/シエル -3
お風呂から上がると、ベティは毎日わたしの髪を乾かしてお手入れをしてくれる。髪が痛まないように念入りに。
いつもなら、わたしの背後でなぜか興奮しているんだけど。今夜はどこか様子が違っていた。
大人しい。息遣いも平常だし、壁で揺れている影も変に上下動してないし。ブラシを動かす手だって滑らかで違和感がない。そのことが少し気になって尋ねる。
「ベティ、どうかしたの?」
「私はどうもしませんよ。お嬢様こそ、どうかされたのですか?」
声からは別段おかしな感じはしない。けれど問題があったとしてもベティなら、わたしに心配をかけさせまいとして平静を装うはず。そしてそれを聞いても、決して口を割らない。
いつかベティが風邪をひいたことがある。滅多なことでは病気なんてしたことがなかった彼女だった。本人はいたって普段通りにしていたし、咳をしたり声が変わったり辛そうだったり、そういった症状らしいものが表に出ていなかったから、てっきり元気なんだと思ってた。
でも本当は風邪をひいていて。変に我慢していたせいかこじらせて治るのに五日もかかった。
なんで言わないのかって聞いたら、案の定わたしに心配させたくないからだって。
そのことがあってから、「そんなこと気にしなくていいから、何かあったらちゃんと話して」と注意すると、「分かりました」って答えてくれたのに。
病気ではないから言う必要がないと思っているのかな。約束したこととは違うからって。心配かけさせまいとする姿勢が逆に心配させていることに、気付かないベティじゃないと思うんだけど。
「お嬢様?」
心配しているのはわたしなのに、逆に気遣うような声をかけられてハッとする。
考え事をしていたらダメだ。いまはいつもみたいにおしゃべりしないと。
「……そういえば。ベティが実家に帰るのっていつ以来なの?」
「実家には一昨年の夏に一度だけ帰ったきりですから、もう二年近くになります」
「それはあの両親も心配してるでしょうね」
「ええ。心配しなくても大丈夫と言っても、やはり親なのでしょうか。元気にしているか、楽しくやっているかと無駄に気を揉んでいるみたいで」
仕方なさそうにくすりと笑うベティ。その様子からは特に不安は感じられなかった。
「ところで、ジャンヌは元気にしてる?」
「ええ、父と毎日なにかしら楽しくやっていると手紙にありました」
どうやら心配事は両親に関することじゃなさそう。そういえば、父が心配していると母から手紙が来たって言っていたっけ。
それにしても、ベティの母親か……。
「わたしあんまり覚えてないけど、ちょっと怖かったのだけは覚えてるわ」
「そのことに関しては本当に申し訳ありません。母もあれはあれで反省していますので」
「ううん、大丈夫。別に怒ってるわけじゃないから。それにそのおかげ、って言っていいのか分からないけど。こうしてベティと出会えたんだしね」
「お嬢様……」
どこか染み入るような吐息に乗せてベティが呟いた。
髪を梳かす手が急に止まったので気になって振り返る。すると、瞳を潤ませていまにも泣き出しそうな彼女の目と目が合った。
光量を落とした照明の中でも、はっきりと分かるくらいに頬を紅潮させている。まるでお母さんを見つけた幼子のように在り方が小さく思えた。
「ベティ、どうしたの? ――っ」
問いかけた瞬間、そんな表情を隠すように、わたしの首元へ顔を埋めて急に抱きしめてきた。
背中に回された腕にきゅっと優しく力が込められる。鎖骨を撫でる吐息がくすぐったい。
一瞬のことで唖然とし、つい反応が遅れてしまった。
「……ベティ?」
「お嬢様。ぎゅってしても、いいですか?」
「もうしてるけど? ……でもしょうがないから、許してあげるわ」
「ありがとうございます。これから土曜日まで、お嬢様の匂いを毎日蓄えていきますから」
「蓄えられるものでもないと思うんだけど……」
「いいえ、いいえお嬢様! 私、意地でも貯蓄していきますから、二日分!」
「そ、そう?」
どうして急に元気になったのか分からないけど。でも、ベティの調子が戻ってよかった。
やっぱり、いつものちょっとおかしいメイドさんじゃないと、わたしも調子が狂うから。世間がどうかは知らないけれど、これがわたしの日常だからね。
しょうがないついでに優しく髪を撫でてあげると、くすぐったそうに身を捩る。首筋にじかに触れるベティの顔はじゃっかん熱を持っていた。
「お嬢様。私、決心いたしましたので。だから心配しないでくださいね!」
顔を上げ、そう言って見つめてきたベティの表情は真剣そのものだ。
なにを決意したのだろう。尋ねても「それは秘密です」とはぐらかされるだけだった。
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