第1章  龍神さん、動き出す

1-1  平池の洞窟

 この山で、おそらく、一番遅くまで咲いているんじゃないかと思われる山桜。

 そのピンクの花びらが、もう、風に乗り、ひらひらと散り始めている。


 その、薄紅色に染まる山桜の大きな木。

 その向こう側、あそこにある、陽を受けて、ちょっと白っぽく輝く新緑は、たぶん、コナラなんだろうな。


 おそらく、昔の武蔵野って、どこもかしこも、このような、素敵な感じだったんじゃないかと思う。

 春…、新緑の世界。

 気持ちのいい季節。


 天気のいいのに誘われて、今、昼飯前の、軽い散歩中。


 今朝は、起きたあとに、いつものように、この山の中を走り回った。

 そのとき…走りながらだけれど、あとで、あやかさんと二人で、のんびりと、ゆったりと、ふらふらと、この辺、歩きたいな、と、思った。


 そのときの望みのような決意のような、そんな気持ちがうまいこと叶って、今、その山の裾を、あやかさんと二人並んで、プラプラと歩いている。

 心ウキウキの真っ最中。


「ねえ、もうじき、会ってから、1年になるんだよね…」

 と、おれ、あやかさんに。


 この間から、時々考えていたこと。

 いろんなことがあったんだけれど、なんだか、すごく速く時間が過ぎたように感じる。

 1年って、こんなに短かったのかと思ったほどだ。


「そうか…、1年か…。

 本当に、あっという間の感じだよね」

 と、あやかさんも、同じ気持ちなんだろう。

 くりっとした目をおれに向け、楽しそうな笑顔でそう言った。


 でも、そう言っておいて、急に、ちょっと眉をしかめて、

「とは言ってもね…、わたしの場合、妖魔のヤツのおかげで、半年、どこかに行っちゃったから、過ごしたのは半年なんだけれどね…」

 と、今のおれの話を茶化しちゃった感じ。


「うん、まあ、それはそうなんだけれど…。

 でも、半年で戻ってきてくれて、本当に良かったよ」


「あら? なによ、その言い方…。

 まるで、プイと出て行った、きかない女房の出戻りみたいじゃないの。

 わたしとしてはね、何の感覚もなく、あっと言う間すらない、本当の瞬間で、半年経っちゃったんだからね…。

 戻る、戻らないの問題じゃなかったんだよ」


「たしかに、そうだよね…。

 それ、龍神さんに言って、半年分、弁償してもらおうか?」


「弁償って…、何をどうしてもらえば弁償になるのよ?」


「あれ?そうか…。

 何をどうされても、なんだか、こっちが被害に遭いそうな感じだよね…。

 これは、まずいかもな。

 とはいえ、龍神さん、今晩も、来るんだろうね」


「毎晩、会って話すの、楽しみにしているようだからね…。

 なんだかんだ言っても、彼女、寂しがり屋さんなんだよね」


「彼女か…。

 龍神さんって、女性なんだよね」


「まあ、あの格好だからね。

 女性として、生きてるんでしょうね…」


 ちょっと難しい話になりそうだけれど、まあ、本人が女性だというのなら、何の問題もなく、おれとしては、それでいいんだけれど。

 ただ、まだ、本人に、直接聞いていないので、そんな疑問が出てきたわけです。

 今度、聞いてみようかな、という気持ちが心の奥に残った。


 それで、今、4月も中旬が終わろうとしているんだけれど、実は、例の、平池の洞窟…、平池の北側、山の斜面にあるはずの、入り口の崩れた洞窟、それを掘り出す作業は、まったくやっていない。

 まず、その話をしておこう。


 昨年…、11月末に、みんなで、軽井沢からこっち、東京の家に帰ってきた。

 その引っ越し、向こうに半年もいたので、また、サッちゃんの分も増えていたので、荷物がかなり多くなっていて、けっこう大変だった。


 移動の時は、荷物、到底、こっちの車では積みきれないので、引っ越し業者さんを頼んだくらいだ。


 でも、龍神さんにとっては、軽井沢もこっちも、大して変わることのないような感じで、出てくる。

 この程度は、自由に動けるらしい。


 こっちに来てからも、それまでと変わらず、時々…というより、しょっちゅうといった方がいいくらい、サッちゃんを通して、おれたちと話をしていた。


 で、12月になって、こっちの片付けなども終わり、少し落ち着いたときに、龍神さん、見計らったように、平池の洞窟の場所を、サッちゃんを通して教えてくれた。

 いよいよ工事の準備に取りかかるためだ。


 それで…、そのあとのことだけれど、洞窟が、今、どうなっているのかを確認するために…、なんせ、龍神さん、入り口が崩れてからは、そこには一度も行っていないということなので…、久しぶりに、その、埋まってしまった洞窟に行ってみたんだそうだ。


 実に、久しぶり、そう、ほぼ三百年ぶりということになるらしいんだけれど、龍神さん、行ってみた。

 そうしたら、なんと、洞窟の中には水が溜まっていて、まあ、言ってみれば、地下湖のようになっていたんだそうだ。


 地下湖と言っても、水が、全体に、膝くらいまでの深さで溜まってるんだよ、なんてレベルじゃなくて、洞窟は、なみなみとした水で満たされ、空間は、上の方に、わずかにあるだけだった。


 暗くても、また、水の中でも、平気で動ける龍神さん、人の姿でだったのか、龍の姿でだったのかは聞かなかったけれど、洞窟の隅々まで調べてみた。


 それでわかったことは、出入り口近くが大きく崩れていて…、洞窟の口近くの天井を形作っていた巨大な岩が、そのままドガンと落ちていて…、水を堰き止めているらしく、想像以上にひどかったので、龍神さん、絶句状態。


 いや、絶句と言うよりも、

「これは、これは…。

 やれやれ…、まいったな…」

 と、つい呟いてしまったそうだ。


 水の中なんだろうけれど、呟けるみたいなんですね…。


 それで、『ここはだめかも…』となって、『近くで、他に出られるような所、どこかないのかな?』と、ものは試しと、この近辺を探してみたんだそうだ。

 なんせ、平池周辺は、地中でも地上でも、龍神さん、わりと動きやすいらしいので。


 どうやってサーチするのか知らないけれど…聞いてもわからないだろうから聞いていないんだけれど…、すると、山の東側の地中で、なんだか馴染みのある、一種の匂いのような感覚を持った空間を感じ取った。


 すぐに、そこに出てみると、今までにないくらい、安定した状態を保てる場所だった。


「ああ…これはいい…」

 と、龍神さん、にんまり。


 まあ、それはそれで、とてもいいことなんだけれど…、

「うん? なんだ…ここは?」

 龍神さんにとって、その洞穴の中はとても不思議な感じのところだった。


 匂いのようなものに引き寄せられて…、しっかりと意識してではなく、なんとなくだったらしいんだけれど…、その穴の隅に行ってみると、そこに、あの妖刀『霜降らし』が仕舞ってあった。


「うん?

 なんだ、そういうことだったのか…」

 龍神さん、一瞬ですべてを理解した。


 そう、実は、その場所、うちの地下室。

 あやかさんの、秘密の部屋だった。

 おれとあやかさん、すぐに、龍神さんに呼び出された。


「刀…『霜降らし』の仕舞ってあるところ、知ってるだろう?」

 もちろん知ってます。


「今、そこにいるから、すぐにおいで」

 とのご命令。


 もちろん、これらは、サッちゃんを通してだけれど…。


 そのときは夕方。

 サッちゃん、まだ学校に入っていないが、この時間、さゆりさんが準備した勉強を、一人でちゃんとやっていた。


 そのときに、龍神さんの『お告げ』があった、ということ。

 サッちゃん、『しょうがないな…』と呟き、勉強を中断、立ち上がって部屋を出て、おれたちの部屋を、トントンとノックした。


 サッちゃんを通して、その、龍神さんの話を聞き、おれとあやかさん、すぐにコーヒーを置いて、地下室に行った。

 もちろん、サッちゃんも一緒に来た。


 サッちゃんにとって、あやかさんの『秘密の部屋』は、このときが初めて。

 初め、龍神さんのお使いに、うんざりしていたサッちゃんだったけれど…、その頃、毎日、何回もだったから…、でも、このラッキーな成り行きには、にんまりしていた。


 ということで、もう、平池の洞窟は掘り出さなくてもいいということになった。

 あそこは、龍神さん、泳ぎたいときに使う遊び場にしておくとのこと。

 息をする必要がないから、自分だけの遊び場としてなら、空間がなくてもいいらしい。


 とのことで、平池の洞窟はそのままで、『謁見の間』にはしないことになった。






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