第四話 シアンとシエル

/シアン -8

 別荘から帰ってきて、お嬢とまともに話すことも出来ないまま週が明け、そして日が過ぎた。

 四月二十九日、水曜日。

 いつものように、学校へ行く主人を見送るために玄関に立つ。

 気まずくて、相変わらずベアトリスの背中越しにしかお嬢を見られない自分が情けない。


「お嬢様。今日も腕によりをかけて美味しいサンドイッチを作ったので、お昼をぜひ楽しみにしていてくださいね」

「うん、ありがとうベティ」


 お弁当の入った袋を受け取るお嬢の表情はまだ少し硬い。ベアトリスもそれに気付いてはいるのだろうが、あえてなにも聞くことはせずにこやかに接している。


「お気をつけていってらっしゃいませ」

「いってきます」


 そういって踵を返した主人の背に、「お嬢っ!」と慌てて声をかけた。

 こちらへ少しだけ体を向けたお嬢は、眉根をかすかに寄せて困ったような顔をする。


「なに?」

「あの、……いってらっしゃい、お嬢」

「……いってきます」


 言い終える間もなく目を伏せて顔を背けると、お嬢はドアを開けて館を出た。一応こうやって返事はしてくれるのだ。しかし、そこから会話らしい会話に発展することはない。

 音のない茫漠たる砂漠に一人立ち尽くすように悄然とし、閉まったドアを見つめ続けた。


「別荘でなにかあったんですか?」


 俺に振り返ることなくベアトリスが静かに尋ねる。その声音から怒っているわけではないのだろうと分かる。が、なんとなくやわらかい棘のようなものを感じた。

 ここ三日。なにか様子がおかしいと分かっていながらも、なにも訊いてこなかった彼女。さすがに四日目ともなると、いくら落ち着いているメイドとはいえ痺れを切らすのだろう。

 なにかと言われても、なにかはあったのだろうと思う。しかし俺にはなにが原因なのか分からないのだから答えようもない。

 俯き黙っていると、視界でロングスカートの裾が重たそうに揺れた。

 こちらへ振り返ったベアトリスは、聞こえよがしなため息を一つこぼす。


「はぁ。……お嬢様に無理やり迫りでもしましたか?」


 その言葉を耳がすべて拾い上げるよりも先に、「――俺がそんなことをするわけないだろう!」とこれ以上ないほどの速さで否定した。

 少し声を荒げたにもかかわらず、メイドの表情は微風を受け流すくらい平然としている。

 ちょっとのことではまるで動じない、SPの鑑だなと思った。

 彼女の紫瞳が俺の目をぼうと見つめてくる。視線を外すことなく、俺も彼女の双眸を見返した。ややあって、ベアトリスはくすりとあしらうように小さく鼻を鳴らして頷く。


「そうでしたね。あなたがそのような不義を犯すはずがない」

「当たり前だ。俺はお嬢の執事なんだから。万に一つもそのようなことがあってはならないだろう。そうでなくても婚約前の身だぞ。一介の執事が手を出すなんてこと許されるわけがないし、例え許されたとしても身の程は弁えているからしないさ。お嬢へそんな想いを抱くことすらおこがましいことだからな」


 当然のように言葉にした俺の瞳を、今度は少しだけ目を怒らせたように軽く睨んでくる。


「それはあなたの本心ですか?」

「どういう意味だ? 俺の忠誠を疑っているのか?」


 俺の問いには答えずに、ベアトリスは瞬きすることなく目の奥を覗いてくる。見透かそうとしてくる瞳は相変わらず苦手だった。しかしそれだけの意味ではないような、どうしてかわずかな哀れみも感じられたのだ。

 見つめることに飽きたように瞼を伏せて、ベアトリスは「はぁー……」と重く長いため息を吐いた。

 この状況にため息をつきたいのはこちらだというのに。


「シアンさんの覚悟は立派だと思います。ですが、もう少し物事を観ることを覚えたらいかがですか? 心に寄り添えるように」

「何の話をしてるんだ? 見ることがいま必要なことなのか? なにを? 寄り添うとはどういうことだ?」

「私はそこまでお人好しではないので、なにを観るべきなのかなど教えるつもりはありません。それはご自身が見つめることでしょうし、教えられなければ解らないようならそれまでというだけのこと。ですが健闘は祈りますよ。アッシュベリー家に奉公する同僚として……」


 それだけを告げて、俺の肩を掠めるようにして歩いていくベアトリス。

 すれ違いざまに一瞬だけ見せた表情は、どこか悲しげに睫毛を震わせていた。

 そんな彼女の背中にそれ以上声をかけることは出来ず。姿が見えなくなるまで、ただじっと眺めていることしか出来なかった。

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