/シアン -4
一日の仕事の終わりには、洒落たカフェで芳醇なカフェラテに癒されたい。そんな気分になる日もあるだろう。特に今日みたいな日には。
「つ、疲れた……」
いつものカフェのテラス席で、テーブルに突っ伏してそう呟いたのは俺ではない。
ぐったりとし、天板の表面が剥げるのではという程に、額を擦りつける男はセバスチャンだ。
「どうしたんだセバスチャン、やけに疲れているようだが」
「そういうお前はなんでケロリとしてやがるんだよ。リディにこき使われただろ? ジュースがないから買ってきてとか、漫画の新刊出るから買ってきてとか。部屋に飾る花が欲しいとか、絵を飾りたいから描いてとか。面白い話しろだの手品見せてだの」
平然としている俺をどこか恨みがましく上目で睨み、普段からよく耳にする言葉を羅列する。
どうしてそこまで疲れているのかは分からないが、少しだけ申し訳ない気持ちで口を開く。
「いや、お前が言っていたような無茶ぶりとかわがままだとかは一切なかったな。どちらかといえば、客人としてもてなされた感じだ。今みたいにお茶して、会話してな」
「それで?」
「それだけだが」
「ふざけんなよ。なんで俺とお前で待遇が違うんだよ。不公平だろ」
そんなことを言われても困るが。
しかしセバスチャンの疲弊の度合いが普通じゃない。気になって尋ねてみる。
「そういうお前はお嬢から無茶なことでもやらされたのか? うちのお嬢に限ってそんなことはないと思うが」
セバスチャンは上体を起こして椅子にかけ直す。すると今度は西日を眺め、遠く目を細めた。
「いや、シエル嬢は特に指示らしいことはしてこなかったんだけどな。問題はあのメイドだ」
「ベアトリスか?」
訊くと、頷くことも億劫なのか「ああ」とげんなりしてうな垂れる。
「あのメイド、めちゃくちゃ雑用ばっか押し付けるじゃねえか。風呂掃除に高い場所の掃除と窓拭き、家具の移動の手伝いに庭の芝の手入れ、そして花がら摘みなんて、基本的にメイドがやることだろ。言われるままにやらされてたけど、お前んとこ六人もメイドいるのになんで俺がやらなきゃならないんだよ。こんなことならリディの方がマシだ」
セバスチャンがやらされたという仕事内容を耳にして、拍子抜けし「なんだそんなことか」と思わず口をついて出てしまった。
「お前がベアトリスにやらされた仕事というのは、俺が普段からやっていることだ」
「マジか……お前そんな雑用ばかりやらされてんのかよ」
「それをお前にとやかく言われたくはないが。そこは意識の違いだな。今日初めてアッシュベリー家の執事を体験したお前にはキツイ仕事だったろうし、やらされたと感じても仕方ないことと理解は出来るが。俺は『やらされている』ではなく、お嬢のために『やっている』んだよ。そこには明確な差があるだろう?」
「言いたいことは理解できるけどよ」
「それにだ。俺たちは養成学校で『メイドがいない家に奉公することになっても、自分一人で出来るようにあらゆることを身に着ける』という教育方針の下で学び、卒業したわけだ。だからメイドが居ても、彼女たちが出来ない仕事を俺たちが受け持つのは当たり前のことだろう」
別に諭すつもりなどなかったが、どことなく説諭じみてしまったことに反省する。
言葉もなく、周囲の賑やかさと少しの沈黙が妙な対比となって、とても居心地が悪い。
湯気も出なくなったカップに目をやり、手持無沙汰に温くなったカフェラテを一口すする。
と、セバスチャンが小さく吐息をついた。
「まあそうだな。たしかにお前の言うことは最もだ。リディの相手ばかりしていたせいか、俺たち執事の基本的な在り方そのものを忘れかけてた。悪かったな」
「いや、俺の方こそ少し言い過ぎたかもしれん。すまん」
互いに頭を垂れて謝る。憂いは明日にまで残さないのが俺たちのルールだ。
「しっかし懐かしいな、養成学校とは」
「まだ卒業して二年だろう」
俺としても、お嬢と過ごす日々が眩しすぎて養成学校時代などすでに霞んでいるが。
懐かしくはあるなと一つ頷いたその時、セバスチャンがくすりと鼻を鳴らした。
「どうした、花粉にでもやられたのか?」
「いや、つい思い出してさ」
「そんなに愉快な思い出があの時代にあるのか? ある意味うらやましいな」
お嬢と離れなければならなかったあの三年間は、俺にとって半分以上が地獄だったが。
どうやらセバスチャンは割と楽しめていたらしい。
「なに言ってんだよ、お前が試験の日に毎度やらかしてたことだぜ」
「試験? 失礼なやつだな。俺が試験でなにをやらかすというのだ」
尋ねると、セバスチャンはその時の思い出を楽しそうに語った。
実際のシチュエーションで行われた家庭科の試験での話だ。メイドがいない家を想定して、主人は女性であるという設定がされていた。もちろん物干し場にある衣服は女性のもの。
洗濯物を取り込まなければならない状況で、女性用の下着にドギマギすることのないよう、免疫を付けておくことも実習から目的としている。
採点はもちろん取り込んだ洗濯物の畳み方からアイロンがけなど総合的に判断されるのだが。
「あの試験の時は決まって女性試験官だった気がするが。お前、毎度主人のパンツを胸ポケットに入れてただろ。初めこそみんな口開けて驚いてたけど、毎回やるもんだからいい笑い話になってたんだよ。試験官も呆れてたぜ」
「なにを笑うことがあるんだ。お嬢のパンツはハンカチだろう。常識だ」
「いや、世間じゃそれは非常識なんだよ。試験官にそう口答えして補習くらってたの忘れたのか? つうか前々から気になってたから聞くけど、そのポケットが歪なのはもしかして……」
そう言ってセバスチャンは俺の胸ポケットを指さし、確認するように訊いてきた。
「もちろんお嬢のパンツだ。本当はコサージュのように表に出ているはずだったのだが。外へ出る時には毎回ベアトリスに直されて困っているんだよ」
「お前まだそんなことしてたのか」
「忠義だからな」
当然のように即答した言葉に、セバスチャンは「やっぱ変わってるな」と返す。アイスコーヒーで口を湿らすと、「ところでさ、」と遠慮がちに切り出した。
「リディの様子はどうだったんだ?」
「どうとは?」
「いや、まあなんつうか。お喋りしてたんだろ? なに話したんだよ」
俺の顔を見ることもなく通りに目をやるセバスチャン。
涼しい顔は一見そっけないようにも映るが、人差し指でテーブルを叩く打音が少々乱れているところから動揺が窺える。
なんだかんだ言って、リディ嬢のことが気になっているのだな。そうとは指摘せずに答える。
「リディ嬢とは主に、世間話や学校でのお嬢のこと、それと俺の昔の話なんかをしたな」
「それだけか?」
「それだけじゃ駄目なのか?」
「いや、別に駄目じゃねえけど……」
どこか怪訝そうな、納得いかなそうな微妙な顔をしてもう一口コーヒーを含む。
俺も特に意地悪するつもりはないから、もったいぶるのはやめておこう。
「まあそれだけじゃなかったが。ついでだから教えておこう。リディ嬢はずいぶんとお前のことも聞いてきたぞ」
「そうなのか? ――で?」
「だから覚えている範囲で学生時代の話をしておいた。例えば、入寮初日の夜に寝小便をしたとか、寝ぼけて一階と間違えて三階の窓から飛び降りようとしたとか、それを助けようとしたらパンツを引っ張ってしまい、お前はしばらくいろいろ丸出しでぶら下がっていたとかな」
「おいふざけんなよ! 俺の痴態ばっかじゃねえかよ! もっとカッコイイところとか気の利いてるところとか、他にも話すとこあっただろ!」
「そんなところあったか?」
「例えばお前が寮から脱走しようとしてる時に、教師にバレそうになってたのを俺が足止めして時間稼がせたりとか、厳しい規則の中でも誕生日を盛大に祝ってやったこともあったろ?」
そう言われてみれば、そんなこともあった気がする。
だがここで残念なお知らせだ。
「しかし、リディ嬢はお前の面白い話を聞きたがっていたからな。もとよりそんな話は頭に浮かんで来なかったんだよ」
「クソッ、こんなことなら聞くんじゃなかったぜ。つうかリディに弱み握らせちまったじゃねえか、どうしてくれるんだよ!」
凄い剣幕で抗議してくるセバスチャン。
聞いてきたのは向こうなのに、ずいぶんと身勝手な言い分だな。というか、もうリディ嬢は知ってしまっているから、どのみち聞いても聞かなくても一緒な気がするが。
羞恥心を誤魔化すようにコーヒーを一気に飲み干して、セバスチャンは一息ついた。
「……俺の痴態を口走ったような奴に教えるのは癪だが。俺もついでに教えておいてやるよ」
「なんだ?」
「シエル嬢な、気付かずに俺のこと五回「シアン」って呼んでたぜ。さすがに五回はないなと思って訂正したら、「ごめんなさい」って謝られた。いや、謝られてもって感じで気まずかったな」
「お嬢がそんなことを……」
「お前、ずいぶん気に入られてるんだな」
「そういうお前こそ。個人的な話を聞かれるということは、それなりに想われているってことだろう?」
「そうなのかねー」
うなじの辺りをくすぐったそうに掻きながらセバスチャンが急に立ち上がる。
そして懐から財布を取り出すと、二人分のコーヒー代をテーブルに置いた。
「おごってもらう理由はないが?」
「いいからおごらせろ。あ、別に機嫌がいいとかそんなわけじゃねえから勘違いすんなよ」
夕映えに照らされるセバスチャンの耳が、じゃっかん赤いように見える。
なるほど、言葉の裏返しというやつか。素直に喜べばいいものを。
「しかし、リディの気まぐれのせいでえらい一日だったぜ」
「だが、互いに主人の一面が知れた。今となっては、俺はいい機会だったと思うが」
俺も立ち上がり、夕間暮れの空へ目を向ける。
「……ま、そうだな。そういうこともある」
並び立ち、肩を組んできたセバスチャンにニッと笑って返事とした。
視線の先では、暮れかかっている太陽が空に橙赤の残光を刻んでいる。『今日も一日お疲れ様』そう言われている気がした。
一日の仕事の終わりには、洒落たカフェで友人と語り合いたい。そんな気分になる日もあるだろう。特に今日みたいな特殊な日には。
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