山吹は柳眉をほんのり逆立てる。僕には言葉で足蹴にするかの如く接する彼女だが、こと本に関してとなると僕には決して見せたことのない優しさを以て扱うのだ。
僕なんかは文庫本を剥き出しのまま鞄に放り込んだりもするが、彼女は和柄の可愛らしいブックカバーを愛用しているし、短時間の中断であっても本を開いたまま伏せることはせず、栞を挟んでからきちんと閉じる。
一度僕がお手洗いの際に読み止しの本を伏せておいて、帰ってきたらページの端が折れていたことがあった。その時の山吹は寸鉄と化した舌鋒で僕の人間性を幾度も刺したものだ。
そんな彼女であるから、仮にも文芸部の本棚がろくに管理もされていないような返答に憤懣を覚えるのも無理からぬことであった。
「いやいや、そうじゃない。この本棚は我らが文芸部の伝統に則って作られた――いや、今もなお作られている最中の本棚なんだ」
「伝統、ですか」
僕の弁解に山吹はこてり、と首を傾げる。
「そう。本棚の中が十冊ごとに仕切りで分けられているだろう。あれは歴代の文芸部員一人につき一区画与えられてきたものなんだ。僕ら文芸部員は三年間のうちに十冊、自分の好きな本なんかを選んでこの本棚に寄贈する。そういう伝統なんだよ。だから並び方はバラバラだし、まだ空いている棚もある」
「なるほど、そういう伝統なのですね」
ようやく得心がいったように山吹は晴れ晴れとした顔をした。読んでいた本を閉じ、本棚へと歩いていく。
「ところで先輩、先輩の区画はどこなのですか?」
背後からの声に振り返り、僕は本棚の一ヵ所――端から十冊が並び、けれどその仕切りの先には何も置かれていない空白のスペースを指さす。
「その区画をもらってはいたんだけれど、実はまだ一冊も決められていなくて」
「どうしてです? 先輩はわたしから見ても多読家ですし、好きな本が十冊に収まらないなんてことはあれど、一冊も決まらないということはないのでは?」
そう尋ねる山吹の瞳は純粋に不思議そうで、いつものように僕をやり込めてやろうという気配が感じられなかったからか、僕もつい真面目に答える気になってしまった。
「……一年の時、本当は一冊置いてみたことがあったんだ。好きな本だと、自分ではそう思っていた。けれど先輩からその本のどこが好きなのか、と問いかけられた僕はうまく答えられなかったんだ。確かに好きだと思えた要素は、僕が拙い言葉で伝えようとすればするほど嘘っぽく思えてしまって……。先輩達は『感想なんかをうまく言い表すのは難しいからね』と言ってくれたけれど、僕は自分がその本を好きだった気持ちすら信じられないような気持ちになってしまって」
だからそれ以来、好きだと思う本はあっても、その気持ちが本当かどうか、自信を持って言うことができないままでいるんだ。
そう結んで山吹の方を見ると、彼女はやけに真摯な瞳で僕を見ていた。互いの視線がこつり、とぶつかると、山吹は慌てたように目を逸らす。それからやけに早口で、
「先輩は根暗なので、しゃべることが苦手なのですよ。でもそれはきっと、うまく言葉が出てこないだけであって、その根底に隠れている気持ちは、確かに本物なのではないかな、とわたしは思います、けど……」
なんだか最後の方は尻すぼみになって言い淀む。その姿は物言いのはっきりした山吹にしては珍しく意外に思ったけれど、あぁもしかして柄にもなく僕を励ましてくれようとしているのか、という考えに至ると、すとん、と胸の内に柔らかな感情が落ちた。
「そうだね。まぁまだ先は長いんだ。ゆっくり自分の好きなものを見つけていくよ」
感謝の気持ちを込めて微笑むと、山吹の顔は鮮やかな朱色に染まった。あまり見たことのない顔が面白くて、長いことニヤニヤと眺めてやると夜叉のような形相で睨まれた。怖い。
「先輩」
まだ少し不機嫌そうにそっぽを向いて山吹が呼ぶ。
「なに?」
「……先輩は根暗で、思っていることの半分もうまくしゃべれない口下手野郎ですが」
「急に罵られた!」
「ですが、わたしは、先輩と違ってそういった言語化が幾分得意なのです」
「? まぁ、確かにそうだね」
よくわからないまま口を挟むと、山吹は僕を睨んだかと思うと視線を落としたりして実に忙しない。頬も赤みが差して、熱でもあるようだ。
「なので、わたしが先輩と同じものを読み、先輩の拙い話に耳を傾けてあげれば、その、先輩の『好き』の気持ちを言語化するお手伝いくらいは、できると思うのですよ……」
ぽつぽつとした山吹の言葉を僕が脳内で反芻する間、山吹はどこか怒ったような顔で――けれど何かを期待するかのように、仄かな熱を帯びた瞳を向けてくる。
「……えーっと、つまり、僕が好きな本を十冊選ぶのを手伝ってくれる、ということ?」
「そう言っています」
「それは……なんというか」
ぶっきらぼうに肯定する山吹に僕は呆気に取られたような心持ちがした。それから、胸の奥の方で温かな――けれど僕の口ではまだうまく言語化できやしない感情が大きくなる。
この感情の言語化こそ、山吹に手伝ってもらわなければならないかもしれないな。
「山吹が手伝ってくれると言うのなら、ぜひお願いしようかな」
そう言うと、一瞬安堵したように山吹の強張っていた顔が緩んだ。けれどすぐに怒ったような表情が慌ただしくそれを塗り替えてしまう。
「まぁ、先輩がどうしてもとお願いするのなら、仕方ないですね」
渋々、といったふうな口振りで、けれどその口の端はぴくぴくと今にも緩やかな弧を描きそうだ。
では先輩、と言ってから、我慢できなかったのだろうか。
「先輩の好きだと思う本を、教えてください」
そう言う山吹の顔には、可憐な花のような笑顔が咲いていた。
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