/シアン -11

 バラの香りに後ろ髪引かれながらもベルニエ公園から移動した俺は、運河沿いにあるカフェ&バーへやってきた。『ラ・フレーズ』

 ちょうど二年前くらいにオープンしたばかりの新しい店だが、その外観は歴史を感じさせるレンガの色褪せ具合がかなり渋い。

 それもそのはず、古民家の外装はそのままに、内装だけを改修した店だからだ。その佇まいもさることながら、店主の淹れる紅茶やコーヒー、それに焼き菓子なんかが絶品だと開店まもなくから人気がある。

 テラス席も数席あるため、河川を利用した運河を通るゴンドラが眺められるということで、晴れた日にはかなり外も賑わっている。バータイムもまた然りだ。

 夜のための準備をしているのだろう。はめ込みガラスの扉から『バー準備中』の掛札がこちらを覗く。


 だが俺は開いていることを分かった上で近づき、遠慮なく扉を開けた。

 カランカランと小さく転がったカウベルの音が控えめに歓迎する。

 中へ入ると、カーテンを締め切った薄暗い空間が広がっていた。モノトーンの調度品や家具類で統一されたシックな雰囲気がさらに際立って見える。

 内装は古民家とは思えないほどリノベーションされているが、しかし建物の歴史は色褪せることなく呼吸をし、ここに息づいている気がした。


「――お客さん、バーはまだ準備中だ。あと二時間したら来てくれないか?」


 棚に置かれた無数のボトルを背に、酒を注ぐためのグラスを丁寧に拭くマスターが、こちらへ一瞥をくれることなく告げた。

 静かな店に響く深みのあるバリトンボイス。滲むように広がってはやがて壁へ溶けていく。

 かすかな明かりに透かして曇りを確認する姿は、妙に様になっていた。


「だったら鍵くらいかけておけよ。間違えて入ってきた客全員にそう断ってるのか?」

「普通は『準備中』ってなってたら開けないもんだろう。それ以前に、お前のために開けておいてやってるんだよ」


 グラスをカウンターのホルダーへ引っかけて、やっとこちらを向いたマスター。

 ウェーブがかった黒い長髪をゆるく縛り、左目に眼帯を当てている風貌は一見怖いようにも思えるが。その口元に刻む笑みは温かみがあり、歴史ある建物にも負けることなく渋い。

 俺と揃いのような黒の執事服を着ているのには理由がある。

 なにを隠そうこの男。この男こそが俺の養父である、アッシュベリー家の前執事ロジャー・クロックフォードだからだ。

 俺が養成学校から帰ってくると同時にお嬢を任せて、アッシュベリー家から支払われた退職金を元手に親父はこの店を始めた。

 気付いた時には俺も顔を見せるようにはしているが、ここ数カ月来ていない。


「お前が来るのもずいぶんと久しいな。元気にしてたか、シアン?」

「まあ、元気は元気だよ。変わりないとは言えないけどな……」

「歯切れが悪いな。……まあ立ち話もなんだ、座れ」

「ああ」


 素直に頷き、俺は親父の対面に位置するカウンター席へ腰を落ち着けた。

 光沢のあるテーブルは黒檀で出来ていて、その滑らかな手触りはいつ来ても撫でてしまうほど癖になる。

 グラインダーがコーヒー豆を挽く音。マシンがコーヒーを抽出する音を聞きながら、すべすべとした触り心地と芳醇なコーヒーの香りを堪能していると、


「カフェラテでいいか?」


 と親父が聞き、返事する間もなくテーブルにそれがサービスされた。


「ありがとう」


 一言礼を言ってから俺はカップを傾ける。

 親父の作るカフェラテは、馴染みの店よりも深く俺に馴染む。手を取り合うように口中に広がるビターなコーヒーと優しいミルクの風味。

 去来する懐かしさに心は安らぎを覚えた。


「それで、何があった?」

「何って……」

「俺に話を聞いてほしくてここに来たんだろ?」


 真剣な面持ちで親父は言う。

 心より息子を心配していると、顔に書いてあるように表情がそう物語っていた。


「……よく分かったな、俺が悩んでること」

「当たり前だ。何年お前の親父をやってると思ってる。……話してみろ、息子の愚痴くらい聞いてやる」


 眼帯に覆われていない右目が優しげに笑っている。

 広い海のような、高い空のような大きな心を感じた。寛大で寛容で。俺もそんな風になれたらいいな、と思うことの一つだ。

 小さく息をついたら、こぼれるように口から言葉がもれた。


「愚痴じゃないが……。親父、俺を叱ってくれ」

「なんだ急に。新しい性癖に目覚めでもしたのか?」

「違うよ、なんでそうなる」

「じゃあなんだ。親に叱られるようなことを仕出かしたんだろ? ああ、もしかしておねしょか? そうだろ? そんな年にもなってとお嬢に怒られたくなくて、まず俺のところに来たってところか。もう怒られてきたから免罪してくれと請うために」

「勝手に仮定した答えで納得するなよ。真面目に聞いてくれる気はあるのか?」


 軽く睨んでみせると、親父は両手を上げて降参したようなポーズをとる。


「悪かった。久しぶりに息子と会えてちょっとテンションが違っちまってるだけだ。許せ」


 特に悪びれる風にも見えない飄々とした態度。相変わらずだなと思った。ここは見習いたくないことの一つだったり。


「で? なんで俺がお前を叱らなきゃならない。理由はなんだ?」


 問われ、逡巡する。この想いは家族とはいえ人に話していいものだろうか。いっそのことそこら辺の野良猫にでも話していた方が、自己完結出来て誰も巻き込まなくて済むのではと。

 前執事である親父なら、悩みを聞き届けなにかアドバイスをくれるかもと思いはしたが。

 こんな不義不忠な息子と知ったら、親父はどう思うだろう。親子の縁を切るだなんてことになりはしないだろうか。

 口にすることを躊躇う俺に、しかし親父は急かしたりはせずに待っていてくれる。何も言わずに、ただ黙って。

 その真摯な眼差しに、少しずつ頑なな心が解されていった。


「――親父……、俺は。っ……俺は、お嬢のことが好きみたいなんだ」

「なんだ、そんなことか」


 崖から飛び降りるような気持ちで告白したのに、そんなことで済ますのか。


「いや、そんなことって……」

「なに言ってる、そんなことだろ。俺だってお嬢のことは大好きだぞ? あの館にいて、お嬢が嫌いなんて言うやつがいるかよ」


 それはそうだろう。だが違う。見当違いに少し苛立ち、テーブルに拳を叩きつけた。


「そういう好きじゃないッ! 俺のはその……ライクじゃなくて……ラブの方、だ。と思う、たぶん……」

「――ら、らぶ? らぶラ……ブ、ラ……ララブゥウアアア ラブ、ラドールッ!」


 すると突然、親父は気が動転したように顔を両手で覆い頭をブンブンと振り始めた。

 何事かと思い、相談していることも忘れ唖然としてしまう。

 ややあってピタリと動きを止めると、わずかに指を開いて俺の方をチラ見する親父。

 隙間から覗いた頬が、なんだか染まって見えるのは気のせいだろうか……。


「お前ッ、フに『〃』とかつけて『ラブ』とか言うなぁあ! 恥ずいだろ!」

「厳つい見た目のいい年したオヤジがなんで照れてるんだよッ」

「いいかシアン、そういうのはラフなのがいいんだ! ラ、……ラブ、うぁああ恥ずい恥ずい! 馬鹿野郎、俺の前でそういうことを真顔で言うな分かったか!」


 親父は両腕を抱くようにして見悶える。くねくねとしていて、あまり父親の像としては見ていたくない光景だ。


「ていうかいまさらだろ。親父にも心に決めた人がいたんだろ?」

「ん? ああいたぞ、いまも心の中にいる」


 天井を見上げ、懐かしむように遠い目をして呟いた。

 聞いた話では、こんな親父にも婚約していた女性がいたらしい。俺が生まれる前の話だから、もちろん会ったことはない。二十五年も前に、その女性は病で他界した。生きていたら、もしかしたら俺の母親になっていたかもしれない。


「……だから親父は結婚しないのか? 操を立てているから」

「それは違うぞシアン。確かに俺はあいつに操を立てている。だが、年下のガールフレンドならいるからな。これがまた可愛いんだ」

「おい、操はどうしたんだよ?」


 少し責めるように言葉を尖らせると、親父は飄々として肩をすくめた。


「さっきも言っただろ? 俺はラフなのがいいって。あいつも俺とはラフでいたいって言ってたからな。きっとアッチの世界でもそう思ってくれてるはずだ。それに人生は楽しまなきゃならない。一度きりだぞ? 過去に縛られるだけが生き方じゃあない。だろ?」


 同意を求めるように尋ねてきた親父の言葉に、納得し切れない自分がいる。

 結婚を考えたほどの女性だ。亡くした後にそんな風に割り切れるものなのだろうか。

 考えたくはないが、お嬢がもしも先に逝ってしまったら、俺はきっと死ぬまで泣いて過ごすだろう。悲しくて希望も見出せなくて。とてもじゃないが親父のようには考えられそうにない。


「……親父は、その人を愛していなかったのか?」


 尋ねると、「馬鹿なことを言うな」と少しだけ声を低めた。


「もちろん愛していたさ。だが、他人の幸せを願えない愚かな女を愛したつもりはない。忘れないこと、それだけでもちゃんと手向けにはなってるはずだ。まあ自分なりに人生楽しんだ後で、もしもやり過ぎてたならアッチの世界で怒られりゃあいい。お前が死んだ後にでも、一緒に俺を笑ってくれて構わないぞ、シアン」


 そこに別の楽しみを見出すように、親父は愉快そうにカラカラと笑った。憂いも後悔もない、清々しいくらいに晴れやかな笑顔だ。


「……まさか久しぶりに来て、父親の新しいガールフレンドの存在を知ることになるなんてな。思いもしなかったよ」

「俺もまさかお前に口を滑らすなんて思わなかったぞ。だが、俺の生き方を真似ろとは言わん。こういう生き方だけが全てじゃないからな。お前がどう生きようとそれはお前の人生なんだ。俺がどうこう言えることじゃない。だからシアン、お前は生きたいように生きろ」

「結局、それが相談したことの答えか? そのくらいならベアトリスにでも言える気がするぞ。なんだか相談して損した気分だ」

「親に対してずいぶんな言い草だな。だが必ずしもそうとは限らないぞ」


 どういう意味だ? そう視線で問いかける。


「お前のおかげで思い出したことがある。お前とお嬢のことだ」

「俺と、お嬢の……?」


 小首を傾げる俺に、「ああ」と確かな頷きを以って親父は告げた。


「実はお前たち二人は許婚の間柄にあるんだよ」


 息をするように自然と吐かれた言葉に、思考が突然フリーズする。

 許婚? いいや、そんなはずはない。主人と使用人の関係なのだから。好きを自覚して、立場も弁えずにそう思いたがっている心が聞き間違えさせたんだ。

 いいなずけ……、イイナズケ……。

 ほかにその語が当てはまる言葉を探そうと必死に脳内へ探索をかけるが、その度に現れる『許婚』という言葉をサーチ&デストロイ。

 しかし、結局ほかの語が見当たらなかった俺は、思考疲れし混乱しながらも口を開く。


「親父、それはどういう漬物だ? ピクルスか? アンチョビか? それともオリーブか?」

「お前は何を言ってるんだ? 婚姻関係にあるという意味の『許婚』に決まってるだろ」

「……エイプリルフールはとうに過ぎてるぞ」

「知ってるよ」


 辟易したように肩を落とすと、親父は気の抜けた顔をして言った。


「ったく、お前は疑り深い奴だな。俺がそうだと言ったらそうなんだよ。四月一日以外は嘘ついたことないだろ?」


 確かに親父にエイプリルフール以外で嘘をつかれたことはないが。

 しかし俄かには信じがたい。


「……本当に?」

「ああ、本当だ」


 首肯するその瞳は嘘をついていない。神妙な顔からもそれは窺い知れる。

 そうだとして!


「どうしてそんな大事なことを忘れてたんだよッ」

「いや、忘れてたわけじゃない。お前が養成学校から戻ってきたら伝えるつもりだったんだがな、俺も店の準備やらでバタバタしていて失念していたんだよ」

「それを忘れるって言うんだろ」


 頭を抱えうな垂れた先にカフェラテのカップを見つける。いつぞやのセバスチャンみたいに、奪うような速さで掴んでゴクゴクと一気に呷る。冷めたカフェラテが胃に沁みた。


「……このこと、お嬢は知ってるのか?」

「いや、まだ知らない」

「奥様は?」

「にも伝えてはいないみたいだな。男の約束だったらしいから」

「意味が分からん。なんで推定なんだよ、自分がしたんだろ?」

「いや、俺じゃない。約束を交わしたのは、旦那様とお前の本当の親父さんだ。二人が仲良かったのはお前も知ってるだろ?」


 訊かれ、頷く。二人が旧知の仲だったから、俺はこうしてアッシュベリー家に奉公することになったのだから。


「まあ話すと長いんだが、お前にはお嬢よりも先に伝えておかなければならないからな」


 そう前置きして、親父は教鞭をとるように語り始めた。

 当時からラルフ様は町の歴史研究に熱中していた。いろいろなことに興味を持つ好奇心旺盛な方だったから、それは俺も知っている。

 町の構造や建築物、丘の起源に教会の出来た経緯などそれらは広く多岐に渡った。

 そんな中で、ラルフ様は家の歴史についても興味を持ち始めた。アッシュベリーはもちろんのこと、高級住宅街に住む他の家々の歴史にまでその興味は及ぶ。

 由緒ある家柄が多いため、図書館などにもそういった資料が多く保管されている。

 そうして読み漁っていく内に、とある貴族の名がある時代を境に名家一覧から消えていることに気付いたそうだ。


「それがお前の旧姓、ハインベルクだ」

「俺の家が、元貴族……?」

「考えたことなかったか? そもそも『ハインベルク』なんてお高そうな名前、この辺りじゃ高級住宅街でしか聞かなそうだろ」

「でも、父も母も共働きでいたって普通の一般家庭だったぞ? 家にはそれらしい物もない」

「だから旦那様は興味を持ったんだろうな。変わり者だったから」


 何かを懐かしむようにくしゃっと相好を崩し、親父は話を続けた。

 六代前までは貴族として確かに存在していたハインベルク。調べていく内に、既得権益を持つことに疲れ、自ら捨てて寄付をし、そして一般階級に身を窶したことを知る。名家一覧から消えたのも、なるべく目立ちたくないからと、俺の先祖が載せないように伝えたからだそうだ。

 しかしそれでも、ハインベルクがいまも存在していることに興味を駆られたラルフ様は、突然家に押しかけた。

 そして、過去の栄光を知らずに生きていた父に感銘を受けることになる。事実を知っても『現在』が大事と躊躇いなく切って捨てた父に。

 それから二人は腹を割って話せる間柄となり親交を深めていった。

 先にハインベルクの家に息子が生まれると、アッシュベリーに娘が生まれた時には婚約させようと誓い合ったそうだ。

 そして両親が不慮の事故で死に、俺がアッシュベリーに引き取られ、なぜかロジャーの養子になった経緯について親父はこう語る。


「お前がアッシュベリー家の養子じゃなく俺の息子になったのは、この国では血の繋がりがなくても戸籍上の兄妹は結婚できないことになってるからさ」


 読み聞かせる絵本に疲れたみたいに一息ついた親父。脇に置いてあったチョコレートの箱を開けて一つ抓むと口に放り込み、俺の方へ箱を差し出してきた。

 俺も一つもらって口に入れる。ほろ苦いカカオと少しの甘さが濃厚に鼻腔から抜ける。

 カフェラテは飲み切ってしまっているため、じゃっかんねっとりとした口内をサッパリすることも出来ない。


「俺はこのことをお前がアッシュベリー家に来たその日に聞かされた。お前の父親との約束で、お嬢が十八になった時に伝えるつもりだったそうだが。旦那様は病床に伏せることになってしまった。その時に、自分に何かあった時は俺から伝えてくれとの遺言でな」


 恐らく、この国では女子は十八歳からしか結婚出来ないからという理由だろう。


「そうだったのか……」


 真実を聞かされ、俺はそんな言葉しか言えなかった。

 今まで俺はお嬢の執事として生きてきた。これからもそうだと思っていた。

 だが、俺とお嬢は婚姻関係にあって……。

 旦那様の遺言ということは、旦那様は俺たちが一緒になることを望んでくださっているということだ。

 だが元貴族は元貴族。シアン・ハインベルクが一般の家庭で育った事実はなにも変わらない。

 俺は、与えられるものをそのまま受け取っていいのだろうか……。

 無意識に親父の方へ目を向けると、今まで見たことのないくらいに真剣な表情をしていた。

 思わず息を飲むほどに。


「シアン。俺はさっき、お前の人生だから好きに生きろと言った。全ての選択肢はお前の中にしかないんだ。どの道を選んでも後悔しない道なんてのは存在しない。そこに葛藤があるのならな。だが、前を向くことでそれは変えていくことも出来る。お前次第なんだよ」

「親父……、でも俺には――」

「まったく世話が焼けるな。俺みたいにラフに考えてみろ。世間体がどうとか関係ない。お前にしか出来ない生き方だって、あるんじゃないのか?」

「俺にしか出来ない、生き方……」


 俺の忠義も忠心も忠誠も、すべてお嬢に捧げて生きる。愛犬だと言ってくれたお嬢のために。

 お嬢が笑顔でいられること。お嬢が幸せになれること。考えて、考えて、考えて。帰結した答えはソレだった。そこにしか行き着かなかった。

 その時、親父の言葉が水を飲み込むくらい簡単に、すっと腑に落ちるような感覚がした。

 かさぶたのように硬く心を覆っていた暗い気持ちは跡形もなく消え去り。天高く突き抜ける青い空みたいな清々しさが、晴れやかな気持ちにさせる。


「……親父、決めたよ」

「そうか。もう後悔はしないか?」


 問うてくる柔和な右目に、「ああ!」と自信をもって頷いた。

 ――と、入口のカウベルが控えめにカランと鳴る。まだバータイムまで一時間はある。

 準備中なのに断りもせずに入ってくる客もやはりいるんだな。そんなことを思いながら視線をやると、そこには楚々と立つベアトリスの姿があった。


「どうしてここに……?」

「そろそろ頃合いかと思いまして、あなたを迎えに来たんですよ」


 そういって微かに笑む彼女から、憑き物が落ちたように安堵する吐息がもれる。


「ようやく決意したのですね。あなたも」

「ああ。……ありがとう、ベアトリス。それから、心配かけた」

「勘違いしないでください。私が心配しているのはお嬢様だけですので」

「そうだったな」


 いつも通りの彼女の様子に安心した。こうして対等に言い合える関係こそがライバルだから。

 しずしずと店の中ほどまで歩いてくると、ベアトリスは親父の方へと体を向けて恭しくお辞儀をした。


「お久しぶりです師匠。そして、お手間をかけさせてしまい申し訳ありません」

「なるほど。ベティが来て納得がいった。お前がここへ来るように仕向けたんだな?」

「いえ、はっきりとは言いませんでしたよ。あくまで、ここへ足を向けたのはシアンさんご自身の意思です。私は曖昧な助言を与えただけですので」

「だが、シアンはここへ来たと。まあなんにせよ、おかげで俺も思い出せたんだがな!」


 なぜか俺の与り知らぬところで納得され、笑い合う二人。手のかかるやつだと暗に小馬鹿にされているみたいで少しだけ腹が立った。

 まるで師弟のような関係に見えるのは、実際に師弟だからだ。

 学校でも五段階評価の一という最低の成績だった俺に、ボディーガードとしての適性がないことを早々に見抜いた親父は、代わりにお嬢の侍従だったベアトリスに技術を叩きこんだ。

 おかげでベアトリスは戦えるメイドさんになったわけだ。

 徒手格闘はもとよりナイフやワイヤー、ほか打撃武器などを用いたCQCはほぼマスターしている。喧嘩ではまず勝ち目はないが、ベアトリスの敵はお嬢に仇なす者だけだから俺は安心。

 枠外で一人納得し、俺も頷いたところで思い至った。


「って待てよ。ベアトリスはこのことを知っていたのか?」

「ええ。子供の頃に聞かされました。ですが口止めされていましたし私から伝えることは出来ませんでしたので、ここへ来てもらう外なかったというわけです」


 しれっと告げる彼女は、致し方なかったと小さく首を横に振る。

 早く教えてくれていれば、お嬢と険悪な雰囲気にはならなかったかもしれない。だが、ベアトリスから聞いたところで信じたかと聞かれれば怪しい。

 いずれにせよ、ここへ来たのは正解だったというわけだ。


「さて、」そう呟いて、ベアトリスは俺を見やる。「そろそろ帰りましょうか。もうすぐお嬢様がお帰りになられる頃ですので」


 お嬢と聞いても妙な緊張はすでにない。まるで車のアイドリングのように別な意味で心臓は早鐘を打つ。ちょっと顔を合わせるのが恥ずかしい気もするが、きっともう大丈夫だ。

 お嬢に会っても、俺はいつも通りでいられる気がする。心に決めたことがあるから。


「そうだな。じゃあ親父、そろそろ帰るよ。話を聞いてくれてありがとう」

「ああ。また悩んだらいつでも来い。ラフに考えられるように教授してやる」

「親父はその前に、『ラブ』に照れないようにいい加減慣れろよ」

「ラッ?! ぶぅああああっ恥ずい恥ずい! やめろって言ってんだろぉおおお!」


 再び顔を隠してイヤイヤするいい年した親父。これがお嬢がしていたとしたら可愛いものだが、さすがに五十近いオヤジだからな。


「相変わらず変な人ですね……」

「まったくな」


 二人して呆れ眺める。まるで家族の団欒のようなひと時に頬が緩んだ。

 からかい、からかわれ。そういった気心の知れた仲に、いつの間にかなっていたんだ。アッシュベリーという一つ屋根の下で。

 そろそろ出ないとお嬢を迎えられない。懐中時計を確認したベアトリスに促され、今度こそ親父に暇を告げてラ・フレーズを後にしたのだった。

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