/シアン -7.1
展望台があるのは別荘のちょうど真裏にある小高い山。
標高はおよそ三百メートルほど。その頂を均して台地にしていて、風光明媚な湖畔の景色を眺望するには絶好のスポットになっている。
山へ入り、しばらく階段状に整備された山道を歩く。
むせ返るような緑と土のにおいに包まれて、降り注ぐマイナスイオンに癒される。風に揺れては騒ぐ葉の音が耳に心地よい。日々のストレスが消えてゆくようだ。
もちろんそのストレスはお嬢のことではなく、大半はセバスチャンなのだが。しかしあれはあれで、俺にとっても必要な時間ではあるのだろう。親友なのだし。
そしてベアトリス。しかし彼女も居てくれなくては困る。張り合う相手としては申し分ないのだから。それにライバルなのだし、やはり必要だろう。
と、二人のことはいまは置いておいて。
パンプスからスニーカーに履き替えたせいか、お嬢の足取りはすごく軽快だ。
しかしどこか危なっかしく思えてつい声をかけた。
「お嬢、あまり急がずゆっくりと登りましょう。転んで怪我されては困りますから」
「大丈夫よ、そんなドジしないから。それにいざ転んでケガしたら、シアンにおんぶしてもらうから問題ないわ」
首だけでわずかに振り向いてお嬢が微笑む。「前を向かないと危ないですよ」と注意すると、「わかってるわよ」と面倒くさそうに返事をする。その様子からは、先ほどまでの不安を感じさせる雰囲気はまるでない。美味しい空気と鮮やかな山の緑がそうさせているのだろうか。
そんな主人に安心し、おんぶすることはやぶさかではなく、むしろ当然だと頷いた。
「でも、こんな序盤から転ばないでくださいよ。お嬢一人おぶって残りの山道はさすがにきついと思うので」
「無理なの?」
ねだるような声音に一瞬ドキッと心臓が跳ねた。妙に大人びて聞こえたからだ。
いつも一緒にいた。養成学校時代に寮生活をしていても、たびたび館へは帰っていた。にもかかわらず、このような声は聞いたことがない。いつの間にかお嬢も成長していたのだなと、感慨深くなると同時になぜか切なくなった。
立ち止まり振り返ったお嬢の瞳を真っすぐに見返して、「いえ」俺はそう首を横に振る。
「大丈夫です、お嬢の執事なので。そのくらいはぜんぜん!」
強がりとも取れるような俺の言葉に、お嬢は「そう」とやわらかく微笑んだ。
「じゃあ、日が暮れないうちに早く登っちゃいましょ」
「お嬢、まだ昼ですよ。さすがにそこまで時間はかかりません」
歩き出したお嬢の背に言葉を投げ、そして俺も階段に足をかけた。
無理をせず、途中途中で休憩を挟みながら山を登ること二十分。
山へ入る前は、雨は降らないだろう、天気予報では晴れだったとお嬢が言っていたし。
そう思い、それを信じていたのだが。
空を見上げると、いつの間にか灰色雲が立ち込めて陽が陰り、気づけばぽつぽつと雨粒が落ち始めていた。狐の嫁入りなどではなく、これは完全な雨だ。
「……お嬢。雨は降らないんじゃなかったでしたっけ?」
「まあこういうこともあるわよ。一〇〇パーセントじゃないんだから」
「いやそれはそうですけど……。あの、ちなみに一つ聞いていいですか? まさかとは思うんですけど、お嬢が見たそれは、一体どこの天気だったんです?」
さすがに二パーセントを引くほど運が悪いとも思えない。
「……ラスクだったかしらね」
「ここ、山を一つ越えたところですよ。ラスクリーネの天気見てどうするんですか。ただでさえ山の天気は変わりやすいのに」
前を行くお嬢は「うぅうう……」と羞恥か参っているのかよく分からない声で唸ると、急に歩みを止めて俯いてしまった。
一段下の階段で立ち止まり、どうしたのかとお嬢の背中を見つめる。
「――うるさいわね。別にいいじゃない、来たかったんだから」
弱い雨音にも消えそうな声で呟いたのは、拗ねる子供みたいな文句だった。
「どうしてそこまでこだわるんです?」
「……知らない」
湖の方へと顔を向けたお嬢の横顔は、ここまで来て諦められない。そんな意固地な思いがありありと窺えるほど頑な表情だ。
その気持ちは分からないでもない。しかし、このままでは髪も服も濡れてしまう。
「お嬢、本格的に降り始める前に帰りましょう。風邪をひきます」
「いやよ。通り雨かもしれないじゃない。あと半分くらいなんだし、ここまで来て引き返すなんてありえないから。中腹に洞窟があるから、そこで雨宿りしましょ」
「お嬢――」
言葉をかけるよりも先にお嬢は歩き出してしまった。こういう時は言っても聞かないため、俺は早々に諦めてお嬢の後ろをついて歩いた。
雨脚が強くなったのは、歩き始めて三分としない内だ。本当にいきなりだった。
お嬢が言っていた洞はちょうど山の中腹辺りにある。昔の人たちが休憩するために掘ったものだそうだ。今でも天気の急変による雨に降られた時などには、ちょうどいい雨宿り場所にもなっている。そもそも天気が心配なら雨具を持っていくべきなのだが。今回はそれを予報していた場所を見間違っていたのだから意味はない。だがお嬢ばかりを責められないだろう。急なことだったとはいえ、天気を確認しなかった俺も悪いのだから。いやむしろ俺が悪いのだ。
洞まではおよそ五分。しかし思いのほか土砂降りで、逃げ込むまでに二人とも相当濡れてしまった。
階段から道をそれ、カエルが大口を開けたような洞窟を奥へと入る。
手で掘られたせいか岩壁には掘削の跡が残り、窟はさほど奥深くなく十メートルもしない内に最奥へ到達する。そこには岩石を切り出して作られた座椅子が五つあり、焚火が出来るスペースなども設けられている。だがあいにく枯れ木の予備はなく、あったとしてもライターを持参していないため火も起こせない。
不甲斐ない自分に頭を垂れる。すると近くからビシャッと水がこぼれるような音がした。
「びしょびしょになっちゃったわね」
視線を転じた先で、お嬢が濃灰色のスカートの裾を絞っている。白い透かし編みのニットも濡れて重みでじゃっかん伸びていた。中に着ている黒のキャミソールも濃さを増していて、どうやらそちらも濡れてしまっているようだ。
「お嬢、上着を脱いでこいつを着ていてください」
すかさずジャケットを脱いで、お嬢に差し出す。
「それだとシアンが冷えちゃうじゃない」
「俺のことは気にせず。ジャケットの裏まではあまり濡れてないようなので、キャミソールの上に着てれば水気吸うかもしれませんし。それに、馬鹿は風邪ひかないって言いますから」
俺の顔とジャケットを交互に見やるお嬢。どうぞ、と俺が頷くと、「ありがとう」と言って遠慮がちにだが頷いてくれた。
ニットを脱いで石の座椅子の背もたれにかけ、お嬢は俺からジャケットを受け取る。それに袖を通しながら、なにか思い出しでもしたのか「ふふっ」と急に笑った。
「でも知ってる? バカは風邪をひくのよ、予防とかしないから」
「だったらますますもって大丈夫ですよ。俺はただのお嬢馬鹿なので。予防する必要ないですから」
「ん……なにそれ。理由になってないわ」
お嬢はなぜかくすぐったそうにして、俯き加減に目をそらす。落ち着かない様子でそそくさと座椅子に腰を下ろすと、膝を抱えるようにして座った。
それを見て、俺も一つ間を空けた席に座ろうとして屈んだところ、
「……隣に、座りなさいよ」
とお嬢に指示を受けたのだ。
雨の降りしきる窟の外をじっと見つめるその瞳は、不安げにわずかに揺れていた。心細いわけではないのだろうが、少し気になる眼差しだ。
「じゃあ、失礼します」
「うん」
返事を待ってから俺はお嬢の隣の席に腰掛ける。距離にしておよそ三十センチという至近距離だ。体温で揮発するお嬢の花園のような匂いは、濡れているせいかどことなく重たい感じがした。
濡れ髪を優しく絞り、お嬢は額に張り付いた髪を薬指で払う。綺麗な形のおでこがお目見えした。普段は前髪で隠れわずかにしか見えないため、大変貴重だ。サイドの髪を耳にかけると、どこか躊躇いながら口を開く。
「……悪かったわね、こんなことになっちゃって」
「こんなことって、何がです?」
「雨よ。わたしが無茶言わなければ、ずぶ濡れにもならなかったのに」
「そんなこと、お嬢が謝ることではないです。空気のくせに空気を読まない天気が悪いんですよ。そうです。久しぶりにお嬢と二人でお出かけなんていうハレの日に晴れず雨降らすなんて、大馬鹿者ですね天気ってやつは」
天気に対して悪口を言った罰だろうか。さらに雨は強くなり、少しだけ風も勢力を増した気がする。雨に濡れたせいで吹き込んでくる外気がより肌寒く感じられた。
果たしてこれは俺のせいなのか否か。考えても答えなど誰にも出せないが。
お嬢に目を移すと、膝に顎を乗せて拗ねるようにただ黙って地面に目を落としていた。気にする必要などないのに、自分のせいだと責めているのだろう。
「……それに。お嬢となら雨でも楽しいですよ。ずぶ濡れでも結構。水も滴るいい女なお嬢も見られましたしね」
「滴りすぎもどうかと思うけどね」
ふっと自嘲気味にでも笑い、言葉を返してくれてほっとする。お嬢にはやっぱり、笑っていてほしいから。
それから互いに言葉をなくして、しばらく雨音を聞くだけの時間が流れた。この沈黙は嫌いじゃない。お嬢と二人で居られるのなら、それだけで心は浮つくからだ。ただ傍らに在ること、その幸せを噛み締められる。じんわりと広がる温かな気持ちが心地いい。
お嬢はどんな顔をしているのだろう。
そう思い隣を見ると、少し体を震わせていることに気付く。
「お嬢、寒いですか?」
「そこまでじゃないけど、少し冷えるわね」
「俺のシャツ着ますか? ジャケットで隠れてないところは濡れちゃってますけど。インナーでいることを許してくれるなら貸しますよ」
「いいわよ別に。そんなことしたらシアンが寒いでしょ、着てなさい」
こんな時でも使用人の心配をするなんて。お嬢はもう少しくらいわがままになってもいいと思うのだ。使用人とは立場も身分も違うのだから。そこがお嬢の良いところでもあるのだが。
膝を抱えて丸くなるお嬢から視線を外し、雨に煙る窟の外を眺める。
「そうですか……」
ボタンに指をかけていた手を下ろし、あぐらをかく膝の上に手持無沙汰になった手を置いた。
雨脚はいまだ弱まりそうにない。この雨はいつ止むのだろう。空は暗いというほどではないから、まだ望みはあるのだろうが。
特にすることもないので、ザーザーと降りしきる雨の線を目でなぞる。
が、幾筋もの白線は何度も目で追えるものでもなく。何往復も出来ないと早々に諦め、ただ定点だけを見つめ続けた。
そんな折――
「……やっぱり、寒いから。背中あっためて……」
ぼそりと呟かれたお嬢の言葉。振り向くと、相変わらず膝に顎を乗せる姿勢は変わらない。だが、その耳が赤くなっていることに気付いた。
まさか風邪でもひいたのか。そんな心配が真っ先に脳裏を掠め、不安が口を突いて出る。
「お嬢、大丈夫ですか? あの、俺はどうすれば……?」
「そ、そんなの、自分で考えなさいよっ」
俺の視線から逃れるように、ぷいっと洞窟の壁へ顔を背けるお嬢。
風邪ならば、これ以上酷くなる前に体を温めなければいけない。でもどうすればいいのだろう。さすがに抱きしめるのはいけない気がするし。背中を手でさするか? いや、それだけでは心許ない。それとも温かい息を吐き続ければ少しはよくなるだろうか? しかしそれでは俺の肺活量がもたない気がする。
いったいどうすれば……。
戸惑いまごついていると。お嬢は着ていたジャケットを急に脱いで、膝の上にかけた。
少しだけ座る位置を前へずらして、
「……背中、寒いから…………」
これなら分かるでしょ? そう言わんばかりに気忙しそうにむっと眉根を寄せるお嬢。青い瞳がわずかに潤んでいるように見えた。頬も上気して、まるで湯上りのようだ。
そこまでされて分からないほど馬鹿じゃない。主人がいいと言っているのだし、やはり温めるにはそれしかないだろう。
立ち上がり、「じゃあ、失礼します」そう断って、無言で頷いたお嬢の後ろに腰を下ろした。
ちょうど脚の間にお嬢が収まっている感じで、こうして密着するのは初めてなせいかなんだか妙に緊張する。
その時。お嬢が寄りかかり俺の胸へ完全に背中を預けてきた。お嬢の銀糸のように綺麗な髪が、目の前で束となって重たく揺れた。ふわりと香った髪の匂いに、心が故郷を思うような懐かしさと安らぎを覚える。
「こうした方が、アンタもあったかいでしょ。……ぎゅってしても、いいから……」
「いや、でもさすがにそこまでは――」
「前にベティもしたことあるから、大丈夫よ」
「ベアトリスはそんなことしてたんですか。うらやまけしからんですねっ!」
「だから今日はシアンも、……ね?」
気を許した猫みたいに力を抜いて、頭まで楽にもたれかかってきたお嬢。濡れた冷たい髪が肩口から下に触れ、俺のシャツをさらに濡らしていく。だが、キャミソール越しのお嬢の体温が温かく、それが寒さを忘れるくらいに俺を温めてくれる。緊張なのか嬉しさなのか。落ち着いたはずの心臓は再び高鳴りはじめ、なぜか涙が出そうになってきた。
「じゃあ今日だけ、失礼して」
「……うん」
また一つ断って、お嬢の腰辺りに腕を回させてもらった。言われたとおりにぎゅっとする。
「ん……」とくすぐったそうに一瞬身を捩ったお嬢。決して細すぎることのない華奢な体。
熱があるせいか、腕を通して伝わる体温も少し高く感じられる。先ほどは重たいと思った花園の香りは雨天にもかかわらず、今度は香りたつ日向の匂いに感じられた。
俺の大好きな、お嬢の匂いだ。
「お嬢。こうしていると、なんだか落ち着きますね」
「そう、かな」
「落ち着きませんか?」
「わかんない。……でも、あったかいわ」
互いの吐息が感じられるほどの距離。雨音と、呼吸。まるで二人の存在が世界から切り取られたような、静かで親密なひと時だった。
――ずっとこの時間が続いてくれれば……。
そこまで考えて俺は瞼を閉じた。その先の言葉を黒く塗りつぶすように。使用人がそんなことを望んではいけない。
雨音に耳を傾け、思考を止めようとしたのだが。耳の側で聞こえる穏やかな吐息に、どうあっても止められそうになかった。
今だけは――。
不意に心臓をやわらかく掴まれるような痛みを覚え、反射的にお嬢の体をより強く抱きしめてしまう。どこへも行ってほしくはないと、心が叫ぶように。
「ふふっ、ちょっとくすぐったいわよ」
腕の中で軽く体を揺すったお嬢がこそばゆそうに笑う。
今だけは、時間を忘れて幸せを抱きしめよう。今しか出来ないことだから、してはいけないことだから。雨音が続く間だけ。
そう思う気持ちがすでにおこがましいことだが、お嬢の温もりの前では霞んでしまいそうになる。まるで桜を覆い隠す、花霞のように――。
天気というのは意地の悪いものだ。
降るなと思えば雨を降らし、止むなと思えば降り止ませる。本当に、空気を読めないやつだ。
お嬢が言った通り、この雨は通り雨だったらしく。洞窟へ逃げ込んでわずか十五分足らずですっかりと止んでしまった。
薄い灰色の雲間からは、すでに幾筋かの陽光が差し込んでいるのが見える。
窟の外へ出ると、木々と腐葉土のにおいが濃さを増し、色めくように山の緑も生き生きとして見えた。
お嬢との優しい時間が終わってしまったのは残念ではあるが、俺には過ぎた時間だった。これでよかったのだと気持ちを入れ直す。
「どうしますお嬢、上まで行きますか? それとも引き返しますか?」
「ここまで来たんだから登るに決まってるでしょ。それに、今なら虹が見られるかもしれないわよ?」
「お嬢と虹ですか! それは楽しみですね」
「じゃあ決まりっ、早く行きましょ!」
晴れたことで元気を取り戻したのか、普段と変わらない様子のお嬢に安心した。
俺のジャケットを羽織って、無邪気に山道を駆け上っていくお嬢の後を追いかける。
結局三分ともたずに歩くことになったお嬢。「危ないし、やっぱり歩いていこうかしら」少し息を切らしながら見栄を張る姿が微笑ましい。だが、疲れたとは一言も口にしなかった。
階段を一段一段しっかりと踏みしめて、歩くことおよそ三十分。
視界が一気に開け、頂上へと躍り出る。ここへ来るまでの間に、雲もずいぶんと払われたようで。先ほどよりも増えた光の筋が明るく地上を照らしていた。
湖側に張り出す半円形の展望台には長椅子や望遠鏡が置かれている。今日は雨が降ることを分かっていたからか、人っ子一人姿が見当たらない。完全に貸し切り状態だ。
「シアン、早くっ!」
そう声をあげたお嬢は、柵の方まで一気に駆けていく。踏まれた水溜まりが楽しそうに跳ねた。
勢いあまって前のめりに手すりへ掴まって――そして望んだ景色に「うわぁ……!」と感嘆の息を漏らしたのだ。
俺は少しだけ早歩きでお嬢の元まで歩く。一歩引いた場所で立ち止まり同じく湖を見下ろす。
展望する光景に、ハッと思わず息をのむ。
そこには。群青に映る灰色の雲と陽の光を浴びて煌めく水面、そして湖面から伸びる七色の橋が空へ向かって綺麗なアーチを描いているのが見えたのだ。まるで祝福するように、天使の梯子もさらに増え始めた。
「綺麗ねー。ここから見る景色って大好き」
少しだけ肌寒く感じるそよ風に、お嬢の銀髪がなびく。乱れる髪を撫でつけ押さえながら、お嬢が俺に振り返った。
「はい。本当に、綺麗ですね……」
微笑むお嬢にそんな言葉しか返せないほど、心は感動に打ち震えていた。
お嬢と二人で来られたこと。二人でこの景色を見られたこと。
お嬢を抱きしめられたことの幸せと、優しい時間の数々に。
しかし同時に、心はどうしようもないくらいの不安と切なさも感じるのだ。
「でも、」俺は小さく呟く。あふれ出そうな思いはせき止められず、「――こうしてお嬢と二人でこの景色を見られるのは、あと何回あるんですかね」
寂寥とした感情が言葉となって口をついて出てしまった。
見上げてくるお嬢に目を向けると、「なにを言っているの?」とも「どういう意味?」とも取れるような複雑な表情を浮かべていた。
「あと何回って。……来ようと思えば、何回でも来られるじゃない」
今生の別れを危惧し不安がるように眉をひそめるお嬢に、そういう意味ではないのだと首を振る。心臓を掴まれるような息苦しさを押し殺して、心静かに告げる。
「お嬢にも好きな人が出来たり、いつか婚約したりするでしょう。その時には、お嬢の隣にはその男がいて。きっと俺とこうして二人でなんて来なくなりますよ。もちろん、執事として俺はお供をするつもりですけど」
そうしたら、そんな時が来たら。俺はその男にも仕えることになるのか。いまの幸せを想ったら考えたくはないが、いつかは訪れる必然なのだ。いまの内から覚悟はしておかなければならないだろう。
いまを大切にするために、俺はいま一度湖に目を向けた。お嬢の視線から逃れるように。
涼しい風が吹き、波紋を広げた湖面の煌めきに目を細める。その時、
「……なに、それ。どうしてアンタにそんなこと言われなくちゃいけないわけ。……余計なお世話だわ」
「お嬢? 俺が執事じゃ心許ないですか?」
「そうじゃないッ、そうじゃ、ないけど……」
強く言葉にしかけて、膨らみかけた風船が萎むみたいに尻すぼみに口調が弱まっていく。感情のやり場に困るように俯いて、お嬢は表情に影を落とした。
「……シアンは、それでいいの?」
ぽつりと尋ねてきた声には元気がない。視線をそらして、ジャケットの裾をぎゅっと握りしめている。その手が震えているのは寒いからではないようだった。
理由などは分からない。だが、どこか悔しそうにも見えた。それでも、俺にはどうすることも出来ないことなのだ。
俺の口は当たり前のことを言うために、再び開かれる。
「いいもなにも、俺はお嬢の執事なので。傍にはいますから安心してください。あ、追い出されない限りはですけどね」
少しだけふざけてみせたが、くすりとも笑ってはくれなかった。
表情をかげらせていたお嬢は握っていた裾から手を離し、だらりと力なく腕を下ろす。
「そう……」
目を伏せてそれだけを呟いて、俯いたまま俺の脇を通り過ぎた。
「お嬢、もう帰るんですか?」
声をかけ、その背を追いかけようと一歩踏み出したところ――
「ついてこないでっ!」
と強く拒絶されてしまったのだ。あまりにも珍しいことに驚きビクッと肩が跳ね上がる。踏み出したままで固まった足はそれ以上前へ出すことが出来ずに、
「わたしなら大丈夫だから……一人で、帰れるから……」
背中越しに弱々しく呟いて去っていくお嬢の後姿を、ただ見つめていることしか出来なかった。階段を下りていくお嬢の横顔は悲しげで、目尻に涙が光っているようにも見えた。
お嬢のいなくなった展望台。階段をじっと見ていても、お嬢が再び上がってくることはない。
この世界に俺一人だけが取り残されたような孤独感が、心の中へスーッと隙間風のように忍び込んできた。
綺麗だったはずの景色もいまは悲しく映り、去り際のお嬢の顔が重なって切なくなった。
別荘へ戻った後。お嬢は俺と一言も口を利いてはくれなかった。
当初は夜には帰る予定をしていたのだが。部屋にこもったままのお嬢は返事すらしてくれないため、結局夜を明かすことになったのだ。
ちなみに夕食はちゃんと食べてくれた。歩き疲れてお腹は減っていたのだろう。
買出しに出て、お嬢の好物を作って喜んでもらおうと思ったのだが。
好きだったはずのクリームコロッケを口にしても、お嬢が微笑んでくれることはなく。ただ気まずさを押し固めたような重たい空気が、リビングに深く深く沈み込んでいた。
お風呂の準備が出来たと伝えても、ただ無言で俺の横を通り過ぎ、「おやすみなさい」と挨拶をしても「おやすみ」とは返ってこなかった。
なぜ機嫌が悪くなったのだろう。どうして怒っているのだろう。疑問は言葉にすることが出来ずに、ただ折り重なって胸が圧迫されるみたいに苦しくなった。
入浴を済ませた後、毎日の日課の日記を書くために部屋の机へ向かう。
館から持ってきた『お嬢の日常絵日記』
湖畔の景色が好きなお嬢が突然一泊したいと言い出さないとも限らないため、念のために一応忍ばせておいて正解だった。卓上ライトに照らされた表紙を撫で、おもむろにページを繰る。白紙の日付欄に四月二十五日と書き込んで、俺は色鉛筆を走らせた。
灰色の雲に覆われた空。その向こうには確かに青空と太陽があるはずなのに、陽が差し込むことはない。そんな曇天を見上げる黒い犬の背中がひどく侘しく、また物悲しげだった。
案の定。この日の日記はお嬢のことというよりも、いまの自分の気持ちを表したような絵になったのだ。
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