第二話 シアンとわんこは俺のこと
/シアン -3
館で過ごす日々は、時間というものが正しく機能していないのではと疑ってしまうほど、あっという間に過ぎた。
それはお嬢と一緒に過ごす時間が楽しく、幸せに満ち溢れているからに他ならない。
俺がお嬢の執事である限り、その幸せは一日たりとて欠かすことなく享受できるものだろう。
そう思っていたのに……。
週末の土曜日。
俺は玄関で一人、高級カステラの手土産を片手に憮然と立ち尽くしていた。見様によっては今から旅にでも出るような雰囲気さえあるだろう、それも嫌々。
上がり框には、さほど名残惜しむ様子もないお嬢と、控えるようにしてベアトリスが立つ。
「じゃあシアン。別に心配はしてないけど、くれぐれもリディのお家に迷惑はかけないようにね。それと、アッシュベリー家の執事として恥ずかしくない仕事をしてくるのよ」
そう注意を促すお嬢の表情は、普段とぜんぜん変わらない。言葉通り心配している様子など微塵もなく、むしろ学校へ子供を送り出すくらい自然に振る舞っている。
「……というか、本当だったんですね」
「なにが?」
「俺とセバスチャンを交換する話ですよ!」
「何度もそう言ってきたじゃない。それにわたしが嘘を言うわけないでしょ」
「しかも土曜だなんて!」
「でもたったの一日だけじゃない」
たかが一日、されど一日なのだ。
養成学校から帰ってきて、ようやくお嬢との日常を取り戻した俺にとって、一日は千年にも等しいことをお嬢は分かってくれない。
土曜といえばお嬢の学校は休み。お散歩に出かけられるかもしれない貴重な一日を、よりにもよってあのセバスチャンと代わるとか……。
それに、今さら他人の家の執事を経験することへの緊張もある。正直、憂鬱だ。
「よそのお家の執事をする機会なんてそうないんだから、勉強だと思って楽しんできたら?」
「勉強を楽しめるような勤勉さは、養成学校時代に置いてきましたよ」
そんなものに楽しみを見出すより、今はもっとお嬢との日々を楽しむことに心を傾けたい。
お嬢との『いま』は、その瞬間にしかないのだから。
そんな切なる想いは、おこがましくも進言となって声に出た。
「……だったら、無事に終えたならばご褒美をください」
少しでもお嬢との時間をとの思いで口にしたのだが。
お嬢は二度三度と目を瞬かせると、なぜか飽きたようなため息をついた。
「はぁ。どいつもこいつも二言目にはご褒美って……。まあいいわよ、わたしも相談なしに決めちゃったし」
「やった!」
了解の返事をもらい一人浮かれ気分でいたところ、ベアトリスが隙間風のようにスーッと冷めた声を差し込んでくる。
「お嬢様、執事を甘やかしてはいけません。主人が使用人に気を遣うことなどないです」
「ベティ、そういうわけにもいかないでしょ。断りもなく土曜日って決めちゃったのはわたしだし。それに世間がどうなのかは知らないけど、わたしは世話をかけているみんなに、なるべくお返しして生きていきたいのよ。わたし一人じゃ、この館は回っていかないから」
「お嬢様……」
言葉に感じ入るベアトリスの呟きに、お嬢はやわらかく微笑んでから俺に向き直る。
きっと俺も同じ顔をしていたのだろう。それを目にしたお嬢が少しだけ仰け反った。
「……それで、シアンはなにが欲しいの?」
お嬢の綺麗な顔が俺だけを見つめ、キラキラとした眼差しが俺だけに注がれる。
ドキドキしながらも、少し遠慮がちに尋ねた。
「お嬢さえよければ、その……明日お散歩にでも行きませんか?」
「――えっ……それだけ?」
「駄目ですか?」
「いや、ダメじゃないけど……ほんとに?」
「はい! 出来れば朝と夕にでも」
「どうして二回なの?」
「朝は爽やかな空気の中をお嬢と散歩して、夕は焼けるように染まる町を高台から見たいなと思って。まだ一日に二回散歩に出かけたことがなかったので、これはチャンスだと」
「……あぁ、やっぱりそうなのかもね」
するとお嬢はどこか気の抜けたように微妙な顔をし、なにか納得するように呟いた。
それを見て、半分くらいは駄目だろうという思いが込み上げかかっていたが。
「いいわよ。お昼からちょっとリディと会う約束してたから、朝夕ならちょうどよかったわ」
お嬢と約束が交わされ、これからフローレンス家へ出向くという緊張すらも一瞬で吹き飛んだ。水を得た魚のように生き生きとして、「ありがとうございます! では行ってきます!」と時間も時間ということもあり、弾かれるように出立を告げて俺はドアを開け放つ。
「気をつけて行くのよ」
お嬢の送り出してくれた言葉に「はい!」と元気よく返事して、そして外へと駆け出した。
フローレンス邸は、アッシュベリー邸から歩いておよそ二十分ほどのところにある。
アッシュベリーほどではないにせよ、歴史も古い由緒ある旧家だ。そして町の地主の一つでもある。
事業としては植物園や果樹園、そして広大なぶどう畑などを所有している。そこで作られた果実をワイナリーで加工し、ワインやブランデー、それにシャンパンの製造販売も行う。
以前ワインを飲ませてもらったことがあるが、鼻に抜ける香りも味の深みも素晴らしかった、と思う。あまり酒は嗜まないから正直よく分からなかったが、飲みやすかったのは本当だ。
だが俺が判らなくとも、質に関しては文句はないのだろう。なにせ、アッシュベリー家が経営するリゾートホテルで提供されているくらいだから。
お嬢の母親であるコーネリア様が風味に惚れ込んで以後、ずっとフローレンスの酒を出し続けているのだ。
そんな奥様は六年前にラルフ様をご病気で亡くされてからというもの、娘を俺たち使用人に任せ、いまは一人社長として忙しなく世界を飛び回っている。
ここ数年は帰ってこられないほど落ち着かない生活だそうだ。たまに手紙がくるため、元気にしているとは思うが。
だから奥様が心配なされぬように、俺たちがお嬢を支えなくては!
そう気持ちを改めたところで、フローレンス邸の門扉が見えてきた。ワイナリーの所有者らしく、ぶどうの木を模った鉄門だ。
周囲を木々に囲まれているため景色との調和も良い。街の中にありながらも、まるで森の館のような印象を受ける。
俺は門壁に備えられているカメラ付きの呼出ボタンを、緊張しながらも押した。
しばらくし、『あっ! わん――じゃなかった。シアン君いらっしゃーい。いま開けるからちょっと待っててー』というリディ嬢の親しげな声がインターホン越しに聞こえる。
そして少しもしない内に自動で割り開かれた門から、俺は敷地へと足を踏み入れた。
『アッシュベリー家の執事として恥ずかしくない仕事をしてくるのよ』
胸ポケットに押し込まれたパンツとお嬢の言葉をいま一度胸に抱き、動物を模ったトピアリーが飾る芝の庭を奥へと進む。
二階の戸建てはアッシュベリー邸と変わらない。しかし年季の入った樹木のような茶色い壁肌は、白壁とはまったく印象が異なり渋く映る。館周辺の風景にとても良く似合い、これ以上ない趣を演出していた。
何度か訪れたことはあったが、こうして改まって来てみると館の雰囲気もずいぶんと変わって見える。身が引き締まる思いだ。
やがて玄関までやってくると、そこで一人の少女が待っていた。
「――ようこそ、フローレンス家へ!」
赤茶の髪が活発的な印象を与えるリディ嬢に迎えられ、そうして俺の『別のお家で一日執事体験』は始まったのだった――。
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