/シエル -4

 その日は、賑やかな教室でお昼を食べるという気にはなれなかった。

 午前からの授業も身が入らず、教師の話を窓の外へ追いやるように耳は右から左へと聞き流していた。休み時間の楽しげなお喋りも、移動する煩わしい足音も……。

 喧騒にも似た活気のある空間から逃げるようにして一人、お弁当袋を持ってやってきたのは公園ほどの広さの校庭。

 一面に敷き詰められた芝が綺麗に刈り込まれ、おしゃれな模様を成している。

 花壇には色とりどりの春の花々が咲き誇り、照りつける陽射しとそよ風にみんな気持ちよさそうに揺れていた。


 草花に歓迎されているような気持ちになり、香りにわずかな癒しを得ながら石畳の通路を歩く。その先にあるガゼボへ足は向かった。

 真っ白い八角形の建屋には壁はなく、柱には草花を模した欄干が渡してある。中央には丸いテーブルがあって椅子も備え付けられているから、よく昼食やお茶会に利用されたりもする。

 幸い、今日は誰一人として利用者はいないみたいで安心した。

 テーブルにお弁当袋を置いて、スカートを払ってから椅子に腰掛ける。

 しばらくの間、袋から顔を出すお弁当箱をなんとはなしに眺めていた。

 お昼を食べようと思って移動したのに、なかなか食指が動かなかったのは単純に、食欲がないから。


「はぁ――」


 我ながら重苦しいため息が漏れたものだと、自嘲気味に笑ってしまう。どうしてこんなに息苦しくて、悩ましくて、心が痛むのか。

 あの日。別荘へ行ったあの日から、鬱々とした日が続いている。

 シアンと出かけた、あの日から……。

 あんなに強く、言うつもりじゃなかったのに。


『お嬢にも好きな人が出来たり、いつか婚約したりするでしょう。その時には、お嬢の隣にはその男がいて。きっと俺とこうして二人でなんて来なくなりますよ。もちろん、執事として俺はお供をするつもりですけど――いいもなにも、俺はお嬢の執事なので。傍にはいますから安心してください。あ、追い出されない限りはですけどね』


 そうシアンから返ってきた言葉に、どうしてかすごくむかついて、なぜだかすごく、胸が苦しくなった。

 仲良くしていた友達に突然、絶縁状を叩きつけられたような。ううん、違う。家族が遠く離れ二度と会えなくなるような……お父様の時みたいに。――ううん、それも違う。

 似ているような気もするけれど、それらとはまったく異質な感覚だった。

 悲しくて、寂しくて、苦しくて、切ない。

 この気持ちはなんなんだろう。どうして使用人にこんなにも悩まされなければいけないのだろう。ただの執事なのに……。

 再び感じた胸の痛みを誤魔化すように、スカートの裾をギュっと握りしめた。

 皺になることなんて考えもしない。そんなことどうでもよくなるくらい、息が苦しい。


「シ~エル! ガゼボッチでなにやってんのー?」


 そこへ聞こえた耳慣れた能天気な声。胸の痛みは隠れるようにして翻っては薄れる。まるで鎮痛剤みたいだなと思いながら振り返ると、そこには案の定、欄干にもたれるリディがいた。

 燦燦と降り注ぐ陽光は、彼女の赤茶の髪を燃えるように色鮮やかにし、まだ春なのに夏のような暑苦しさとなって目に飛び込んでくる。


「ガゼボッチってなによ。モンスターかなにか?」

「あはは! ある意味モンスターじみてるかもねー。ガゼボで独りぼっちなんてさ。そんなお化けいそうだし」


 独りでいたい気分の時もある。そんなわたしの気持ちなんてお構いなしに、リディは「失礼するねー」と気軽く言ってどーんと隣に腰掛けてきた。

 お嬢様なんだからスカートくらい払えばいいのに。リディはそういう小さなことをあんまり気にしないところがある。

 朗らかでそんなサッパリしたところも、密かに人気があったりするのよね。

 本人は気付いていないみたいだけど。


「どうしてこんなところに来たの?」


 けれどわたしには余裕なんてなくて、なんだか棘のある言い方になってしまった。

 思いのほか自分の心が荒んでいることを今さらながらに知る。

 それでもリディは嫌な顔一つ見せず、眩しいくらいの笑顔を向けてきた。


「どうしてって、そんなのシエルとお昼食べたかったからに決まってるじゃんっ」

「……そう」

「それにさ、」言いながら建屋の天井を見上げるリディ。「最近元気なかったから、どうしたのかなって心配になって……」


 つられてわたしも天井を仰ぐ。屋根を支える梁が交わっている様子がまるで星みたい。ほとんど動かない北極星は道しるべになるけれど、でもこの星はそれには成りえない。

 身動きも取れずにもがいている、わたしの心を導くことでさえ……。


「どうしたどうしたー? シエル本当に元気ないね。もしかして、わんこ君となにかあったの?」

「……なにかあったら、どうなの?」

「相談に乗る! アタシ友達だし! てか面白そう!」


 ちっとも面白くないわよ。普段ならそんなぼやきも出てくるのに、今日はそう呟く気力さえ失せてしまっているようだった。

 そういえば、わたしがシアンのことを変に意識し始めたのは、リディの一言がきっかけだった気がする。一日執事を交換した後、わたしのことばかりを話していた、わたしのことを大切に思っている、そう聞いたあの時から……。


「シエル?」


 面白そうと言った言葉が嘘のような真剣な顔をして、リディがわたしの肩に手を添えた。

 どうしよう。そう悩むわたしを急かしたりせず、じっと待っている彼女。茶化したりからかったりする様子がないと分かり、その上でわたしは一つ質問してみたくなった。


「……リディは自分の執事のこと、どう思ってる?」

「どうって?」

「それはまあ……いろいろと、よ」

「いろいろ、ねぇ」


 ほんの少しだけ怪訝そうに片眉を上げたリディだったけど、腕を組んで真面目に考え出した。

 むむむと眉間を軽く揉むようにして悩むこと十数秒。

 どんな返事をするのだろうと、かすかに息をのんで待つ。

 するとわたしに振り向くなり、急に表情を明るくした。


「まあアタシはただの執事ってくらいかな。それもどうなるか分かんないけどねー。世間的にも、執事と恋仲になっちゃダメなんてことはないわけだし。中には前例もあるみたいだしさ」


 聞いてもいないことまで返ってきて、じゃっかん面食らう。そして同時に、なぜか最後の一言に安堵したような自分がいることに気付いた。

 ますます意味が分からずに、戸惑ってリディから目線を外す。


「別に、そこまで聞いてないわ」

「そう? いまシエルが一番聴きたいと思ってることだと思ったんだけど」


 どうして? そう尋ねそうになった口をつぐんで、その言葉は喉奥にしまい込む。

 それを聞いてどうするつもりなのか。相手は執事であり続けることを目の前で宣誓したというのに。そんなことより、なぜそのことに傷ついてまた心が痛むのだろう。

 あの日から心が千々に乱されて、自分でも思考が追いつかない。こんな思いをするくらいなら、別荘になんて行かなければよかった。

 ただ、大好きな景色をシアンと見たかっただけなのに……。

 俯くわたしの肩に、またリディの手が添えられる。手のひらの温もりに、疼く胸の痛みが少しだけ和らいだ気がした。


「シエルがなにに悩んでるのか。アタシは無理には聞かないよ。だからこの話はアタシが勝手にすることだと思って聞いて」


 肩から手を下ろすと、リディは優しげな顔をして語り出す。


「どうあったってシエルは普通じゃないよね。アタシの場合は中等部の時にセバスチャンが研修で初めてうちに来たけど、シエルは子供の頃からずっと一緒だったんでしょ?」


 普通じゃないとの第一声に少しだけ驚いたけれど、よくよく考えればたしかに普通じゃなかった。出会い方もその理由も。

 両親の仲が良く、親を亡くして孤児になってしまったシアンを案じて引き取ることにしたと、生前にお父様は言っていた。だから執事として奉公しにくるという一般的な出会いとは違う。気付いたら傍にいたのだから。


「だからさ、そんなに長い時間を共に過ごしてきても、気付かないことの一つや二つあって当たり前だと思うんだ。例えばだけど。近すぎたから見えなかったこととか、見ようとしなかったこと、見ないようにしてきたこととかね」


 近すぎて見えなかったこと、見ようとしなかったこと、見ないようにしてきたこと……。

 以前も似たようなことを言っていたリディの言葉に、胸の内が引っ掻かれたように騒ぐ。

 執事の交換話が出た時はなるほどと思って聞いていた。でも今は。意識するようになって改めて聞くと、なにか徴のようなものが薄っすらと現れた気がした。

 見ようとしなければ見えないくらい、それはまだ不明瞭だけど。たしかにそこにある。


「……こんなこと言われても困るだけかもしれないけど。これだけは言わせてね」リディはわたしの手を取って、「シエルがどんな選択をしたとしても、アタシはシエルの味方だからね」


 がんばれ、と真摯な眼差しに見つめられ、わたしも同じくらい真剣に見返した。

 いつものお気楽な彼女の姿はそこにない。真面目に、わたしのことを大切に想ってくれる友人として目の前にいてくれる。心強かった。


「ありがとう、リディ。きっとあなたは、わたしの北極星だわ」

「え、なになにいきなり、プロポーズ? まあアタシはそれくらい輝いてるってことなんだろうけどさ」


 急に相好を崩して満更でもなさそうにお道化るリディ。

 違うわよ、と心の中で呟いて、わたしはガゼボの天井へ目を向けた。

 交差する梁の星は道しるべにはならない。だけど、身近にそれはいてくれた。

 気付きという名の行く道をそれとなく示してくれたリディに、わたしは心から感謝したのだ。


「ねえシエル、お礼ついでにさ、今日ちょっと付き合ってよ」

「いいけど、どこに行くの?」

「ペットショップ。最近なにか飼ってみたいなーって思っててさ。気分転換にもなるだろうし、いいでしょ?」


 そんなわけで、放課後。リディに付き合いペットショップへ行くことになったのだった。


   ☆


 想いの徴に気付くことはできた。リディにも応援された。それはいいけれど、正直どうすればいいかなんて分からない。

 この気持ちを想いにして伝えても、きっとシアンは受け取らないと思う。自分のことは二の次で、忠義や忠誠を掲げて分不相応だとか思っちゃうような人だから。

 昔からそう。いつもわたしのことばかりを一番に考えてくれていた。

 わたしが転ぶと泣き出しそうなくらいに心配して駆け寄ってくれたり。わたしがなにか意地悪なことをされたりしたら、親のように兄のように親身になって相手を怒ってくれた。

 ピアノのコンクールで賞を取った時も、自分のことのように喜んでくれて。わたしといると楽しいと嬉しそうに笑ってくれる。

 わたしを見つけるといつも『お嬢!』って。

 そう慕ってくれることが心地好くて、温かくて、すごく嬉しかった。

 いつの間にか出会い、気付けば傍にいたシアンは、いつしかわたしの特別になっていたんだ。

 不意に鼻がツンとして、目の縁が涙で滲む。

 この胸の昂りは、あの時のような怒りや悲しみじゃない。

 自覚した途端にカアッと熱くなった胸元へ、想いごと抱きしめるようにして手を当てた。

 リディと別れたペットショップの帰り道。

 ガタゴトと揺れるトラムの中から、車窓を流れていく町の景色を眺める。

 もうすぐ自宅の最寄り駅。

 早くシアンの顔を見たいという思いと、少し気まずくてどうすればいいのか分からない困惑。それらがない交ぜになって、チクチクと刺すような痛みが熱い胸にまた障る。

 もうすぐ五月。

 明後日のベティの誕生日までにはなんとかしたいな。そんな焦燥を感じる家路だった。

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