第5話 知りたい(知ってほしい)

「先輩、今は何を読んでいるのですか?」


「んー?」

 

 読んでいた文庫本から目を上げると、丁度読んでいた本が終わったところなのか、少し手持ち無沙汰なご様子の山吹菫やまぶきすみれがこちらを見ていた。咄嗟に本を傾けて表紙が見えないようにする。


「……どうして隠すのですか?」

 

 そんなわずかな僕の動きを目ざとく見つけて山吹はじとり、とした視線を向けてきた。


「いや、別に……今はミステリを読んでいる」


「海外のですか? それとも日本の?」


「日本。創元の、本格っぽいやつ」


「なんという作家ですか?」


「んー」


「……だからなぜ隠すのです」

 

 何を血迷ったか山吹は片頬を机に押し当てて下から表紙を覗き見しようとする。破廉恥な。

 

 それに対抗するように、僕は表紙をぴったりと机に当てて見えないようにした。これはもう、お互い意地になっている。

 

 それにしてもなんなのだ、今日は。やけに知りたがるじゃないか。いつもは別にそんなに詮索してこないのに。

 

 視線で問うと、頭をもたげた山吹は肩を竦める。


「先輩って、いつも本を読んでいるのに、全然読んだ本の話とかしないではないですか」


「……別に山吹だってしないだろう」

 

 我らが文芸部の活動はたまに山吹が雑談を振ってくる以外は、ほぼほぼ沈黙に包まれている。耳に入るものといえばページを捲る時の紙の擦れる音くらいだ。本について感想を言い合ったり、論じたり、なんてことは一切ない。

 

 けれど山吹はゆるりと首を振る。


「いえ、確かに部活ではしませんが、クラスの友達などと最近読んだ本や好きな本の話をすることはありますよ」


「あ、そう」

 

 そうだったのか。僕はてっきり山吹も僕と同じで一人で黙々と読む派だと思っていた。なんとなく裏切られた気分だ。


「それで、先輩とは中学からの付き合いなのに、好きな本について話したり、貸し借りしたり、そんなことはついぞなかったなぁ、とふと思ったりしたのですよ」


「……確かにないけど」


「単純に口下手だから自分からは言い出せないだけかとも考えたのですが、わたしの方から本に関する話題を振ってもさっきみたいになぜか頑なに答えないじゃないですか」


「……別に、隠してるわけじゃ」


「では先輩。今読んでいる本は誰の、なんという本ですか?」


「いや、これは、結構マイナーな作品だし、山吹は知らないんじゃないかな……」


「やっぱり隠しているじゃないですか!」

 

 業を煮やしたのか、対面に座っていた山吹は長机を回ってつかつかと詰め寄ってくる。シャンプーか何かの甘やかな匂いが鼻をくすぐる程に端整な顔が近づくけれど、怒っているような色を眉間に浮かべているのであまり嬉しくない。――うわ、やめろ、本の表紙を見ようとするんじゃないっ。

 

 表紙を下にして置かれた文庫本の数センチ上、僕と山吹の手が互いに牽制し合う。もともと絶対に隠したいというわけでもなかったものが、今となっては墓の中まで持っていくくらいの心積もりになっている。意地とは恐ろしいものだ。

 

 しばしの攻防の末、山吹は懐疑に満ちた視線で以て僕を見た。


「そうまでして隠すだなんて、もしや先輩、官の……」


「いやいや、そんなわけないだろう!」


「…………」


「まったく、何を言うのやら……」


「…………」


「…………」


「官の……」


「だから違うって!」

 

 官の……小説を学校で読むわけないだろう、まったく。……いや別に家でも読みませんが?


 半目で胡乱げにこちらを見遣る山吹に、僕はため息をつく。


「はぁ……というか、山吹はなんで今になって急に僕の読む本を気にするんだよ? 今まではそれほど気にしていなかったじゃないか」


「そ、それは」

 

 僕が反撃すると、山吹は見るからに狼狽えた。


「それは?」

 

 素知らぬ顔で、けれど右手は横髪を執拗にくしけずりながら、


「……折角同じ部活に入っているのですから、その、本の好みくらい知りたいというか、知ってほしいというか」


「……というか?」


「――っ、もういいですっ」

 

 もにょもにょと口ごもっていた山吹はとうとうぷいっ、とそっぽを向いてしまった。つん、とした顔をしているけれど、耳が赤くなっている。……少し、意地を張りすぎてしまったかもしれない。

 

 こほん、と軽く咳払いして注意を惹く。


「……あー、えっと、山吹。実はもうすぐ今読んでいる本が終わりそうなんだけれど、次に読むものが決まっていなくて。その本、読み終わっているんなら貸してもらえないかな?」

 

 そう言って長机に置かれたままの山吹の本を指さす。山吹は一瞬きょとんと目をまん丸くすると、やおら赤面した。山吹の本に掛けられている、和柄があしらわれた朱色のブックカバーと同じ色合いになっている。


「し、仕方ないですねっ。先輩が貸してほしいと言うのなら、わたしだって貸してあげないこともないですよ?」


「あ、嫌なら別にいいです」


「え、あ、嫌じゃないですっ。……えっと、とても面白かったので、実は先輩にも読んでほしいと思っていたのです、よ」

 

 慌てたように――それでも十分に丁寧な手つきでブックカバーを外し、山吹は取り澄ました表情をその横顔に浮かべながら本を差し出してきた。わざわざそっぽを向いてまで横顔を見せてくる意図は読めないが。


   *


 その夜、読みかけの本を読了し、山吹から借りた本を裏返してみる。

 

 あらすじによると、ドロドロの愛憎劇の末後輩に殺された男に関する話らしかった。

 

 ……遠回しな殺害予告だろうか?

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