/ベアトリス -1
皆さま、ごきげんよう。
私、アッシュベリー家のメイド長をしております、ベアトリスと申します。
主なお仕事はお嬢様の侍従。それこそおはようからおやすみまで、お嬢様の身の回りのお世話をしております。
朝はお嬢様を起こし、朝食を摂るお嬢様を眺め、制服のご用意から髪のお手入れをし、薄くお化粧を施して学校へ行くお姿を見送る。
お帰りになったならばまず出迎え、お着替えをお手伝いします。
夜は食前のお茶を淹れて差し上げ、お食事中のお嬢様を眺め、食後はお茶をご用意し、入浴中は色々と堪えてお召し物をご用意、就寝前には髪のお手入れをしてからおやすみを交わす。
これらを基本とし、休日は優雅なアフタヌーンティーなどをお楽しみいただいています。
もちろん、私の仕事は侍従だけではありません。
お昼がサンドイッチの時は唯一作れるお弁当のご用意、お嬢様のお部屋のお掃除、ベッドメイキング、そしてお嬢様のスケジュール管理とスタッフへの指示。
館には他にメイドが五人おります。それぞれが役割を分担しブロックごとに分けた全二十五部屋ある館の清掃、お洗濯に物干し、お食事の準備を担当するので、そのスタッフの管理も私の大切なお仕事なのです。
大変なこともいろいろとありますが、それでもお嬢様のお顔を拝顔し、お声を聴くだけで疲れなど一瞬で吹き飛んでしまいます。
つまり、何が言いたいかと申しますと。
どこかの執事とは違い、メイドの一日は長いようで短い、ということです。
「――ベアトリス」
そんなことを一瞬でも考えてしまった罰なのか、ご当家に奉公する使用人で唯一の男に声をかけられてしまいました。
お嬢様を巡って争う、『好敵手』と書いて『ライバル』と読みます。
しかしメイドは忙しい。そのような相手にかまけている暇などありません。
私は耳に入っていない体を装って、お嬢様のお部屋の家具の、ほんのわずかな埃をはたきで優しく払う作業を続けます。
「ん? 聞こえていないのか」
聞いていないとは思わないのか、そう呟くとシアンさんは部屋へと進入してきて私の肩に手を添えました。
「ベアトリス、お嬢のパンツがまだ乾いていないようだが、どうなってるんだ?」
この男、懲りずにお嬢様のショーツをハンカチにしようとしていたみたいです。お嬢様に怒られたというのに、いつまで経っても直そうとすらしない。ある意味狂気の沙汰ですね。
こんなこともあろうかと思い、干す時間を少しだけずらして正解でした。
振り返りざま、振り上げたはたきで思わず叩きかけ――寸でのところでハッとした風に手を止めました。
「あら、シアンさんでしたか。危うく大きな埃かと思って叩くところでした」
「同じくお嬢に仕える者としてゴミ扱いはやめてくれ。それでお嬢のパンツなのだが――」
「今日はほんの少々忙しくて、干す時間がほんの少しだけ遅れてしまったんです。なので今日のところは諦めてください」
「俺に今日一日、コサージュなしで過ごせ、と?」
「そもそもハンカチーフではないので、そこのところを間違えないでくれませんか」
正鵠を射ると、納得できないといったように顔をしかめるシアンさん。
部屋をおもむろに見渡して、その視線は洋服ダンスに縫い止められました。その口が開く前に機先を制しましょう。
「そこからショーツを持ち出すことは認めません、ルール違反でしょう?」
「ぐっ……。しかし、胸元でお嬢のパンツが花を咲かせていないと、どうにも落ち着かなくてだな」
「でしたら、生乾きのものでも入れていれば良いのでは? その内に乾きますよ」
「それだとジャケットが濡れるだろう。というか、お日様の温もりを感じるからいいんじゃないか。生乾きではそれもままならん」
「ままなっていないのは、あなたの頭です」
相手をするのも少し面倒くさくなってきました。私はため息を一つこぼし、適当にあしらうことにします。
「ふぅ。そういうことでしたら、乾くまで待っていれば良いのでは?」
その言葉に、まるで光を得たように表情を明るくし「パン!」と拍手を打つシアンさん。
「……それもそうだな。パンツならさほど時間もかからないだろうし、そうしよう!」
口にしてから後悔しても後の祭り。下手なことを言ってしまい、止めさせるどころか逆に元気にさせてしまいました。
すっきりとした顔をし踵を返して部屋を出ていこうとしたので、無駄な足掻きと知りながら少しでも時間を稼ぐため、その背なに声をかけました。
「ところで、お風呂場の掃除は終わったのですか?」
「ああ、午前中に終わらせたよ」
「頼んでおいた洋服のボタンのほつれは……」
「それもすでに終わっている」
「……あ、シャンデリアの電球が一ヵ所切れていたのですが――」
「他の者から聞いたから取り替えておいたぞ。ベアトリス、もういいか?」
「ええ、呼び止めてすみません」
じゃあまたな、そう言って部屋を出て行ったシアンさんを見送り、一人肩を落としました。
あの男、ああ見えて館の仕事はきっちりとしているのです。私が出来ないことはあの男が補い、あの男が出来ないことを私が補う。
そうやって補い合い助け合っていることもまた事実。
悔しいですが、執事としてなら十分くらいには合格点なのです。ある一点だけが大きな問題なだけであって……。
それから。特に変わったこともなくメイドの仕事に勤しんでいると、あっという間に時間は過ぎていき、窓からはオレンジに燃える夕空が望めました。けれど空模様がどことなく怪しい。
予報では夜から雨だった気がしますけど。東の空から灰色の雲が疎らですが徐々にやってきていますね。お嬢様がお帰りになるまでは安心だと思いますが。
雨雲が急に本格化しないことを祈りつつ、私はお嬢様をお出迎えするために玄関へ。
広くすっきりとした明るい玄関には、アーチの入口が設けられたシューズクロークが備え付けられています。埃一つ塵一つ落ちていない完璧な仕上がりで、気持ちよくお嬢様のお帰りを待てるというものです。
と、そこへ背後からシアンさんが現れました。先ほど電話で誰かと話していたようですが。革靴を履いているところを見るに、案の定、用事で出かけるようです。
「お出かけですか?」
「ああ。あんまり遅くならないうちに帰ってくるよ」
「夜から雨が降るみたいですけど、天候が急変することも考えて傘を持っていっては?」
「それまでには帰ってくるだろうから必要ないだろう。心配してくれてありがとうな」
「別に心配などしていませんが――」そこでシアンさんのジャケットの胸ポケットに、クレープからはみ出す生クリームみたいなショーツを認めました。本当に乾くのを待っていたようです。「……さすがにそのまま外へ出るのはどうかと思いますけど」
失礼しますとわざわざ一言断って、お嬢様のショーツをポケットの奥へと押し込みます。膨らんだ胸ポケットが少々不格好ですが、職質などされては敵いませんので。
「出る杭は打たれる、か。だが仕方ない」
「意味が違うと思いますけど。というか毎回言いますが、外へ行く時くらい置いていけば良いのでは? 毎度手直しさせられる私の身にもなってください」
「なにを言っている。忠義を胸に抱くのは当たり前のことだろう?」
「言っている意味が分かりません」
「お前にもいずれ解る時が来るさ」
「理解したくはないですけど……」
まるで反省の色が見えないシアンさんに呆れたため息をついてから、私は以前から聞きたかったことを訊ねました。
「それと以前から訊こうと思っていたのですが」
「どうした?」
「そのコサージュ、とはあまり認めたくはないですが。そのショーツでまさか不浄な手をふいたりはしていませんよね?」
「手を? 馬鹿を言え、お嬢のパンツはコサージュだ、云わば勲章のようなものだぞ。それを穢すような真似はしない。不浄な手を拭く用のハンカチなら、ちゃんと尻のポケットに入れてあるさ」
「それでしたら安心しました」
ということもないですが……。
「――おっと、あんまり待たせるとあいつがうるさいからな。そろそろ出る。お嬢にはすぐに帰ってくるからと伝えておいてくれ」
「分かりました、ごゆっくり。道中お気を付けて」
玄関を飛び出していったシアンさんを見送り、私は一人ほくそ笑みました。
彼がいなくなったということは、彼が帰ってくるまでの間、私がお嬢様を独り占め出来るということですから。
お嬢様がお帰りになられるまでの間、そわそわと浮つく私の心は落ち着きませんでした。
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