/ベアトリス -2
「――本日は、大変お世話になりました。それでは、失礼いたします」
そう挨拶し、丁寧なお辞儀をして玄関から歩き去っていく茶髪の男、名はセバスチャン。
執事を一日交換するという珍妙なイベントで、シアンさんの交換相手となったフローレンス家の可哀そうな羊です。いえ執事です。
時刻は午後五時。お嬢様たちが定時としてあらかじめ決めていた時間となったので、彼はお勤めを終えて今しがた帰っていきました。
今日の目的は、どうやら互いの執事の良いところを見つけることにあったようですので。私としては、アッシュベリー家の仕事を通してそれを見極めようという思いが大きく、少々やり過ぎてしまったかもと思わなくもないですが。
彼がくたびれた顔をしていたのは、きっと気のせいでしょう。スーツのシワがいささか目立っていたのも、きっと気のせいですね。
「ふう」と思わずついてしまったため息に、私自身、いくらかの緊張はしていたのだといまさらながらに感じました。お嬢様のメイドともあろう者が情けない。
お嬢様に聞かれはしなかっただろうか。そんな心配をしながらその背に目を向けると。
玄関のドアが閉まっても、その場から動こうとしないお嬢様の姿がありました。物寂しそうな背中に多少の気がかりを覚えながらも私は尋ねます。
「お嬢様、セバスチャンはいかがでしたか?」
「………………」
別段普段と変わりないトーンで声にしたのですが、言葉をかけてもお嬢様からの反応がありません。
「お嬢様?」
「えっ、なに?」
ぴくっと肩を跳ねさせると、居眠りから覚めたような顔をして振り返りました。
今にも抱きしめたくなるようなあまりの愛らしさに、体が弛緩するどころか涙腺までも緩みそうになる衝動をグッと堪えます。
「こほん。……セバスチャンの仕事ぶり、今日一日見ていていかがでしたか?」
「あ、ああ、その話ね。そうね、執事としてちゃんとやっていたと思うわ。っていうか、それはわたしがベティに聞くべきじゃない? ずいぶん無理させていたみたいだけど……」
「そうですか? ですが、今日セバスチャンにやってもらったお仕事は、普段シアンさんが行う基本的なお仕事ですよ」
「え、そうなの?」
「はい」
お風呂掃除、高い場所のお掃除と窓拭き、メイドが各部屋を掃除する際の重たい家具の移動のお手伝い、庭の芝のお手入れなど。
シアンさんはこれらを基本として、一日仕事をしているのです。といっても、今日初めてやってきたばかりの者にこの仕事量は少し大変かもしれませんが。
師匠がやれていたことならと、シアンさんは七つの頃から少しずつ慣れていって今に至るわけですからね。いきなりこなせと言われても難しいかもしれません。
ですが、セバスチャンは一日ですがやり遂げました。そこは執事として評価してもいいでしょう。優秀のハンコくらいは捺してあげられます。
「……わたし、そこまでしているなんて知らなかったわ」
「主人は知る必要のない裏方のお仕事ですから。それに、私たちはその仕事に誇りを持っていますので。お嬢様が必要以上にお気を回さずともよいのですよ」
俯くお嬢様の眉間に懊悩とは言わないまでも、悩ましげなシワが寄っているのが見えました。
私の大好きなご主人様は、こういったことに対して少し気にし過ぎるきらいがあるようです。
このまま玄関で悩ませていてはいけませんね。
お嬢様の髪が乱れているということにして、私は気付いたように「あっ」と声をあげました。
「お嬢様、御髪が乱れていますので直して差し上げます」
「えっ、どこ? 自分でするから教えて」
……いけません。あわよくば、自身の欲求を満たそうとしているのに教えてしまってはッ!
というか、嘘ですし。
「えっ、えーっと、後ろなので、やっぱり私が。さ、お部屋へ参りましょう」
「そう? 後ろならまあ、お願いしようかしら……」
「ええ、ええ! お任せください私にっ」
怪訝な顔も愛らしいお嬢様に伴って、そしてお嬢様のお部屋へとやってきました。お嬢様にはベッドの脇へ座ってもらいます。
私はというと。お嬢様を膝の上に乗せる形で、ちゃっかりお尻に下敷きにされています。蠱惑的なお嬢様のお尻のやわらかさと弾力に、膝と太ももが幸せ。
出来れば直に太ももで堪能したいところですが、さすがにスカートをたくし上げるわけにはいかず残念でなりません。
ですがこの状態なら、後ろから抱きしめてもなんら不自然ではありませんね。
それよりも、お、お嬢様の美しい銀髪が目の前に……。
「ででは、し、失礼いたします」
声の震えを抑えるのに精一杯でしたが、かろうじて堪えました。震える手もなんとか自制し、そしてお嬢様の髪に獣毛で出来たやわらかいヘアブラシを当てて通します。
乱れてなどいないため、すーっとなんの抵抗もなくブラシが滑りました。
瞬間、お嬢様の髪からふわりと立ち上った濃密な少女の香りが、私の鼻腔にダイレクトに飛び込んで来ました。
一二〇パーセント余すところなく堪能するため、これ以上ないくらいに鼻から大きく息を吸い込みます。
「すぅーーーー、んぅううううう――(んあぁあああーお嬢様いい匂いぃいいい! 脳汁溢れて止まらなぃいいい! このままお嬢様の髪に埋もれて窒息してしまいたいですぅううう。……はっ! ですが、死んでしまっては二度とこの幸せを享受出来なくなってしまうので、私は死にません絶対にッ!)はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……ッ」
「あ、あの、ベティ?」
「はぁ、はぁ――あ、はい、なんでしょうかお嬢様」
「息荒いけど、大丈夫?」
「え? ええ、ええ、大丈夫です。少し興奮してしまっただけなので。脳汁は出ましたけど涎は垂れていませんしまだ大丈夫です!」
いけませんいけません。お嬢様のメイドともあろう者が、涎を垂らしそうなだらしない顔を晒してしまうだなんて。お嬢様が背を向けていてくれて助かりました。ですが、もう少しお声をかけてくださるのが遅ければ危なかったですね。
危うく髪とブラウスを汚してしまうところでした。
「はぁ。なんでうちの使用人はおかしな人が多いのかしら……仕事は出来るのに……」
「それはお嬢様への愛ゆえに、ですよ」
「また訳のわからないこと言って。普段はクールでかっこいいのに、なんでわたしといる時だけ変態なの?」
「それは私のせいではありません。お嬢様が可愛すぎるのがいけないんですっ」
諦めたようにため息をつくお嬢様の背が少しだけ丸くなりました。そんな小さな背中がとても愛おしくなり、私はついつい遠慮がちに尋ねました。
「あの、お嬢様。……少しだけぎゅっとしても、いいですか?」
わずかに首だけで振り向いたお嬢様の空色の瞳が、一度二度と瞬きます。緊張しながら返答を待っていると「……しょうがないわね。少しだけよ」と言って、私に体を預けてくれました。
お嬢様の温かな体温と、軽くはないわずかな重みに確かな存在を感じ――そっと腕を回して抱きしめた瞬間に、ドクンとまるで二人の心臓が重なったように鼓動が大きくなりました。
「お嬢様。なんだかこうしていると、落ち着きますね」
「そうね、温かいわ」
私のときめいた想いなど知らず、お嬢様はそう言いました。
――ずっとこの時間が続けばいいのに。
安らぎと興奮の中、そう神にも願いたくなる幸せなひと時です。
形はどうであれ、お嬢様と出会わせてくれたことを、心より母にも感謝したいと思います。
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