/シアン -10

 五月四日、月曜日。

 朝。珍しくお嬢から「いってきます」と声をかけられ面食らい、呆然と玄関で立ち尽くす。

 返事が二拍ほど遅れるくらい呆気にとられたが、それでも心はどうしようもないくらいに小躍りした。久しぶりの嬉しいという気持ちは、硬い心の亀裂をさらに広げさせる。

 しかし、なぜか申し訳なさそうに眉を下げていたお嬢に少しだけ困惑した。あの表情はどういう意味なのだろうか。

 困り顔にも見えたお嬢を見送った後、いつも通り仕事をしようと踵を返したところ――


「シアンさん、少しよろしいですか?」


 と、いつかのようにベアトリスから声をかけられた。

 どうせまたいつもの小言だろうと思い、先んじて断る。


「お嬢のパンツならちゃんと物干しハンガーにかかってるだろう。注意ならされる云われはないぞ」

「そんなことではありません。というか、最近お嬢様のショーツに手を出さないと思っていたら。あなた、相当重症のようですね」


 ベアトリスは俺のジャケットの胸ポケットを見て、気が抜けたように呆然として呟く。

 はみ出る生クリームみたいなパンツがないからだ。なにかと注意してくるのに、なぜ今日に限って叱らないのだろう。そんな疑問は口から出ずに、ため息がこぼれた。


「はぁ……。重症かどうかは知らないが。どうしたらいいのか分からずに心を持て余しているのは確かだ。セバスチャンから心に向き合えと言われたが、近くに落ちているものとはなんだ……」


 別に答えを期待して呟いたわけではない。そんなものを彼女に期待するだけ無駄だろうということは以前学習した。……尋ねたつもりは無きにしも非ずだが。

 すると今度は、返すようにベアトリスから「はぁ」とため息をつかれる。


「それだけのヒントを得たにも関わらず、あなたはまだぐずぐずしているのですか?」


 棘のように刺さる辛辣な物言いに、真正面から目を合わせることが出来ない。

 彼女は仕方なさそうに、さらにため息を重ねる。


「はぁ……。ライバルであるあなたに、このようなことを教えるのは正直嫌なのですが」そう前置くと、ベアトリスは俺の肩をポンと叩き「――お嬢様はもう、前を向かれましたよ」


 その言葉に視線を戻す。彼女はうら悲しそうな紫瞳で俺を見つめていた。

 お嬢が前を向く。それはどういうことかと考える前に、ベアトリスは俺の肩から手を下ろす。

 そして俺の隣へ並び立って、流すような涼しい目を向けてくる。


「シアンさん。今日一日、あなたに休暇を与えます」

「いや、休む意味がないし、与えられても困る。俺は執事として館の仕事を――」

「いいから聞きなさい」


 問答の余地はないと、有無を言わせぬ見事な切り捨て方だった。

 おかげで惚けたように口を開けたまま呆然としてしまう。


「私はあなたよりも年上なのですから、お姉さんの話は聞くものですよ。それにこの館でも先輩なのですから、黙って耳を傾けなさい」


 たった二つで二年だろう。そんな反論すら声にならない。

 開いていた口を閉じ、俺は彼女に体を向けて黙したまま頷いた。

 言い負かされていることに情けなくも思うが、真面目な話のようだし。聞く耳は持った方がいいと判断したからだ。


「……最近のあなたを見ていると無性に腹が立ちます。ない頭でもないでしょうに、いつまでもぐずぐずうだうだと。本当にイライラします」


 いきなりの悪口につい声を出しそうになったが、正対したベアトリスの目が真剣だったため、出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。


「あなたも辛いことがあったのはなんとなく見ていて分かりますが、それ以上に、お嬢様もお辛かったはずでしょう」


 それは俺も見ていて分かる。お嬢が傷ついていることくらい。だが、俺は何に対してそうなったのかが分からない。そのことと俺が心に向き合うことがどう関係しているんだ。

 下がりそうな目線を無理やり上げて、ベアトリスと視線を交わし続ける。


「ですが、お嬢様は思い悩みながらも自ら選択し、決意をしました。――あなたのために」

「俺の、ために?」


 静かに、だがはっきりと頷いたベアトリス。

 紫の瞳は怒るような切ないような複雑な色を湛えている。


「なのにあなたは、いつまでも同じところをぐるぐると無駄にめぐってばかり。いいえ、どこにも動けていない様子はまるでハムスターの回し車のようですね。見ていて滑稽ですよ」

「ひどい言われようだ。……せめて犬で例えてくれないか」


 ズバリ指摘された言い得て妙な言葉に、そんな反論しか返せなかった。

 小さく息をつくと、ベアトリスは微かに柳眉をひそめて声音を少しだけやわらげる。


「そんな風にお嬢様のわんこであると身の程を弁えるあなたの姿勢は、執事として鑑のように評価されることと思います。しかし、お預けされたわけでもないのに自らお預けを課していても、誰も幸せにはなれませんよ。それを指示したわけでもないのに、主人は褒めてはくれません。……あなたは、いつまでお預けを我慢し続けるのですか?」

「我慢? 俺は何も我慢などしていないさ。お嬢の傍にあり続けられること、それこそが幸せなんだろう? それを享受し執事として共に生きる、それの何がいけない。ベアトリスだってお嬢の傍に居られることが幸せなんじゃないのか?」


 そう言葉を返すと、彼女の瞳がわずかに揺れた。

 その憐憫の眼差しはどちらへ向けられたものだろうか。


「……そうですね。ですが――」


 なにかを言いかけた彼女の口が、なにも発することなく閉じられる。

 伏し目がちに俯いた睫毛が震えている。その先を口にすることは憚られる、そんな拒絶的な空気を肌で感じた。

 自分に言い聞かせるように力なく首を振って、ベアトリスは再び顔を上げた。


「……わんこなら、少しくらい直情的な方がかわいいと思いますけど」

「それは一体なんの感想だ?」

「気にしないでください、傍目に見ていて抱いた個人的なものですので。……とにかく、あなたは今日休み。反論は認めません。一日、自身を見つめ直すための時間を与えますので、どこへなりとも行くがいいですよ」

「なんだか放り出される気分だな」

「館にいても放り出しますし、すぐに帰ってきても投げ出しますのでそのつもりで」


 どの道でも追い出されるのか。しかし急に休みと言われてもな。平日だ、セバスチャンは夕方まで仕事だろうし。どうしたものかな。

 予定を組んですらいない突然の休日を、どう過ごそうかあれやこれと頭を悩ませていたら。

 ふと、ちらちらと置時計を横目にするベアトリスに気づいた。

 いつまでもここにいたら蹴り出されるかもしれない。そう思った俺は、渋々シューズクロークへ自分の革靴を取りに行く。

 室内履きから履き替えてドアへ向かおうとしたところ、「――シアンさん」と背なに声をかけられた。


「まだなにかあるのか?」

「忘れものですよ」


 振り返った俺の胸元へ手を伸ばしてきたベアトリスは、見慣れたものを胸ポケットへ突っ込んできた。花のように丸められていたそれは、なんとお嬢の純白パンツだったのだ。

 一度はこれで良しと思ったのだろうベアトリスだが、やはり気が変わったのか。顔をわずかにしかめてからポケットの奥へグッグッとパンツを押しやった。


「……いいのか?」

「いいはずがないでしょう。ショーツですよ? ハンカチーフではありませんから」

「ならどうして持たせるんだ?」

「あなたの忠義なのでしょう? 忠誠の証だとあれだけご自分で言っていたのに、あなたはそれを持たざる者に身を窶すのですか?」


 言われて目が覚めた気がした。

 そうだ、お嬢のパンツは俺の忠誠の証。お嬢を支えようと思ったきっかけだった。気分などに関わらず、それは持っていて然るべきものなのだと。


「貫き通すべきものであると理解しているのなら、意地でもそれは抱いていなければいけないものでしょう。それを胸に、今日一日もう一度ご自分を見つめ直してみてください。あなたが相当抜けていなければ、おそらく、答えは見つかるはずですので」

「ずいぶんと確信的だが、そんな気は全然しないな」

「弱音を吐く暇があるのでしたら、さっさと行動に移すべきです。時間は有限なのですから」


 それもそうだと肩をすくめてみせ、俺は吐息をついてからベアトリスに背を向ける。

 ドアノブに手をかけて押し開けると「――健闘を祈りますよ、仕事仲間として」いつかと同じような言葉が背中越しに聞こえた。後押しにすべく俺は足を踏み出す。

「ああ」と一言返し、そして館を後にした。



 正直に言って、行く当てはない。

 自分を見つめ直せと言われても、俺には確固たるものが心の中に存在している。

 お嬢の執事であること。それはこの先に何があっても揺るぐことはないのだと。


「……俺はいったい、なにを見つめ直せばいい。なにを、見つければいいんだ」


 幸先に不安を感じ、ため息交じりに呟いて空を仰ぐ。

 答えなど、どこにも書いてはいなかった。

 ただ青く澄み渡った空には浮雲が一つだけ。

 ゆっくりと、ゆっくりと流れていく雲にまるで導かれるように、俺はその行方を追いかけた。



 ぽかぽかとした陽気に眠気を誘われながらもまず足が向いたのは、館からほど近い小さな公園だ。こじんまりとした敷地に滑り台とブランコ、そしてベンチが設置されているだけのシンプルなもの。花壇に植えられた花々が甘く香り、つい懐かしさに目を細める。

 お嬢が小さな頃に、よく一緒に遊びに来たことがあった。

 ブランコで遊びたいと急に言い出したお嬢。「危ないですよ」との俺の制止も聞かずに遊ぶ様子に、その間ずっとハラハラしっぱなしだったことを思い出す。

「シアンがいるから大丈夫!」と弾けるように笑ったその顔はずっと忘れない。


 浮雲が町の方へ移動しているのを見て、俺はまた歩き始めた。

 トラムの停留所までのこの道にも、もちろん思い出はある。

 親父にお使いを頼まれた時のことだ。それまで一緒に遊んでいたのに、買い物があると急に席を立った俺について来ようとして、お嬢はこの道を追いかけてきた。

 小さな歩幅で、懸命に、健気に。親父がそれを止めても聞かずに、結局停留所までついてきた。もちろん俺は嬉しかったが。まだお嬢も小さかったから、なにかあってはダメだと親父に強く言い聞かせられ、お嬢も不満そうにだが納得した。

 トラムに乗り込むと、お嬢はなぜか泣きながら「はやく帰ってきてね」といって俺を見送った。後から聞いた話、その時、これでお別れなんだと思ったそうだ。

 お嬢を安心させたくて、「俺はお嬢様の執事にいつかちゃんとなりますから、心配しないでください」と優しくそう告げた俺に、泣きながらも「うん」と笑ってくれたお嬢を今でも思い出す。


 トラムに乗り込み、ガタゴトと揺られること十五分。ビスケットみたいな路面電車はやがて街へと入った。

 停留所で降りて、賑やかな街路を行く。

 木組みとハチミツ色のレンガの建物が、陽光を浴びて眩しいくらいのゴールドに華やいでいる。平日でも賑わう街中は活気に満ち、いろいろな色に溢れていた。

 しばらく人々の波に流されるように通りをぶらぶらしていると、視線の先に懐かしい店を見つける。昔、お嬢のためにクレープを買って帰ったあの店だ。

 唐草の装飾で飾られた店の外観も変わりなく、色褪せることなく当時の色をそのまま現在に残していた。

 さすがに俺だけ食べるのも気が引けたため素通りしたが。あの時のお嬢の「ありがとう」が、俺の心に強く深く刻み込まれている。


 雲とともに再び移動して、網の目のように町に張り巡らされている運河沿いを歩いた。

 いくつかの通りを折れて路地へ入り、赴くままにやってきたのは人口の池だ。

 澄んだ水。計算され尽くした配置配色の浮草たち。そして優雅に泳ぐ池魚。

 水草は無駄に増えすぎないよう管理が行き届いていて、それらがまるで宙に浮いて見えるほど水の透明度が高い。そこへ緩やかな波紋を広げる魚は気持ちよさそうに遊泳している。

 周囲の緑と陽の光。これらが一つに合わさって、どこを切り取っても絵画のような美しさを演出していた。


「この場所は……」


 美しい場所ではあるが、同時に俺にとっては悲しみを呼び起こす場所でもある。

 六年前――。ラルフ様がお亡くなりになられた時、お嬢が人知れず涙を流した場所だからだ。

 葬儀が終わった後、お嬢は誰にも何も伝えることなく一人でどこかへ行ってしまった。

 一人になりたい時もあるだろう。初めこそ皆でそう思っていたのだが、お嬢は夕方になっても帰ってはこなかった。心配し、総出で探すことになったのだが。

 思い当たる場所をすべて回っても見つけられず、俺はただがむしゃらに町中を疾走した。そうして巡り巡って、陽も沈みかけの時間にやっとのことでたどり着いたのがこの池だった。

 お嬢は木製のテーブル椅子に腰掛けて、ただじっと水面を見つめていた。

 その背中が寂しそうで、切なそうで。だが俺は、なにも言葉をかけてはあげられなかった。なんて声をかければいいのか分からなかった。


 俺も両親を亡くしている。確かに悲しかったが、それとこれとはまた別だ。

 俺は親の死を目の当たりにはしていない。事故で亡くなったことしか知らされず、亡骸も見せてはくれなかったから。いまにして思えば、子供に見せられる状態になかったのだろうと察せられるが。

 だから正直に言えば、親が死んだことも半信半疑で、悲しさも漠然としたものだったのだ。

 しかしお嬢は……。心臓を悪くされていたラルフ様が入院していた病院のベッドで、その最期を看取った。お嬢の目の前で、旦那様は息を引き取ったのだ。

 目の前で失う、その悲しみは察するに余りある。

 言葉を発せずに、俺はただじっと待ち続けた。月が水面にはっきりと姿を映し出しても。

 それからしばらくし、ようやくお嬢が大きく息をついた。重く辛そうなため息だ。

「シアン?」そう呟いたお嬢の声は掠れぎみで、薄っすらと涙声にも聞こえた。

「はい、俺ならここに」静かに返事をした俺に、お嬢はゆっくりと振り返る。月明かりに照らし出されたその頬に涙の跡が見て取れて、切なさが胸を締め上げた。

「お嬢……大丈夫ですか?」

「……うん。泣いたらちょっとだけ、落ち着いたかな」


 儚く笑う姿が痛ましくて、我が事のように身を切り苛まれる思いがした。

 しかしそれ以上かける言葉が見つからず、枯れたように言の葉を失い俺は押し黙る。

 沈黙が降り積もるかと思ったが、「ねぇ」と囁くお嬢によってそれは払われた。


「……シアンはずっと、わたしの傍にいてくれる?」


 俺の目を真っすぐに見つめるその瞳の中で、月影が濡れて揺らめいて見えた。

 不安と孤独。寂しさと切なさ。辛さと悲しさ。

 様々な感情を押し固めたモノを飲み込むように、お嬢の口は硬く閉じられ、沈痛な面持ちで俺の答えを待っていた。

 そんなお嬢を見た時に、俺は心に誓ったのだ。

 ――この先もお嬢を悲しませてはいけない。お嬢にはずっと笑っていてほしい。だから俺がお嬢を守るんだと。


「もちろんです。俺はお嬢の執事として、ずっとお傍に在り続けます。だから、心配しないでください」


 その言葉に安心したのか、堰を切ったようにお嬢は涙を流した。駆けてきて俺に縋りつくと、胸元へ顔を埋めて泣いた。悲痛な声を上げて……。



「あの時に、そう誓ったはずだったのにな」


 悲しい思い出から逃げるように、俺は池から立ち去る。

 そして求めるように足が向いたのは、市民の憩いの場でもあるベルニエ公園だった。

 シンボルの時計台へ導くようにところどころにバラアーチが置かれ、フルーティーな紅茶葉みたいな香りが瑞々しく辺りに漂っている。

 そんな中で石畳の遊歩道を歩いたりジョギングしたり、原っぱにレジャーシートを広げて読書をしたり、皆思い思いに過ごしていた。大理石の彫刻が洒落た噴水の周りでは、小さな子供たちが親に見守られながら遊んでいる。

 木製のベンチに腰を下ろして、俺は空を仰いだ。

 導いてくれていた雲は、役目を終えたと言わんばかりに既にもうどこにもない。突き抜けるような青い空だけが俺を見下ろしていた。

 いつまでも答えを見つけられないでいるから、見放されたのかもしれない。

 そう思うと、道標を失いついに行く当てがなくなったことに落胆し、人知れずため息がこぼれた。

 だがそれ以上に思うことがある。


「……俺はまた、お嬢に悲しい顔をさせてしまった。執事として失格だ――」


 誓ったことを守れなかった。後悔が波のように押し寄せて胸を塞ぐ。

 息苦しさから解放されようと大きくため息をついた時――そこでふと視界の端で捉えたものへ、なんとはなしに目を向ける。

 視線の先にはシートの上でお茶をする家族連れの姿があった。好きなお菓子をたくさん持ってきて、はしゃぐ子供に目を細める一家族の団欒だ。楽しそうな笑顔につい頬が緩む。

 そういえば。ピクニックに行きたいと言い出したお嬢に付き合って、親父とベアトリスと四人でここへ来たことがあった。

 ベアトリスがお茶を淹れて、親父が作ったマカロンやケーキで小さなティーパーティーを楽しんだ。

 ラルフ様もコーネリア様も忙しかったため、一緒に来ることは叶わなかったが。それでもお嬢は俺たちがいてくれて楽しいと、弾けるような笑顔で言ってくれたことを思い出す。

 親父もずいぶんと感激していた。


 ……いまにして思えば。今日巡った場所すべてにお嬢との思い出があった。もちろん日常のすべてがそうなのだが、その時々に心に誓った節目であった場所が多い。

 初心忘るべからず、ということなのだろうか……。

 何があってもお嬢の執事であることを俺はずっと伝えてきた。揺るぐことのない決意だ。

 二人で別荘へ行った時もそうだ。俺はそれを伝えただけ。なのにお嬢は悲しそうな顔をした。俺のいないところで泣いていたかもしれないくらいに。

 悲しませないと誓ったはずなのに、俺はそれが出来なかった。何故だろう。何がいけなかったのだろう。考えても答えは出なかった。

 以前セバスチャンに相談した時、彼はその状況にいて気づかないのかと俺を責めた。見ようとしなければ見えないと。去り際には、最も近くにある物で、俺にはきっと見えているはずだと言い置いた。ただ見ないようにしているだけに感じられたと。


 しかし何度あの日を思い返してみても、俺の何が間違っていたのか分からなかった。壊れたビデオテープのように、何度も、何度も頭の中でリピートを繰り返してきた。

 もはや擦り切れそうなほど繰り返したその映像が、再び脳内で再生される。

 見つかるわけがないと、俺は半ば諦めながらも回想していた。その時だ――


『お嬢にも好きな人が出来たり、いつか婚約したりするでしょう。その時には、お嬢の隣にはその男がいて。きっと俺とこうして二人でなんて来なくなりますよ。もちろん、執事として俺はお供をするつもりですけど』


 そう告げた俺に、なんでそんなことを言われなくてはいけないのかと、余計なお世話だと不機嫌そうにお嬢は言った。

 俺が執事では心許ないかと尋ねた時の、


『……シアンは、それでいいの?』


 俯いてどこか悔しげに、拳の震えを誤魔化すようにして裾を握っていたお嬢の手を思い出す。

 静かに淡々と呟く姿は、いま思い出しても切なくなるほどに寂しそうだった。

 見ようとしなければ見えない。近くにある物なら尚更に……。

 その言葉を思い返し、俺はふと兆しを得た気がした。


「もしかして、お嬢は――」


 そこまで口にして俺は頭を振る。違う、そうじゃない!

 いつかはお嬢と二人で来られなくなることを、分不相応にも寂しく思っていたのは俺だ。いつか婚約者が現れるであろうことに、心臓を握られるほどの息苦しさを覚えたのも。

 お嬢を後ろから抱きしめた時に、この時間がずっと続いてくれればいいのに。そう思ったのも、切なくなるほどの幸せと温もりを感じていたのも俺だった。

 バラバラだったパズルピースが音を立てて嵌っていく。

 ――近くにある、俺にはきっと見えているはずのもの。

 乾いた大地に水が沁み込むように、一雫が水面に波紋を広げるように。すっと腑に落ち気付くと同時、甘やかな疼きと共に温かな感情が胸に広がった。

 欠けていた最後のピースがそこへ収まり、音の余韻に心が震える。


「そうか……、俺はお嬢のことを、いつの間にか好いていたんだな」


 主人としてというのはもちろん大前提としてあることだが。それ以上に、一人の女性として想っていたことにいまさら気づいた。


「けどそれは……」


 俺にはふさわしくない。それ以前に、主人と使用人なのだ。

 お嬢も俺のことを同じくらい想ってくれていたとしても、俺には過ぎたお方なのだから。想いは受け取れない、そんな不義は犯せない。旦那様にも奥様にも顔を向けられなくなる。


『……あなたは、いつまでお預けを我慢し続けるのですか?』


 出掛けにベアトリスから言われた言葉が耳に響く。

 これは我慢するしないの問題じゃない。こんな想いを抱くこと自体が間違っている。

 自分の気持ちに気付けはしたが、どうすることもできない感情にやり切れず空を見上げた。

 やはり浮雲はどこにもない。

 諦めてそっと目を落とすと、その先に時計台が見えた。木とハチミツ色のレンガで組まれていて実にこの町らしい。

 時計の針は午後三時半をさしている。もう一時間ほどしたらお嬢が帰ってくる。

 こんな状態で館へ戻って、お嬢とどんな顔をして会えばいい。この想いは打ち明けてはならないものだ。心の奥底に鍵をかけて、秘して仕舞っておくべきもの。

 だがそう思えば思うほど、心が反発するようにお嬢への気持ちが募っていく。


 自覚など、するべきじゃなかったのかもしれない。

 伝えられない、受け取れない。それではまたお嬢を傷つけてしまうかもしれない。そんな関係であるならばいっそ――。

 そこまで思考し強く頭を振る。その選択だけはない。俺はお嬢の傍を離れたくはないし、自分の言葉を偽ってはアッシュベリーへの、引いては親父への背信行為にもなる。

 館を去ることは、出来ない。

 どうすればいい、どうしたらいいとしばらく思い悩んで、俺はすっくと立ち上がる。


「……久しぶりに、会いに行ってみるか」


 先人の知恵ではないが。

 なにか借りられるものがあるならばと、俺の足はその場所へ向けて再び歩み始めた――。

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