/シアン -9
五月三日、日曜日。
お嬢との会話がほぼなくなってから、気付けば八日も経ってしまった。
お嬢の様子はというと。以前よりも表情はやわらかくなっていて、返事も普通にしてくれている気はするが。話しかけようとすると相変わらずどこか気まずそうに目をそらし、まるで助けを求めるようにしてベアトリスの方へ行ってしまう。
ある意味、前よりも状況は悪くなっているような気がする……。
ベアトリスといえば。五月一日は彼女の誕生日だった。
別荘へ行った日にお嬢と店で予約したぬいぐるみは、つつがなくベアトリスにプレゼントされた。毎年お嬢から贈られる物に感激する彼女だったが、今年は涙しながら喜んでいた。
それほどまでにラビデロ君が欲しかったのかと、微笑ましい光景に頬が緩みかけたが。
そんな俺を見たお嬢は何かを言いかけて、やはりサッと目をそらしてしまった。
そのたびに避けられているのかなと傷つき、きりきりと心臓が下から絞り上げられるように苦しくなるのだ。
ちなみに俺が贈った物も喜んでくれたのは嬉しかったな。
「意外とセンスがあったのですね」なんて褒められはしたが、ほとんどお嬢が選んだようなものであることは黙っておいた。
そこから話が発展する可能性もあるにはあった。だが、やはり少しだけ気まずい空気が流れていたから口には出来なかったのだ。
「――おいシアン、聞いてんのか?」
突然肩を揺さぶられ、意識が現実へと引き戻される。
デッサンに色を落とすように、灰色だった世界は色彩を取り戻していく。
まだ陽射しの明るい時間。いつものカフェのテラス席。そして目の前にはセバスチャン。
話を聞いていなかったことを責めるような目で彼は軽く睨んでいる。
そこでようやく、珍しく夕方ではない時間に呼び出されたことを思い出した。
「……悪い、考え事をしていたんだ」
「考え事? お前がそこまで意識を飛ばすなんて珍しいな。なにかあったのか?」
エスプレッソを傾け喉を湿らせて、どうした? というような視線を送ってくる。
セバスチャンに話したところでなにも解決しないだろう。俺にも分からないことなのだから。
だが、この鬱屈とした心は話すことで少しは軽くなるだろうか? なにも解決しなくても。
「そういえば、先月の二十日はシエル嬢の誕生日だったんだろ? なにプレゼントしたんだ、パンツか?」
つい先月の楽しかった一大イベントのことを耳にして、心はわずかに跳ねそうになったが――すぐさま別荘以降の現状に上書きされて薄暗い気持ちになる。
ふと自分のカップに目を落とすと濃褐色の液体が揺れていた。珍しく苦手なブラックコーヒーなどを頼んでしまったようでげんなりする。
「どいつもこいつも。そんなものを贈るわけがないだろう。グラキエースのガラス細工だよ」
「ああ、あれか。たしかそれ、養成学校時代も贈ってなかったか?」
「毎年出るからな。お嬢も気に入ってくれているみたいだし」
カップに手を伸ばし、コーヒーを一口すすってみる。苦いような酸っぱいような独特な風味は、やはりミルクで割らなければ飲めそうになかった。
苦虫を噛み潰した顔を見せると、「ははっ」と突然セバスチャンが笑う。
「人の失敗を笑うとは、ひどい奴だな」
「違えよ、いまのお前のダサい姿なんか見て笑えるかよ。そこまでひねくれてねえぞ」
「だったらなにが面白いんだ」
訝しむ俺を見て、くくっと愉快げに喉を鳴らす。
「いや、寮にいた頃、お前が毎年プレゼント買いに脱走してたのを思い出してさ。特別な理由がなけりゃ帰れない決まりだったのに、『お嬢の誕生日が特別じゃないわけないだろ!』って教師にキレてたのを思い出したんだよ」
「そうだったな……」
「それどころか、週に二、三回は帰ってたしな。まあそのおかげで寮則が緩和されたんだ。いまの奴らはお前に感謝してんだろ」
つい二年前までいた学生寮を思い出す。お嬢に会えない日常がつまらなくて、寂しくて。だから三年間、週に二、三回という高頻度で寮からの脱走を繰り返していた。
帰るたびに「アンタまた帰ってきたの? 本当に呆れるわね」とお嬢に笑われたことを思い出す。仕方なさそうなお嬢の表情は、けれどどこか嬉しそうにも見えた。
一年の三分の一以上は会えていた、だがそれだけでは足りなかった。満ち足りなかったのだ。
「……ところで、シアンのところもなにかペットでも飼うのか?」
「ん? いきなりなんの話だ?」
「いや、つい最近リディとシエル嬢がペットショップにいるのを見かけたことを思い出したからさ。前からリディは犬欲しいって言ってたんだが、お前んとこもそうなのかと思って」
犬……ペットショップ……?
まさかと思い、「それはいつの話だッ!」とテーブル越しにセバスチャンへ詰め寄る。
動揺の激しさを物語るように、テーブル上のカップがガチャガチャと音を立てて揺れた。
彼は鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くした後、
「だから最近の話で――」
「最近なのは分かった! それは二十五日よりも前か後かと聞いているんだ!」
「それなら後だ。たしか水曜日だったから、……二十九日だな」
別荘へ行った後の話。ペットショップで、犬……。
そうか。俺はもう、いらないんだ――。
ろうそくの灯が萎むように、俺の体も縮こまっていく。目を伏せると暗く打ち沈んだ感情に浚われそうな不安感に苛まれた。
「お前が二十五日にこだわるってことは、その日に何かがあった。そういうことだろ?」
石のように固まる体を煩い、瞼の重たい目だけを彼へ無気力に向ける。
カップを手にしたセバスチャンは、口元へ持っていくことなく手を離し、小さく息をついた。
「……いまのお前は、二週間外出禁止処分くらった時くらい惨めだぞ」
静かに呟かれた言葉は、暗澹としたものに覆われて硬くなっていた心を叩く。パキッと亀裂の入るような感覚がした。
そんなことは言われなくても分かっている。自分が惨めで、みっともないということくらい。
いまの俺が、お嬢の執事にふさわしくない姿だということも。
「話してみろよ、なにを悩んでるのかをよ」
やわらかな口調に顔を上げる。
まるで戦地へ赴く友人を案じるような眼差しのセバスチャンと目が合った。
「聞いてくれるのか、いつもは愚痴を言うだけのお前が」
「うっせえ、それはそれ、これはこれだろ。まあなんだ、俺もいつもお前に聞いてもらってるからな。それにそんな状態のお前を見るのはこっちまで気が滅入るんだよ。だから楽になれ」
腕を伸ばし肩を叩いてきた手に、なぜだか頼もしさを覚えた。
話すだけで楽になれるのかは分からない。だが、ここまでしてくれている友人を無下に断ることもできない。
俺は誕生日の前から現在に至る経緯を説明することにした。
約束していたのにお嬢との夕方の散歩に行けなくなったこと。そのお詫びと誕生日プレゼントのお礼をかねて二人で別荘へ行ったこと。展望台でお嬢に告げた言葉と、それから拒絶され、避けられるようになったことを。
セバスチャンは真剣に耳を傾けて聞いてくれていた。
そして聞き終えると、なぜか苦いような渋いような微妙な顔をして……。
「お前はお嬢様にもいつか男が出来ると言って、んでお嬢様からどうしてそんなことを言うのかって聞かれたわけだ」
「ああ」
「そして自分は執事であり続けることを告げて、なぜか冷たくされたと」
改めて他人に要約されても、なにがいけなかったのかよく分からない。俺はお嬢の執事なのだ。それの何がいけないのだろう。何と答えれば正解だったのだろう。
「……ああ」
力なく頷き返すと、セバスチャンは「かぁああ~」と額を叩いて首を振る。
「その状況にあって、そんなことを言われたのに、お前は気付きもしなかったのか?」
「気付きとはなんだ?」
「はぁ~~、相変わらずお前は唐変木だな。土産に押し付けられるいらねえトーテムポールくらい厄介だ」
「トーテムポールは木の工芸品であって、別に唐変木ではないと思うのだが」
「ただの言葉の綾だろ、流せよそこは」
邪魔くさそうに払うような手振りをして適当にあしらう。カップを引っ掴んでエスプレッソを一気に飲み干してから俺を見据えてきた。
その瞳がわずかに怒っていることに少したじろぐ。
「ったくよ。お前はもう少し物事を柔軟に捉えてみたらどうなんだ? 自分から見ようとしなけりゃ見える物も見えないんだぞ。近くに落ちてる物なら尚更な。そんなんだから気付かねえんだ、クソ真面目かよ」
俺は別に謗りを受けたいから相談したわけじゃない。
それにベアトリスと似たようなことを言いたい放題言われ、なぜだか無性に腹が立ってきた。
「……なんだと。貴様こそセバスチャンだなんてThe 執事のような名前しているくせに。もう少し真面目になったらどうなんだ」
「なんでお前にそんなことで説教されなくちゃならねえんだよ。そういうお前こそフランス語で『犬』じゃねえか! このわんこめ!」
「綴りが違うが、わんこでなにが悪い。名は体を表す、お嬢は愛犬だと言ってくれたんだ! 馬鹿にするなよ!」
「馬鹿にしてるんじゃねえ、悪口言ってんだよ!」
「どっちも変わらんだろう! もういい、貴様とは口を利かん!」
「望むところだ!」
二人してテーブルに手を叩きつけて、それぞれ別の方向へ不機嫌な目を向ける。
ジンジンとする手のひらを労わりたい衝動に駆られるが、セバスチャンが動いていないことは視界の端からも窺える。虫が這うような痛くすぐったさに根負けして、俺が先に行動するわけにはいかない。
テーブルに指を力いっぱい押し付けてなんとか気を紛らわせる。
すると、
「――けど、愚痴は聞いてくれるんだろうな」
喧嘩中の友人が遠慮がちに先に発言してきたため、横目でその様子を窺う。
セバスチャンも気まずそうにチラチラと俺を見ていた。
なんとも図々しい問いに、少考する。
「…………口は利かんと言った手前、いまさら付け足すのはスマートじゃない。いいだろう、聞くだけなら聞いてやる」
「ちっ、頑固野郎め。……じゃあ仲直りしようぜ。その方が気分がいい」
「……そうだな、ギスギスしていては楽しめるものも楽しめない。分かった、仲直りだ」
互いに手を出して握手を交わす。憂いは明日にまで持ち越さないのが俺たちのルール。
……お嬢とも、こうして握手で仲直りできれば一番いいのに。ふとそんなことを思う。
「おい痛えよ、いつまで握ってんだ」
「ああ、悪い」
気付かずに力を込めていた握力を弱め手をほどく。
そのままセバスチャンはカップに手を伸ばしかけ、空なことを思い出したのか――それを誤魔化すようにして、代わりに俺のカップを素早く奪い一気に飲み干した。
「お前、ブラック苦手だろ?」
「ああ、飲んでくれて助かるよ。無駄にならずに済んだ」
「注文を間違えたことにも気づかない程とはね、こいつは重症だ。しかし、意味もなく冷え切ったコーヒーほど不味いものはねえな」
こちらへカップを戻すと、セバスチャンは西日に目を細めた。
その横顔がなにかを悟っているみたいで。
ヒビを広げてはパラパラと欠片を落とし始めた硬い心が、希望に腕を伸ばすように答えを求めて俺の口を開かせる。
「セバスチャン。先ほど気付くような話をしていたが、それはどういう意味だ? お前は何に気付いた、俺に教えてくれ」
藁にもすがる思いで懇願する俺の顔を横目にし――ややあってからわずかに首を振ったセバスチャンは「いや、」とため息交じりに断った。
「そいつはお前が見つけなきゃならないものだ。俺からの答えを期待するなよ」
友人から返ってきた冷たい言葉に、落胆を禁じ得ずに肩から力が抜ける。
傷心、寂寞、孤独、懊悩。そういった暗い感情によって分厚いかさぶたのようになっていた心。もしかしたら話すことで解放されるのかもしれない、そんな風に思っていたのだが。
広げていた亀裂は進行を止め、いまは欠片も落ちなくなってしまった。
閉口し俯き目を伏せていると、「ただ一つだけ――」そう彼は付け足す。
顔を上げた俺に、立ち上がりながら笑って告げる。
「そいつは最も近くにある物だ。よく見てみろよ、お前にはきっと見えてるはずだぜ。ただ見ないようにしてるだけ、俺にはそう感じられた」
眩い日光に照らされていて、なんだか天の使いのようにも見えた。
俺は救われるのか? 意味を問う、ついそんな眼差しを注ぐ。
「………………」
「この世の終わりじゃあるまいし、そんな目をすんなよ。心に素直に向き合えば、その内に理解できることだと思うぞ。と、俺からはこれだけだ。健闘を祈ってるぜ、シアン」
テーブルに二人分の代金を置いて、セバスチャンは明るい陽の光の中を歩き去っていく。
直射日光を手で遮りその背を見送っていると。右肘をわずかに曲げて外へ向け、背中越しにこちらへ向かって一瞬だけグッと硬く拳を作ってみせた。
頑張れよ、友はそう言ってくれている気がした。
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