/シアン -5

 町の大通りでベアトリスと別れてから、俺は一人でアーケードを歩いた。

 もちろん目的は、個人的なお嬢の誕生日プレゼントをどうするか、これを決めるためだ。

 今年はぬいぐるみにしようと思っていたが、それはみんなからということで白紙に戻ったために考え直す必要がある。

 毎年ガラス細工では飽きてしまうのではないか。そんな不安から別の物を用意しようと思うのだが。結局、この日はプレゼントが決まらなかった。

 まだお嬢の誕生日までは少し時間がある。しばらくはここへ通う日々になるだろう。


 陽も傾き始めたので、夕方のお散歩に遅れないよう俺は帰ることにした。

 館へ戻ると、シューズクロークにはすでにお嬢のパンプスがあった。

 主人が帰っている、それだけで館は息を吹き返したように生き生きとして感じる。いい匂いがするのもきっと気のせいじゃない。

 帰って早々ではあるが、お嬢を散歩に誘うために部屋へと向かった。

 二階南側にあるお嬢の部屋へと続く廊下を行く。橙色に染められる回廊が輝いて見えるのは、きっと俺の前途を祝福してくれているからに違いない。

 足取り軽くやがてたどり着いたその部屋は、ほんのわずかにドアが開いていた。普段はちゃんと閉めているのに珍しい。

 隙間からかすかに漏れてくるお嬢の優しい匂いに癒されながら、俺はドアを二度ノックする。


「お嬢、シアンです。今いいですか?」

「……うん。わたしも話があったからちょうどよかったわ。入って」


 まず、わずかな間が気になった。そして声のトーンがじゃっかん低いこと。

 これは怒っているのか? なぜと小首を傾げ、「失礼します」と断って部屋へと入る。

 案の定、お嬢は椅子に足を組んで座り、小難しそうな皺を眉間に刻んでいた。厳然にがっちりと組まれた腕が頑なさをより感じさせ、なにを怒られるのかと不安な気持ちにさせる。


「シアン、ちょっとここに座りなさい」


 お嬢が自分の足元をチョイチョイと示したので、「はい!」と元気よく返事をし、小走りに駆けて滑り込むように正座した。

 怒られるかもしれないというのになぜ胸が高鳴るのか。それはお嬢がこんなにも至近距離にいるせいだろう。近くから俺を見て、声をかけてくれる。それだけでやはり幸せなのだと思う。 養成学校時代も何度か教師に怒られたことはあるが、ひどくつまらなかったからな。

 それを思うと、やはりお嬢は素晴らしい。

 見下ろしてくる綺麗な顔を見上げ、話とは? そう問う視線を向ける。

 するとお嬢はかすかに頬を赤くして、さっと目をそらした。


「っ……アンタたち、本当に仲がいいわよね。……デキてるの?」

「……はい?」

「それにいろんな女の人と楽しそうにおしゃべりなんかしちゃってさ」

「お嬢? それは何の話をしているんです?」

「……今日偶然、ほんと偶然に見かけたのよ。町でアンタがベティといるところとか、何人もの女性と話してるところとか。まあ、飼い犬が何しようが誰に欲情してハァハァしようがわたしにはぜんぜん関係ないんだけどねっ」


 間断なく告げてなぜか不愉快そうにそっぽを向くお嬢。ふん、と鼻を鳴らすと、窓の外へ睨みを飛ばす。

 殺気でも感じたのだろう。バルコニーの手すりで休んでいた小鳥が、慌て驚いたように飛び去っていった。

 ベアトリスと一緒にいたのは誕生日プレゼントを選んでいたからで。女性と話していたのはお嬢にどうかと商品を薦められていたからだ。

 だが言いわけじみているし、プレゼントのことなど言えないだろう。サプライズだから喜びもひとしおなのだから。それにこういう時のお嬢は、昔から誰とも取り合わない。どうしていきなり不機嫌メーターが振り切れたのか。

 しかしそんな疑問よりもまず先に、俺はあるワードが引っかかった。

 駄目でもともと、問いかけてみる。


「愛犬ですか?」

「……はぁ?」


 一拍遅れてお嬢の声が返ってくる。その表情はまるで、いきなり猫が二足で歩き出したのを目撃してしまったようなぽかん顔だ。

 そこまで機嫌が悪くはないのだろうか。まだまだ観察不足だな。

 ならばこそ、改めて俺は質問を重ねた。


「俺は愛犬ですか? それとも家畜ですか?」

「いきなりなんの話よ」

「いえ、今しがた“飼い犬”と言っていたので気になって」


 お嬢の瞳の奥を見つめていると、じっと見つめ返された。

 綺麗な青い瞳。時にまん丸く、時に冷たく、時に優しい大好きなお嬢の瞳。

 その眼差しがいま自分にだけ注がれているのだと思うと、ポッと顔が熱くなる。


「気持ち悪いわね。このキモ犬」

「き、キモ犬?」


 愛犬でも家畜でもなく、キモ犬とはなんという……。


「そうよ。まあ、キモ犬がイヤなら駄犬ね。慇懃無礼なダメ執事。従順なのは認めるわ。けど、やることなすこと不義不忠でしょ」

「不義不忠、ですか。忠義忠誠忠心の塊だと思うのですが……」

「主人のパンツをコサージュにする執事が、いったいどこの世界にいるっていうのよっ」

「はい、目の前に」


 ガス! お嬢の無言のトゥキックが膝を抉り込んできた。つい涙目でさする。

 見上げると、お嬢は頭痛を煩うようにこめかみに手をやり頭を振る。立ち上がり、部屋を出て行こうとするその背中を見つめた。

 今日は二回のはずなのだ。散歩に行くと言ってはくれないのだろうか。

 しかし足の運びが普段通りなのを見て諦めかけた、その時。扉の前で急に立ち止まり、お嬢はわずかにこちらを振り返って――


「ま、まあ、アンタが愛犬がいいっていうなら……別に愛犬でも、いいんだけど……」


 むーっと小さく唸り、それだけ言い残して部屋を出て行った。

 ほんの少しだけ頬を染めた、少女然としたお嬢の横顔が印象的だった。

 突然のデレに呆気に取られ、まるで俺時間は針を止めたように、しばらくその場で呆然としてしまう。

 お嬢が居てくれる。それだけですでにこの上ないご褒美だが。

 こういった意外なご褒美も、時にはいいかもしれない。



 結局、この日のお散歩は流れてしまった。残念ではあるが、なにも今日だけじゃない。またいずれお嬢と散歩できる日を楽しみにしていようと思う。

 一番最後に入浴を終えて風呂掃除を片づけた俺は、一日の締めくくりとしての作業をするため自室で机に向かっていた。

 ちなみにアッシュベリー家は使用人をただの小間使いではなく、大切にしてくれているからそれぞれにちゃんと部屋が用意されている。

 その点はフローレンス家も同じらしい。

 あまりないとは思うが、今でもひどい所じゃ屋根裏部屋が割り当てられている者もいると聞く。前時代的ではあるが、実際そういった話を聞いたことがある。

 それを考えると、俺たちは恵まれているなと思う。


「――さて、日記でもつけるか」


 改めて感謝しつつ引き出しを開け、中にしまってある大事な物を取り出して机上に置く。

 その表紙が淡い暖色の卓上ライトに照らされる。

 タイトル『お嬢の日常絵日記』

 これは俺がアッシュベリー家に仕えるようになった七歳の頃から、二十歳になった今までに書きに書き溜めているものだ。

 お嬢の性格、何に喜び何に怒り、何を楽しみ何に悲しんだのか。そしてその日にあった印象的な出来事、お嬢についての発見など。

 様々なお嬢情報が、三六五ページに亘るこの分厚い絵日記帳(十三札目)へ事細かに記されている。

 お嬢との日々の思い出を綴った、俺の宝物だ。


 おもむろに紙を繰り、真っ白なページに今日の日付をペンで書き込む。

 色鉛筆に持ち替えて、まず黒い犬の絵を描いて首にネームプレートを掛けた。なぜ黒犬なのかは、自分の髪も執事服も黒だからだ。もちろんプレートの名前は自分のもの。そしてリードを引くお嬢を可愛らしくデフォルメして描き、少し怒った表情で犬を叱り付ける構図。

 ふふふ、我ながら上手いものだな。手馴れてきたと言っても過言じゃない。七歳の頃の絵など見れたものじゃないが、年月は人を成長させるという実感が沸くというもの。


「ふんふーんふんふふーん」


 鼻歌なんかを口ずさみながら色塗りに徹していると、


「――絵日記、まだつけてたんですか」

「うおぉおおうっ!?」


 背後からの突然の声に、危うく椅子から転げ落ちそうになる。


「おっと」


 脇からぬっと伸びてきた白い手が、机の上で倒れそうになっていたコーヒーカップを支える。

 まるで霊現象かと思うような体験に心臓が驚き、ハラハラドキドキと鼓動を速めた。


「気をつけないと、大事な宝物が濡れますよ?」


 幸いカフェラテは少ししか入っていなかったのでよかったが。満たされていたらと思うとゾッとする。

 背後の人物に振り返ると、笑みを浮かべたベアトリスの姿がそこにあった。


「あ、ああ、ありがとう」

「なにか嬉しいことでもあったのですか?」

「……どうしてそう思うんだ?」

「だってシアンさんの顔ニヤついてますし、それに――」


 ベアトリスは開かれていた絵日記の犬を指さした。


「この犬、涎たらして笑ってますし」


 ………………。

 俺としたことが。

 これはお嬢の日常絵日記だ。そこに俺の感情が介入してはならないという不文律を、今まで守ってきたというのに。うっかり自分の心を絵にしたためてしまうとは……。

 それは偏に。あの時のお嬢の照れた顔と、最後の『愛犬でもいいけど』の破壊力が、遅延型のボディブローとしていまさら効いてきたということに他ならないだろう。


「まあ、そういうこともある……。っていうか、どうしてお前がここにいるんだ」

「扉が開いていたので。鼻歌も漏れてましたし。またシアンさんがお嬢様のショーツを盗んでハァハァしているのではないかと心配になり、私が見回りに来たんです」

「失礼な奴だな。俺はお嬢のパンツをコサージュにはすれど、性的興奮を覚えるためのオカズにしようなどという不義理はしない」

「主のパンツをコサージュにしている時点で、十分過ぎるほど不義理だと思いますけど」

「……お嬢と同じこと言うなよ。さては盗み聞きしてたな」

「世間一般から見てもそうです」


 ピシャリと言い切られげんなりしてしまう。執事がメイドに説教されるとはこれ如何に。


「でもそうですか。とどのつまりは身の程を弁えているというわけですね。そうであるならば、私も安心してお嬢様を任せられるというものです」

「ん? 何の話だ。まさかお前辞めるのか?」

「そんなはずないでしょう。私にとってお嬢様がいる場所こそがホームですので、家出なんてするわけがありません。とまあその話は後日にでも。それではシアンさん、おやすみなさい」


 丁寧にお辞儀をすると、踵を返してベアトリスは部屋を出ていった。

 俺しか見ていないのに、いつどこで見てもシャンとしている。

 メイドの鑑だなと思った。

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