/シアン -2

 館を出た俺は、夕に染まる石畳を一人歩いていつものカフェへとやってきた。

 通りに面するテラス席をぐるりと囲う低い蜂蜜色のレンガ壁と、蔦の這う木組みがおしゃれな店だ。名を『パステル』という。

 ハチミツを使った優しい甘さの菓子が男女問わず人気で、新作ともなれば情報雑誌の一面を飾るほど毎回話題に上る。他には町の名にも入っているラスクがひっそりと有名だ。

 帰宅前に一杯引っかけようとする常連客で賑わう店のテラス席の一つに、手を上げてこちらへ挨拶する茶髪の男が座っていた。急ぐことなく普段通りの足並みで俺は席へ向かう。


「遅かったな、シアン。またお嬢様にこき使われてたのか?」

「なにを言っている。主人に使われるのが執事だろう」

「お前は相変わらず真面目だなー」

「お前は相変わらず不真面目だな。それに、お嬢はまだ帰ってきてないぞ」

「そういえばうちもまだだった」


 そう言って笑う男の名はセバスチャン。お嬢のご学友であるリディ・フローレンス嬢の家に奉公する執事だ。

 十五歳から三年間、執事を志す者ならば皆その学校へ入らなければならない全寮制の養成学校で、寝食を共にした同級生。三年間同じクラスで寮でも同室、もはや腐れ縁と呼ぶべき間柄。

 一見好青年そうに見えるが、ある点で問題なことも一つ。


「それで、電話してきてまで話したいこととはなんだ。また愚痴か?」


 席に腰を落ち着けて、どうせいつもの主人に対する文句だろうと思って尋ねた。


「違えよ、いつもはそうだけど今日だけは違え。……ニュースだ」


 テーブルに肘をつき、じゃっかん表情を凄ませるセバスチャン。その様子がいつもとは異なっていることに、愚痴ではない安心感と同時に少しの好奇心が芽生える。


「ニュース? 大して話題性もない話だろう。期待値を上げるようなこと言って大丈夫か?」

「話題性なら十二分だぜ。なにせ俺とお前が交換させられるって話らしいからな」

「意味が分からん……どういうことだ?」


 訊くとセバスチャンはウッドテーブルに置かれた携帯を操作し、こちらへ示した。

 メールの受信画面には『From リディ』とある。彼が仕える家のお嬢様だ。スクロールし現れた本文には、次のような文言が書かれていた。

『今週の土曜日、アッシュベリー家に執事として一日奉公に出ること。代わりにシエルんとこの執事にうちに来てもらうから、心配しないで遠慮せず行ってねー』


「――な? 本当だったろ」


 画面をオフにし放るように携帯をテーブルに置いたセバスチャンの表情は、なんとも例えようのない複雑な感情を滲ませていた。

 その気持ちを慮り、さりげなく声をかける。


「……愚痴りたいなら止めはしないが」

「気遣いありがとな。でもどうせ土曜にここで落ち合うだろ、そん時でいい。……はぁ」


 諦めたようなため息をこぼしたセバスチャンを横目にし、町の往来に目をやった。

 通りを行き交う人々は、何かに追われるようにせかせかと忙しなく帰途を急ぐ。そのせいか、町中を環状に走るビスケットのようなトラムでさえ、どことなくそのように見えた。


「皆、なにをあんなに急いでいるんだろうな」

「そりゃあ今夜雨が降るからだろ。って、雨雲近えな。原因はあれか」


 東の空を見た彼につられて顔を上げる。暗く重たい灰色の雲がまるで町に腕を伸ばすように低空を這っていた。

 館を出る前には、雨雲はまだずいぶんと向こうにあった気がしたが。機嫌が悪いのか、どうやら夜を待たずして降ることに決めたようだ。

 カサッという物音に視線を転ずると、セバスチャンが黒い雨傘を手にしていることに気付く。


「なんだ、お前傘を持参していたのか」

「念のためにな。そういうお前は手ぶらかよ。夜から雨だって予報でも、天候変化は用心するのが基本だろ。丘の町だぞ」

「いや、まさか雲がこんなに早足に来るとは思わなくてな。時間も時間だし、そんなに長々と話さないと思ったんだよ」


 言い訳を口にし、俺は左胸にそっと触れた。こんもりとジャケットを盛り上げる、窮屈そうに押し込まれたお嬢のパンツを思う。

 ……今から帰れば間に合うだろうか。


「シアン、お前さえよかったら傘、入ってくか? 相合傘を許容できるならだけどさ」

「その申し出はありがたいが、やめておく。男二人で相合傘とか。それ以前に、俺が相合傘をして差し上げるのはお嬢ただ一人だけだからな」

「そうか。しかしその傾倒っぷりには感服するなー」

「傾倒じゃない、忠誠だ」

「悪い悪い。でもまあ、今から帰れば降り始める前には家に着けるだろ」

「そうだな。早いとこ帰ることにしよう」

「ああ。じゃあ土曜日にな!」


 そう言って立ち上がり往来の中へ紛れていったセバスチャンを見送り、俺も帰路に就いた。

 ――館に着くまでは大丈夫。雨雲よ、泣かないでくれよ。

 そんな切実な思いを迷惑がっていると受け取られたか、雨雲の癇癪によって雨はもたらされてしまった。

 アッシュベリー邸まであと五分といったところだ。

 本降りゆえ裾の水はねも気にせず、石畳の水たまりを蹴って駆け足で急ぐ。水を吸った革靴がぐしょぐしょで気持ちが悪い。


 花時雨に煙る街並み、閑静な高級住宅街の通りの並木を次々追い越し奥へ奥へと突き進むと――やがて茶色いレンガ造りの背の高い門壁が見えてきた。開いていた鉄門を抜け、しばらく蛇行する通路を行く。

 表の庭はやはり館の顔。庭園と呼べるほど華やぐ色とりどりの草花たちが彩を添えている。

 しかしそんな植物たちもいまは雨露に濡れ、本来の美しさを潜め慎ましやかに頭を垂れていた。

 草花と雨のにおいに満ちる庭を抜けて、玄関前の円形噴水広場までやってくると、館の軒下に一つ人影があることに気付く。

 黒いお仕着せに白のエプロンドレス。雨の中にあっても目を引く金の髪を持つベアトリスだ。

 その理由はなんとなく予想出来るが、どことなく不機嫌そうな顔をしている。


「シアンさん、おかえりなさい」

「ああ、ただいま」

「……私は言いました。傘を持っていってはと。びしょびしょじゃないですか」


 チクチクと刺すようなお説教。苦手な理由の一つだ。

 お嬢のお説教は時にわくわくするのだが、なにが違うのだろう。なんてことを考えていたら、眉根を寄せたベアトリスに睨まれた。

 さらに小言をくらうかと思ったら、次には「はぁ」と馬鹿に呆れるようなため息をつかれる。


「そんな濡れ鼠で玄関を濡らされては困りますから、とりあえずこれで大まかにでも水気を拭いてください」

「悪い、今度から気を付けるよ」


 とりあえず謝って、差し出されたタオルを受け取り濡れたところを拭く。押さえつけるように衣服の水を吸わせたからか、タオルはずいぶんと重くなった。

 それでもずぶ濡れの体は拭いきれるわけもなく。裾から次々に水滴が垂れているのが分かる。


「風邪をひかれては困りますから、とにかく館へ入りましょう」


 肌寒さからか、ベアトリスの言葉もなんだか少し冷たく聞こえる。

 開けてくれたドアから中へ入ると、上がり框にお嬢が立っていた。その腕にはタオルが抱えられている。


「ちょっとずぶ濡れじゃない。なんで傘を持っていかなかったの?」

「……夜まで待ってくれるものと思ったので」

「雨が?」


 こくりと頷くと、髪から伝った雨水が目に入り頬を伝う。目元を拭おうと手をやろうとしたところ、「――ちょっと待って」とお嬢から制止された。


「あんまり擦るとまつ毛入っちゃうわよ。しょうがないから、わたしが拭いてあげる。だからじっとしてなさい」


 言いながらお嬢は俺の頭にタオルを被せる。身長差から拭きにくいだろうと思った俺は少しだけ膝を折る。屈んだことにより白いブラウスの胸元が近づき、ふわりとお嬢の匂いが甘く香った。それは雨天だからか、湿気のせいで濃密に感じられる。

 お嬢はタオルの端の方で優しく目元を拭うと、わしゃわしゃと頭を揉むようにして髪を拭く。

 主人になにをやらせているのだろう。普段ならそんな気持ちが先に来るはずが、今日ばかりは違っていた。なんだか心地好い。

 雨音がBGMとしてはいささか激しいところが残念だが……。

 安らぎのひと時に酔いしれようと瞼を閉じると、頬に触れたタオルにふと懐かしさを覚え――同時にハッとする。

 訊くならこのタイミングしかないと。


「――お嬢っ!」

「なに? もしかして痛かった? あんまり強くはしてないはずなんだけど」

「いいえお嬢は優しいです! じゃなくてですね。なにか思い出しませんか?」

「思い出すって、なにを?」


 手を止め俺の目を真っすぐに見つめるお嬢。外は雨だが、青空ならここにある。

 時も忘れて見惚れていたい衝動を抑え、もしかしたら、そんな思いで続けた。


「この状況ですよ! ほら、小さな頃に俺が濡れた時に、似たようなことがあったでしょう」

「子供の頃……。そんなことあったかしら? っていうかいつの話?」

「お嬢が四歳の頃です」

「そんな昔のこと覚えてるわけないじゃない」


 これでも思い出してもらえないとは。思い出の一方通行とはなんて残酷な……。

 膝から崩れ落ち、俺は上がり框に手をついてうな垂れた。


「ちょっと、じっとしてなさいって言ったでしょ。まだ拭き終わってないんだから」


 濡れた髪を拭こうとし屈んだお嬢を見上げる。またもあの時が脳裏にフラッシュバックした。

 もうこうなったらヤケクソだ。


「お嬢! 思い出してくれるまで黙っていようと思ったんですが、悔しいのでもう言うことにしますよ!」

「だから、思い出したら聞く必要ないでしょって。で、なんなの?」


 仕方なさそうに髪を拭く作業を再開したお嬢を見つめ――わしわしというくすぐったい音を聞きながら滔々と語る。


「ロジャーの養子として、俺がこの館に来て間もなくのことです――」


 あれは俺が七歳の頃だ。

『メイドはいるがお前もやれることを覚えた方がいい、執事になるならな』と養父から言われ、俺は洗濯物を干す仕事を任された。

 洗いざらしの洗濯物を入れたカゴは重く、子供の手にはずいぶんな肉体労働だった。それでも主人のために尽くすのが俺の役目と自分を奮い立たせ、無理しながらもなんとか物干し場まで運んだ。

 しかし蓄積した疲労のせいか、洗濯物を干す手に力が入らず、謝って洗濯ロープを引っ張ってしまった。まだ乾ききっていない洗濯物と一緒にカゴの中身をひっくり返し、それを被った俺は今日ほどではないが濡れてしまったのだ。


「そんな時です。庭で遊んでいたお嬢が「大丈夫?」と言って駆け寄ってきてくれて、今みたいに俺を拭こうとしてくれました。でもタオルはまだ生乾きで……。そしたら、無事だった物干しハンガーからお嬢が乾いていた自分のパンツを取ってきて、濡れた俺の顔を拭いてくれたんです。その時から、俺の中でお嬢のパンツはハンカチという認識が生まれ、同時にこの優しいご主人を支えようという忠誠心が芽生えたんですよ」


 鮮明に覚えている温かな思い出を伝え終え、ほっこりとして吐息をつく。

 いつの間にか髪を拭く手が止まっていることに気付き、俯くお嬢を覗き込む。

 すると顔を真っ赤にしながら「な、な、な――ッ」と言葉にならない声を漏らし唇を震わせていた。


「お嬢?」

「わ、わたしがそんなことするわけないじゃないっ。これは記憶の捏造よ!」

「違いますよ! たしかに起こった事実です! なんならあの頃に書いた絵日記でも見せましょうか?」

「うるさいっ、知らないっ、いらないっ!」


 ない三段活用、とはいかなかったが。急に立ち上がって、お嬢は恥ずかしそうに背を向けた。

 翻った紺のスカートから覗いた淡い青のパンツは、これまたお気に入りだった。シルクの手触りもさることながら、コサージュにすると黒いジャケットによく映えるからだ。

 が――いまの問題はそこじゃない。


「あのお嬢、まだ髪が濡れているんですが」

「自分で拭きなさいっ」


 そう強く言い置くと、お嬢は居たたまれない様子でそそくさと立ち去ってしまった。

 その姿が見えなくなっても呆然としていたら、「残念でしたね」と背後から声がかかる。


「私としては早く終わってくれて良かったのですが。せっかくお嬢様が髪を拭いてくださるだなんて貴重な体験が出来たのに。まあ私としてはよかったですけれど」

「でも今日はどうしたんだろうな。いつもはあんなことしないのに。……また雨に濡れて帰ってきたら拭いてくれるだろうか?」

「馬鹿を言わないでください。次は私の番ですので」


 どうやらベアトリスも羨ましく思っていたらしい。

 だが俺も羨んでいることは解ってもらいたい。一日の中でお嬢の傍に一番長くいるのは、彼女なのだから。

 お嬢を挟んで向こうとこっち。決して相容れない存在、好敵手と書いてライバルと読むのだ。

 出来ればお嬢にまだ拭いていてもらいたかった。しかし、もうここに居ないのではどうしようもない。

 諦め、まだ濡れている髪を拭こうとタオルで頭をこすってみたが、お嬢がしてくれたような気持ちよさはまるでなく。

 濡れないようにと懐へ入れていたことを思い出したお嬢のパンツは、案の定びしょ濡れで……。その後そのことを謝りに行ったら、やはり小一時間のお説教をくらう羽目になったのだった。

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