第一話 お嬢とパンツと濡れた俺
/シアン -1
シアン・ハインベルクがシアン・クロックフォードと名を改めることになったのは、いまから十三年も前のこと。当時、俺はまだ七歳だった。
ラスクリーネの町の一般住宅街にある、普通の家庭で育った俺が館へ来ることになった理由は、両親の死がきっかけだ。
結婚記念日に日帰りの小旅行に出た先で、交通事故に巻き込まれて二人は死んだ。両親ともに二親を亡くしていて、身寄りのなかった俺は教会の孤児院に入ることが決まった。
施設入りも間近に迫り、途方に暮れていたそんなある日。突然現れて俺を引き取ってくれたのが館の主人、故ラルフ・アッシュベリー様だった。
アッシュベリー家といえばこの町でも有数の地主で、貴族の家系にあり町の発展にも大きく貢献してきた名家だ。
そんな家柄の人さまがなぜ自分を? 尋ねると、俺の両親とは旧知の仲だそうで、大切な親友の息子を独りには出来ないと思い引き取ることにしたのだという。
養子というやつになるのだろうと、格式がないやらふさわしくないだろうだとか、幼いながらにいろいろと悩み覚悟してやってきたことを思い出す。
結論から言うと、養子にはなったのだ。
だが、なぜか俺は当時館の執事をしていたロジャー・クロックフォードに預けられた。
いや、それですらありがたい話ではあるのだが。ちなみにその理由はいまだもって謎だ。
そもそも、訊くという発想すらなかった。当時は与えられるものをそのまま受け取るだけだったから。けれど最近ふと思い出すたびに、疑問が頭をもたげることがたまにある。
まあ、たまにある程度だからそれほど気にすることでもないのだろう。そう思い、いつも途中で考えるのを止める。
それに俺が気にしなければならないのはただ一つだけだ。
そう。この館で、お嬢ことシエル・アッシュベリー様に出逢った、あの頃からずっと――
「――ちょっと、聞いてんの!」
「あ……、なんでしたお嬢?」
「まったく、わたしが話してるのに意識をどこに飛ばしてるのよ。主人の説教も聞けない執事なわけ?」
そうだ。俺はいま、お嬢から呼び出しをくらいお説教をされている最中だった。すっかり忘れていた。思い出したら思い出したで、少し足の痺れを自覚する。
それもそうだ。足を組んで椅子に座り机に頬杖をついた、不機嫌そうなお嬢を前に正座させられているのだから。
ちなみに呼び出し理由としては、『アンタまたわたしのパンツ持っていったでしょ!』だ。
しかし、ロイヤルブルーのワンピースから覗く太ももが艶めかしい。目の前にあると不躾にもつい見てしまうのは、男の性というやつだろうか。
「あのねぇ、どうして普通にハンカチ使わず、わざわざ干してあるわたしのパンツを持ち出すわけ?」
わずかに怒ったお嬢の瞳が俺を見下ろす。トントンと机を叩く音が小気味よい。
まるで空をはめ込んだような綺麗な碧眼は、怒られていることも忘れてしまいそうなほどに美しい。その双眸は国宝級だ。
しかし、答えを急かすように眉がぴくぴくし始めたため、見惚れている場合ではないと慌て言葉を紡ぐ。
「お、お嬢のパンツは俺のもので、ハンカチですから」
「わたしのパンツはわたしので、わたしが穿くものだから……」
お嬢はこめかみに手を当てて目を伏せ、「はぁー」と心底呆れたようにため息をついた。
艶やかなシルクみたいな銀髪がさらりと流れ、目元をわずかに隠す。
こんなことならもう少しくらい見惚れていればよかったな。
しかし憂い顔が見られたから、これはこれで良かったのかもしれない。
不謹慎だが内心わくわくしながら見つめていると、不意にお嬢の瞼が開いて目が合った。
「だいたい洗ってるとはいえ、パンツをハンカチーフにっておかしいでしょ。コサージュにするようなものじゃないし、その訳を聞かせなさいよ」
理由を問われ、逡巡する。この問答は重要だぞ。この先を占うほどには。
「……そこにパンツがあるからです」
「登山家みたいなこと言ってるんじゃないわよ! 少し悩んだ末に出てきた言葉がそれっておかしいでしょ!」
真面目に答えたのになぜか怒られてしまった。
空いている左手で机の端をバシバシと叩くお嬢の目は、口調の割りにそれほどつり上がってはいない。
「なら、ちょっと手が空いたので暇つぶしに……」
「ミニスーパーか! それに“なら”って、AがダメだからBにしてみましたってノリやめなさいよね。しかもぜんぜん理由になってないし!」
この流れ。いつも通りではあるが、お嬢の叱責は長くなりそうだな。
一緒の時間が欲しいとはいっても、別に怒られたいわけじゃないんだ。
……話を逸らすか。
俺は聞こえよがしに溜息を一つ。
「ふぅ。お嬢はわがままですね。昔からそうです」
真剣な眼差しでお嬢の顔を見上げ、そして許可なく立ち上がる。
「え? なに? なんでいきなり説教始まっちゃうの?」
ふふふ、お嬢がたじろいでいる。
お嬢は不意の説教に弱いのだ。このまま勢いで押し切って気を逸らしてやろう。
ピッと人差し指を立てると、さもそれらしく振る舞った。
「いいですか。アッシュベリー家の頭首たるもの、常日頃から鷹揚に、心に余裕をもって優雅に振舞うべきなのです。ラルフ様からも口を酸っぱくして言われていたでしょう。ですから、たかだかパンツ一枚に従順な執事を呼び出し、貴重なお時間を雑事に割くことなどただの浪費。家訓に反する行いですよ」
ふっ、完璧な丸め込み。これでお嬢はしょんぼりしつつも違う話題に逸れ――
「で、言いたいことはそれだけなの?」
聞こえた冷ややかな声。
恐る恐る横目で窺う。腕を組み、椅子から見上げてくるお嬢の視線は絶対零度。
「――あれ?」
「黙って聞いてれば好き放題。アンタ、話そらそうとしてるでしょ?」
「そ、そんなことはないです」
「そもそも。執事の手癖の悪さを叱ってるのに時間の浪費ってどういうこと? 雑事だけど躾なんだから仕方ないでしょ。そんなこと言うなら貴重な日曜に時間取らせないでよね」
「…………」
「それともなに、アンタは主人のお説教が聞けないってわけ?」
「………………」
むっとしたお嬢の顔が、だんだんと険しくなっていく。
ラルフ様と家訓を持ち出せばどうにかなっていた時代はもはや過ぎ去った。主人の成長を素直に喜ぶのもまた、執事としての在り方だろうと思うが。
形勢逆転とはいかなかったようだ。
どうやら、口答えするべきではないと黙っていたこともマズかったようで。
「なんとか言ったらどうなの?」
声音がじゃっかんの怒気を孕む。
子供のころのお嬢は本当に素直で優しくて、まるで天使のようだったのに。いや天使なのはいまも変わらないが、少なくとも怒ると恐くなったところは変わってしまった。
いまでは俺が涙目に……。
「聞いてる?」
叱られてばかりで小さな反抗心が生まれたのだろう。
それは考えるよりも先に口をついて出ていた。
「怒られてばかりじゃ、やってられませんよっ」
「しょうがないじゃない、言っても直さないんだから」
欠片ほどの反抗心は、ものの見事にすっぱりと両断された。だがしかし、納得いかずまだ燻る感情はさらに喉から言葉を繰り出させる。
「だったら言わせてもらいますけどね。俺がお嬢のパンツをハンカチにするようになったのは、お嬢にだって責任があるんですよ!」
「主人に責任転嫁するだなんて、ずいぶんと生意気な執事ね。専門学校でなに習ってきたのよ、もう一度入り直したらどうなの」
「あんなところにまた三年も籠ってられませんよ。お嬢にもろくに会えないのに……ってお嬢、まさか覚えてないんですか?」
「なにを?」
キョトン、と首を傾げるその瞳は、まるで何も知らない無垢な幼子のように純真だった。
あぁ……、まさか二人の思い出が俺だけの一方通行になっているだなんて、いったい誰が想像できただろうか。
俺の中にはいまだ色褪せずに、フルカラーの写真よりも鮮やかな記憶として残っているのに。
「ねぇ、だからなんの話よ?」
ここでお嬢に話してしまうのは楽だ。だが、お嬢に思い出してもらわなければ意味がない。勘違いだとか言われてしまえばそれまでだから。
「……思い出してくれるまで、言いません」
「思い出したら聞く必要ないと思うんだけど?」
「とにかく、俺は言いたくないです!」
「あーそう。どうせシアンの記憶違いとかでしょ。わたしが容認するわけないし」
ほら、やっぱり。こうなるとこっちも引き下がるわけにはいかない。
それに、俺がそんな、そんなものをするわけがないじゃないか!
「お嬢との大切な記憶が違っているだなんてことは、万どころか億に一つもありませんよ!」
強く言葉にしたら、なんだか悔しくて涙が滲んできた。
「ちょ、ちょっとなんで泣いてるのよ、わたしが泣かせたみたいじゃない。ただパンツをハンカチにするなって当たり前のことを叱っただけなのに……意味分かんないし」
大の男が涙する姿を見てうろたえるお嬢。
決して泣くものかと我慢する唇はわななき、お嬢の姿は次第にぼやけていく。
「ああもう! 分かったから泣くのやめなさいよ。いつからそんな泣き虫になったわけ? ……まあわたしも少し言い過ぎたかもしれないわね。今日のところはこの辺にしておきましょ」
重い腰を上げるように緩慢に立ち上がると、お嬢は疲れた顔をして部屋を出て行く。振り返ってくれることを期待して背中を目で追っていたが、お嬢は振り向くこともなかった。
一人お嬢の部屋に残された俺。ぐるりと見渡すと、落ち着いた雰囲気のいつもの部屋だ。
決して嫌味な派手さがないシンプルな家具類、調度品も品よくまとまっている。
白を基調に淡いピンク色が差し色の部屋に、やわらかな陽光が射す。窓からは爽やかな春風が吹き込んで、レースのカーテンを揺らす。
不意に鼻腔をくすぐったお嬢の微かな香りは、心をすーっと穏やかにさせていく。
陽だまりの花園にも似たこの優しい匂いが、俺は好きだな。
……少なくとも、変にテンション上がって興奮するようなものじゃないと思うんだ。
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