/シエル -5
お昼過ぎにシアンが出かけていった。リディの執事のセバスチャンと会うらしい。
直接本人に聞いたわけじゃなくて、ベティからのまた聞きだけど。養成学校時代から仲がいいっていうのは本当みたい。
とすると、以前リディが言っていた『自分がいないところでの愚痴』というのは、シアンが聞かされているのかもしれなかった。他人から愚痴を聞かされるのは気疲れすると思うけど、シアンは大丈夫なのかな。ついそんな心配をしてしまう。
いつもメイドのみんなと同じくらい忙しくて、疲れているかもしれないのに。
そう思いはすれど、なかなか素直に言葉に出来なくて。照れ隠しにいつもそっけない態度をとってしまう。
でも、それでもシアンは嬉しそうな顔をしてくれていた。そんなシアンの表情が暗く沈んで見えるようになって、もう八日になる。
彼が養成学校の一年生の時に、二週間学園の敷地からの外出が禁止になったことがあった。
二、三日に一度は帰ってきてたのに、二週間も顔を見せに来なかった。どうやら寮則で禁止されていたみたい。
あの時に比べればまだ八日。けどあの頃と違うのは、毎日顔を合わせているということ。そして互いにギクシャクとした関係にあるということ。
声をかけようとするのだけど。いままでどんな風に接していたのか忘れてしまったように、気まずくて言葉を、声を失ってしまう。それがもどかしくて、歯痒くて。シアンから言葉をかけてくれたものに返事をするくらいしか出来ない自分が情けない。せっかく話そうとしてくれているのに、逃げるように立ち去ることしか出来ない自分が……。
次こそはちゃんと話そう。そう思うたびに先送りになる。
薄雲のかかる心の向こうで、想いの徴は少しずつ色濃く、そして温かくなっていくのに。伝えられないじれったさが胸の内をジリジリと焦がすよう。
気持ちは逸るのに、どうしても一歩が踏み出せない。
いつまでも意気地のない自分が嫌になる。
そういった暗い気持ちの時には、裏庭にあるガゼボで一人空を眺めるの。
広い空に嫌な気持ちを吸い上げてもらえる気がするから。
表ほどではないにせよ、芝の通路を飾るようにいくつも設けられた花壇には、季節ごとの花々が植えられている。
そんな中にぽつんとある建屋は大理石造りで、四人掛けのテーブルセットが置いてある。
よく晴れたこんな日にはベティがお茶を淹れてくれて、ティータイムを楽しんだりもするけれど。さすがに今日はそんな気分じゃない。
眩しい西日を手で遮って、東へ流れていく浮雲を目で追った。
ゆっくりと進んでいくそれらを見ていたら、ふとアッシュベリーの家訓を思い出す。
『常日頃から鷹揚に、心に余裕をもって優雅に振舞うべき』
シアンがわたしのお説教から話をそらそうとして、いつも唐突に逆お説教を始める時の文言。
お父様から言われた言葉だけど、いまはどうあってもそんな立ち居振る舞いは出来ない。
自然に目線は下がり、まるで謝るようにして頭が垂れた。
いまのわたしは、アッシュベリー家の当主として失格だ。
はぁ、と思い煩うため息をこぼしたその時――
「お嬢様、シアンさんが帰ってきましたよ」
背後からベティの落ち着いた声。シアンという名前に変に緊張してドクンと心臓が跳ねる。
振り返ると、なぜか彼女は痛ましそうに眉尻を下げてわたしを見つめていた。腰のあたりできゅっと組まれている手が、少しだけ震えていることに気付く。
「ベティ?」
「……お嬢様。お空を眺めて、お気持ちは少しでも晴れましたか?」
その言葉を聞いて、彼女の表情の意味を理解する。心配させていたことに、わたしはいまさら気が付いた。
シアンのことで懊悩する自分に精一杯で、周りが見えなくて。身近な人がどう思うかなんて考える余裕もなかった。
それでもベティはいつでも傍にいてくれた、なにも言わずにただ傍に。
みんなもわたしの様子が違うことには気付いていたと思う。でもなにも言わなかった。きっと言えなかったのだと思うけど、それでもただ見守ってくれていた。
優しさに甘えて、みんなに心配をかけちゃダメだ。わたしがしっかりしないと。
そう思う前向きな気持ちが、心にかかっていた薄雲をわずかに払った。完全には消えていないけれど、一歩を踏み出さなければなにも変わらないし、変えられないから。
不安げに揺れるベティの瞳を見つめ返して、「……うん、わたしなら大丈夫」そう呟いた。
「……そうですか」
戻ってきた返事に静かに頷く。ベティはそれに対して、やわらかく微笑みを返してくれた。
その表情が切なそうで、でも優しくて。どうしたんだろうと疑問に感じたけれど。
みんなに心配をかけないために、わたしは心に決めたことをいま強く思う。
今夜、夕食の時間にでも話しかけてみよう。自然に、なるべく普通に、普段通りに。
それは一体どうやるんだったかな。そんな一抹の不安が頭をもたげかけたけれど、首を振って払拭する。
踏み出さなければ変えられないのなら、一歩を踏み出さなくちゃ。
西日を遮ることなくわたしは空を見上げた。先ほどまではそこにあったはずの浮雲が、すっかりと東へ流され消えていた。
それを見て、自分の心もそうであって欲しいと、秘かに天へ祈ったのだ――。
『人間は選択して決意した瞬間に飛躍する』
なんて名言があるけれど。
決意したことを実行出来なければ飛躍も何もあったものじゃないと思う。決意しただけで飛躍出来るのなら、わたしはいまこんなにも悩んでいない。
結局、夕食の時にシアンは食堂へ来なかった。
外へ出ていた時に出来なかったお部屋の掃除をするからと、ベティに言伝を頼んで本当に掃除をしていたみたい。
――夕食の時に話してみよう。
そう決意した思いは、勇気を振り絞ろうとした矢先に出端をくじかれる形となった。
それで機を逸してしまって。以後、見かけても声をかけようにもかけられず、そうしてぐずぐずしている内にもう就寝前という時間帯。
「はぁ、情けな……」
すーっと髪を梳く音にため息と自嘲が重なる。
規則正しい音の連続に、しばらく耳を傾けた。
ベティは毎日、わたしの髪のお手入れをしてくれる。痛まないように念入りに。
この日も寝る前にお手入れをしに来てくれた。
やわらかい暖色のランプが、ベッドに腰掛ける二人の影を壁紙に投影する。まるで影絵のように一つのシーンがそこに描かれている。
優しい手つき、力加減を間違えないヘアブラシ使い。
いつも通りなはずなのに、なぜか少しだけ不安な心持になるのは、わたしが不安定だからなのかな。それとも、ベティの呼吸が落ち着いているから? 分からない。
まさか自分が、ここまで心を乱されるなんて思いもしなかったことだけれど。
それはそうと。ベティはシアンと普通に話しているみたいだし、どんな様子なのか客観的にも見ているだろうから。普段の様子がどんな感じなのか、聞いたら答えてくれるかな。
でもそこまで気にして見ていなかったら。真面目なベティでもたまにぼーっとしている時があるし。シアンの時に限ってだけなんて、そんなことはないと思うけど。
……わたしは少しだけ躊躇いながらも、やっぱり気になって尋ねることにした。
「――ベティ、訊いてもいい?」
「はい、どうされましたお嬢様」
「あのさ。シアンって、どんな様子なのかなって思って」
「シアンさんの様子ですか?」
「うん。元気、ないみたいだからね……」
ベティは手を休めることなく、「そうですね……」と思い出すように言って続ける。
「心がここにないような感じでしょうか。お仕事をしているつもりなのでしょうけど、身が入っていないというか。ただ動いているだけのように感じます。気持ちが散らかっているような印象ですね。それでもお部屋を散らかしたりしていないところは評価出来ますが……」
あれだけ毎日「お嬢!」と声をかけてくれていたシアンの元気がないことは、分かっていたけれど。上の空になるくらい、わたしの態度でシアンも傷ついているのだと知った。
別荘でも、わたしが無視という態度をとっていた時、すごく寂しそうな顔をしていたことを思い出す。突然胸を押しつぶされるような苦しさを覚え、心は悲鳴を上げる。すごく切ない。
わたしが煮え切らないばかりに、彼のことを傷つけた。きっと同じくらい苦しいはず。
シアンは執事であり続けると、ただ当たり前のことを告げただけ。
自分の気持ちに気づきもせずに、なぜかそれ以上聞きたくなくて、勝手に傷ついて拒絶したのはわたしだ。
戻れるのならあの日にかえって言ってあげたい。
『時間はかかってもいいから、わたしに恋して』と。
きっとシアンは考える。自分にはふさわしくないとか不相応だとか。
でもきっと、いまみたいに切なくて、苦しくて、まともに言葉も交わせない気まずい関係にはならないと思う。
それを伝えることさえ出来たなら……。
現状を鑑みると、その一言ですら伝えるということが容易じゃないことは理解出来る。
「……気持ちを伝えるのって、むずかしいわね」
ため息とともに漏れ出た言葉は弱気なものだった。
けれど、このままじゃダメだ。
ベティに背を向けたまま、わたしはズキズキと疼くような胸を押さえた。ぎゅっとパジャマを掴む、心の痛みを誤魔化すように。
髪のお手入れが終わったのだろう。ブラシを置いて髪を掬い、サラサラと流すように優しく払うと、「お嬢様」とベティが静かに呟いた。
「なに?」
「今週の金曜日。祝日ですし、シアンさんをお誘いになってみてはいかがですか?」
そういえば五月八日はお休みだったことを思い出す。
あと四日。気持ちを落ち着けるには少し短い気もするけれど。
でも、いつまでも先延ばしにしていたらもっと気まずくなると思うし。日にちを決めてしまえば、逃げられないと無理にでも足は踏み出るような気もする……。
それに、なにかのきっかけに祝日を利用するのもいい考えだなと思ったから。
逡巡したのち。パジャマを掴んでいた手を離して、わたしは小さく拳を握った。
「そうね、……うん、そうしてみる。ありがとうベティ、話を聞いてくれて」
振り返ると、「いえ」とやわらかく首を横に振り、ベティは笑みを返してくれた。
わたしは心の中で、『もう心配しないでね』と呟き笑顔を見せたのだった。
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