微笑みを数える日
増田朋美
微笑みを数える日
微笑みを数える日
弁蔵さんは今日も落ち込んでいた。もう、妹の久子が、刑務所に入ってしまってから、いったい何日経つのかなあと思う。以前は、彼女が刑務所に入って、何日経ったとか、そういうことをノートに記録していたけど、何だかそうすることも、気がめいってしまってできなくなってしまった。
ふっと厨房に入っているカレンダーを見ると、もう、12月という事になっている。12月と言えば、師走。師匠まで走り出すほど、忙しい季節。だけど、弁蔵さんたちは暇だった。久子が逮捕されて、亀山旅館に泊まって行くという人は、大幅に減少した。あの時は、本当に報道したいというわけではなく、興味本位で取材にやってきた人たちが、変な風に誇張して事件の事を報じたりしたため、余計に客が来なくなってしまったのだ。こういうのを風評被害というのだろう。
最近は、奥大井に来た観光客が、昼食に利用する程度なら、やってくるようになった。もちろん、泊まるために作られた、離れというものを、利用する人はいなかったが。
そんなわけだから、弁蔵さんはとても、笑おうという気にはなれなかった。一度、こういうことを犯してしまうと、人間は、何をやっても、楽しもうという気にはならなくなるのだ。
不意に、受付のほうから電話が鳴っているのが聞こえてきた。弁蔵さんは、すぐに立ち上がって、電話のほうへ行った。
「はいはい、亀山旅館でございますが。」
弁蔵さんは、注意深く電話口で話しかけた。以前、優しそうな口調であっても、裏ではいやがらせだったり、変な取材の申し込みだったり、そんな電話ばかりの時期があったので、電話に出るには少し、慎重になっているというか、恐怖心がある。
「あ、弁蔵さんか。僕だけど。」
「何だ。杉ちゃんですか。」
「何だはないだろう?」
電話の奥で、杉三が、カラカラと笑っている声が聞こえてくる。
「杉ちゃんどうしたの。何か用があるの?」
「いやね、二三日、そっちに居させてもらえないかなあ。いやね、実は、製鉄所に来ている子で、なぜか東大に入ろうというやつがいて。」
杉ちゃんは、そんなことを言い始めた。
「そうなんだよ。全くな、なんで東大なんかと思うんだけど、思春期の頃に傷ついて、その仕返しがしたいから、東大に入るっていうんだ。全くよ、変な奴がいるもんだな。そっちよりも、自分が生きていると実感するほうが、よっぽど大事なのによ。」
確かに、その気持ちは弁蔵さんもわかる気がする。時々、心に問題のある人にみられる傾向なのだが、なぜか、自分を傷つけた同級生とか家族なんかに、それ以上に偉くなって、仕返しをしようという心理が働いてしまうような人がいるのだ。そして、それに向かって一心不乱に勉強をしたり、社会で偉くなろうとするのだが、それが成功するのはまれである。大体の人はそういう事ができないで、これまで以上に低い位置に突き落されてしまう。なぜかわからないけど、世の中ってのは、そういう風にできているらしい。
「まあ、そういう訳でさあ。彼女、最近やたらと神経質になっちまってよ。其れで、水穂さんが毎日何度も発作を起こす度に、彼女も不安定になっちまって。そういう訳で、暫くそっちへ避難というか、ちょっとさ、そっちで滞在させてもらえないでしょうか。」
杉三は、そんなことを言った。
「そうですか。わかりました。いいですよ。まあ、僕たちも、宿泊されるお客さんは、最近ほとんどいませんから、来てくれてありがたいです。何泊でもいいですから、うちを使ってください。」
「そうか、わかったよ。有難う、じゃあ、明日あたりそっちへ行かせてもらうよ。奥大井湖上駅で会おうね。」
「わかりました。水穂さんと二人という事ですね。」
「おう。二人。よろしく頼むよ。」
杉三にそういわれて、弁蔵さんは、水穂さんが大変だろうから、新金谷駅まで迎えに行くといった。もし、可能であれば、SL列車に乗って、奥大井の自然を見てくれたらうれしいとも言った。基本的に、SL列車は、座席を指定しなければならないが、平日だし、利用客も少ないので、飛び入りで乗る事も可能なのである。
「そうかそうか、じゃあ、新金谷まで迎えに来てくれるんだな、有難う。急で申し訳ないが、よろしく頼むな。」
「はい。お待ちしております。」
弁蔵さんは、そういって、白紙になっていた予約名簿に、影山杉三さんと書いた。
その翌日。
弁蔵さんは、ガタゴト気動車に乗って、新金谷駅に行った。奥大井の風景と、新金谷駅は、もう外国へ行ったのと同じくらい風景が違っていた。隣で話している観光客の声が、まるで外国人のように見えた。最近の若い人は、通じないくらい違う言葉を使うことが多いので。
駅の一番端にあるベンチに二人はいた。二人とも着物姿なのですぐにわかった。
「ほらら、大丈夫か。もうちょっとしたら、弁蔵さんところで休ませてもらえるからな。」
杉ちゃんが、そういって、水穂さんの背中をさすっていた。水穂さんは、咳き込んでいた。
「あ、弁蔵さん。」
と、杉ちゃんが弁蔵さんに気が付いた。
「迎えに来てくれてありがとうな。電車を降りたら、疲れちゃったみたいでさ。もう、この有様だぜ。」
お礼のあいさつもせず、杉三はそのように言った。
「水穂さん大丈夫ですか?」
弁蔵さんが、声をかけると、水穂さんは力なくうなづいた。
「それでは、立てますか?」
と、弁蔵さんが言うと、水穂さんは、ベンチから立ち上がろうとしたが、ふらついて座り込んでしまった。あ、大丈夫ですと言って、弁蔵さんが、水穂を抱きかかえた。信じられないほど、軽い体であった。それに、筋肉はほとんどなくて、骨と皮ばかりに痩せていた。弁蔵さんは、お体のほうは大丈夫かとか、そういうことを聞きたかったが、それはちょっと無理かなあと思われる気がした。
「まもなく、特急SL列車、千頭行きが到着いたします。危ないですから、黄色い線の内側でお待ちください。」
間延びした駅員のアナウンスが聞こえてくる。
「よし、SLに乗りましょう。指定席の切符は取ってあります。その中で少し休みましょう。」
弁蔵さんがそういうと、SL、いわゆる蒸気機関車が汽笛をあげてやってきた。先ず杉三を、駅員にお願いして乗せてもらい、弁蔵さんは、水穂さんを抱えたまま乗りこんで、客車の席に座る。
「大丈夫ですか、水穂さん。」
水穂さんは肩で大きく息継ぎをしながら、頷いた。
「熱はないみたいだけど、接阻峡に着いたら、少し休みましょうね。」
汽笛をあげて、動き出したSLの中で、弁蔵さんはそういった。
一方の杉ちゃんのほうは、にこやかに笑って、他のお客さんとしゃべったり、車掌さんとしゃべったりしていた。実は一応客車は三両あったけれど、お客さんが乗っていたのは、一番前の一両だけで、ほかの二両にはだれも乗っていなかったのである。
SLは特急で、途中駅を飛ばして走っていったが、その途中駅で、走っているSLの動画を撮っている人がたくさん見られた。はあ、みんな笑って、いいなあと弁蔵さんは、うらやましく思う。
水穂さんの大きな息継ぎは、次第に小さくなっていき、咳き込む音も少しずつ小さくなっていった。
少し、しずかな場所に来ることができて、本当に安心したのだろう。だって、富士から金谷まで来るときは、大変な都会を歩いてこなければならなかっただろうし、そんなところを歩くのは、こういう弱い人には疲れ切ってしまうはずである。
だから、新金谷駅まで持ちこたえてくれてよかったのだと、弁蔵さんは思ったのである。
「お客さん、もし、よろしかったら。」
と、籠を持った一人の女性が、水穂たちに声をかける。
「よろしかったら、SL最中を食べていきませんか?」
そうか、この鉄道は、お客さんをもてなす人が多いことで知られていた。
「ええ、と、SL最中は、、、。」
弁蔵さんが言いかけると、
「ああ、ダメダメ。小麦粉と大豆で当たっちゃう。」
近くの席にいた、杉三が口をはさむ。弁蔵さんは、そんな言い方をしていいのだろうかと思ったのであるが、おばさんはちゃんとわかってくれたらしい。そうなのね、でも奥大井の旅を楽しんでね、何て微笑みながら、杉三たちの座席を後にした。
「悪いねえ、売上に貢献してやれなくてな。まあ、いい奴はほかにもいるさ。」
杉三は、にこやかに笑っている。
「こいつは、おかしな体質でさ。小麦とか、肉とか魚なんかが全部だめなんだよ。まあ、世の中にはこういうやつもいるって感じで軽く考えてくださいな。」
杉ちゃんがそういう言い方ができるのが、すごいなと思う。そういう顔をして言えば、憎らしいとか、そういう感情はわいてこないだろう。
「そうなのね。其れは大変な体質ですよね。大丈夫よ、このSLに乗った他のお客さんにも、そういう人がいたからね。その時は可愛い子供だったけど、大人になってもそういう人がいるのねエ。」
おばさんは、そういいながら、
「えー、可愛い可愛い、SL最中はいかがでしょうか?」
と、別のお客さんに声をかけ始めた。
「水穂さん大丈夫ですか?」
弁蔵さんが声をかけると、水穂さんは、座席にもたれて、しずかに眠ってしまったようである。
「もうちょっとしたら、千頭駅に着きますから、後しばらくの辛抱ですよ。」
と、弁蔵さんは言ったが、何も言葉は返ってこなかった。
丁度その時、突然周りから、拍手が聞こえてきた。なんだろうと思ったら、高齢の車掌さんがフルートをもってやってきたのである。
「おい、何が始まるんだ!」
杉三がびっくりして、そういうと、隣の席に乗っていたお客さんが、
「もう、知らないんですか。車掌さんの名物演奏ですよ。すごくお上手だから、聞きたがる人がいっぱいいるのよ。」
と、説明した。確かに、客車の中は拍手でいっぱい。一体どんな演奏が聴けるんだろう。
「それでは、演奏を始めます。まず一曲目は、この鐡道の旅にふさわしい、線路は続くよ何処までも、を演奏いたします。」
と、車掌さんは、演奏を開始した。確かに、音程は正確だし、指使いもしっかりしているので、音も間違えることもなく、たしかに上手な演奏であることは間違いない。
「I’ve been working on Railroad,
All the livelong day」
杉ちゃんがでかい声で歌いだした。 それを聞いて弁蔵さんは、なんともこの明るい曲に合わない歌詞だなあと思ってしまった。
「I've been working on Railroad,
Just to pass the time away.
Don't you hear the whistle blowing,
Rise up early in the morn.
Don't you hear the captain shouting,
Dinah, blow your horn.」
そこまで歌いきると、周りのお客さんもにこやかな声で、次の歌詞をいい声で歌い始めた。みなこの歌詞を知っているのには、弁蔵さんも驚いてしまった。
「Dinah, won't you blow
Dinah, won't you blow
Dinah, won't you blow your ho-o-orn,
Dinah, won't you blow
Dinah, won't you blow
Dinah, won't you blow your horn!」
「なるほど、この歌は、もともと、電車で働くのが嫌で、もうやめさせてくれって言う歌だったんですか。なんだか、嫌ですね。」
弁蔵さんは、そんなことを呟く。
「みなさん有難うございます。今日は、とても上手なうたを歌ってくれるお客さんがいて、うれしいです。」
車掌さんはにこやかに言って、頭をペコンと下げた。
「ねえねえ、すごくいい声だからもう一回歌ってよ。車掌さん、もう一回吹いて。」
と、一人のお客さんが、そういったため、ハイいいですよと、車掌さんは、フルートを吹き始めた。
「 I’ve been working on Railroad,
All the livelong day.
I've been working on Railroad,
Just to pass the time away.
Don't you hear the whistle blowing,
Rise up early in the morn.
Don't you hear tha captain shouting,
Dinah, blow your horn.
Dinah, won't you blow
Dinah, won't you blow
Dinah, won't you blow your ho-o-orn,
Dinah, won't you blow
Dinah, won't you blow
Dinah, won't you blow your horn!」
杉ちゃんの歌唱に合わせて、お客さんたちは手拍子したり、一緒に歌ったりして楽しんでいる。水穂もいつの間にか目を覚まし、杉ちゃんの歌を聞いているのだった。
「どうもこの歌は、すきになれませんね。あんな明るく陽気な曲調で、其れなのにこの歌詞は重たい。」
「ええ、でもそういうモノなんじゃないですか。人生なんて。」
不意に隣の席に座っていた水穂さんが、そういうことを言った。
「若しかしたら、電車に乗っている人たちも、こんな気持で生きているんだと思います。」
「そうですね、、、。」
弁蔵さんは、一つため息をつく。
その間にも、杉ちゃんの、Dinah, won't you blow、Dinah, won't you blow、と歌い続ける声が、鳴り響いていた。
大拍手の中で、歌が終わると、
「さあ、もう千頭駅に着きますよ。みなさんおりてください。井川線をご利用の方は、御乗換えください。」
と、車掌さんは、にこやかに言って、フルートを下ろし、しずかに頭を下げた。まもなく、SLが千頭駅のホームに停車した。ホームには何人か駅員がいて、杉三たちを待っていてくれた。水穂さんはまた、弁蔵さんに抱きかかえられて、杉三は、車掌さんに手伝ってもらいながら、千頭駅のホームに降りる。
「えーと、すみません。井川線に乗り換えたいんです。僕たちは、接阻峡温泉駅で降ります。」
と、弁蔵さんが言うと、
「了解です。こちらにいらしてください。」
と、駅員は杉三たちを、別のホームに案内した。井川線は、誰も乗っていない。何となく粗末で、本当に小さな電車だった。よし、これに乗っていくぞ、と杉三がでかい声でいった。暫くこれに乗っていくわけだが、なんだか、先ほどの手あたり次第のサービスがあるSLとは、ぜんぜん違っていた。
「まるで、天と地の差みたいな電車だな。」
と、杉三がぼそりと呟く。
暫くして、電車は走り出した。大井川に沿って、森の中を走り出した。時折、クマでも出てくるんじゃないかと思われるほど、森の中を電車は走っていく。勿論、民家などはほとんど見られない。
「なんだか、誰もいない暗い森を通っていく何て、誰かさんの人生を象徴するような電車だねエ。」
杉三がそんな風にからかうが、確かにほかの乗客もなく、周りに民家もなく、人間が住んでいるという感じはせず、何も味方がない世界で一人で走っている電車という感じであった。
「もうちょっとしたら、奥大井湖上駅ですからね。」
と、弁蔵さんが言う。確かに、そうなのだが、とにかく周りに何もない。売店もなければ、自動販売機すらない。本当にこれで大丈夫なのか!と思われるくらいの山道を走る電車なのだ。
「ご乗車、有難うございます。まもなく、奥大井湖上駅に到着いたします。御降りの方は、お忘れ物のないようにご注意ください。」
と、アナウンスが流れたため、名物の奥大井湖上駅に到着するんだなという事がわかる。
長いトンネルを抜いて、電車は、奥大井湖上駅に到着した。杉三たちが窓の外から駅を眺めると、ダム湖ではあるが、山に囲まれた大きな湖の上にある半島の上に、小さな駅が、あるのだった。その水の色は、本当にコバルトブルーという色がぴったりの色で、何だか、地上に住んでいる人間が、入ってきてはいけないような、そんな気がする駅である。
「水穂さん大丈夫ですか。もうちょっと乗れば接阻峡温泉に着きますから。」
弁蔵さんがそういうと、水穂は、わかったと言って微笑んだが、少し咳き込んでしまった。
「大丈夫?」
何だか、この奥大井湖上駅が、水穂さんが召されるところではないかと、弁蔵さんは一瞬ひやりとしてしまう。何だか、この水の色と言い、周りの景色の美しさと言い、とてもこの世に在りそうな美しさではない駅だったからだ。
何だか、先ほどのSL列車に乗った時の風景が、普通の人が乗っていく電車で、この奥大井の景色を走っている井川線が、水穂さんのような人がいく、寂しい感じの電車なのではないかと考えてしまう。
がったん!と音がして、電車が走りだした。次の接阻峡温泉駅に向かって走り出したのだ。
「お前さんは、何をばかばかしいことを考えているんだ?」
不意に杉ちゃんにそういわれて、弁蔵さんはハッとする。
「いやあ、奥大井湖上駅を眺めていると、どうもこの世の駅ではないような気がしてしまいまして。」
弁蔵さんは、正直に言った。
「なんだ、奥大井に住んでいるのにそういう事言うのか。」
「ええ、なんだかそういう気がしちゃうんですよね。この奥大井湖上駅は。ちょっと不気味な雰囲気さえするんですよね。」
と、いう事は、この駅、なにか不思議な魅力を持っているのだろう。奥大井に住んでいる人もそうでない人も引き付けるような。
「でもさ、今回、皆いい顔してたぜ、そういう人こそ、奥大井湖上駅にたどり着けるんじゃないのかよ。」
杉ちゃんは、カラカラと笑った。そこで弁蔵さんは気が付いた。自分たちは、湖上駅と一緒に、誰かをいい顔にしていくために生きているんだったと。
「今日は微笑みを数える日、ですかね。」
弁蔵さんは、にこやかに笑って、顔をタオルで拭いた。
微笑みを数える日 増田朋美 @masubuchi4996
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