アッシュベリー家の犬
黒猫時計
第零話 それは何気なくない日常の始まり
/シアン -0
「はぁ……はぁ……はぁッ――」
景色の一部として流れていく白塗りの壁。一定間隔を空けて設けられたピカピカに磨かれた手すり。そして埃一つ落ちていない赤いカーペットを、踏み散らさんばかりの勢いで足を蹴り出す。
「はぁ……はぁ……はぁ、はぁッ――」
俺が何者であるかを語る前に、なぜ館の廊下を鬼の形相で走っているのか。それをまず説明しなければならないだろう。
いや何者であるかなどともったいぶるほど、大層な存在ではないことは断っておいた方がいいか。俺などこの館においてはモブでしかない。
そう主役は他にいる。華々しいステージに立つ麗しのエトワールが!
などと走っていることもその理由も忘れ、そのお方の顔を想像し思わずニヤけていると――
ピピーザザザ、と胸ポケットに入れていたトランシーバーが無粋なノイズを発し、突然の通信を告げた。
『――こちらベアトリス。シアンさん応答願います』
「こちらシアンだ、どうした」
『シアンさん、賊は庭の東を北へ向かって逃亡中。どうやら迂回して裏門の方へと抜けるつもりのようです。どうぞ』
「了解。裏門ならここから近い、俺が先回りしよう。どうぞ」
『私もいま向かっていますが、応援は必要ですか? どうぞ』
「盗みに入った賊など俺が捕まえてやる。お前はゆっくりと歩いてきていいぞ。どうぞ」
『では今回はお言葉に甘えて、そうさせていただきます。それでは――』
通信が切れた。
今のやり取りで大方お分かりだろう。そう。館の敷地に賊が入り込んだのだ。
いわゆる、『泥棒』である。
世間一般からして、盗られた物は大した物ではないかもしれない。しかしお嬢にとってはお気に入りであり、俺にとってソレは大切な思い出を想起させるものであり、日々の感謝を、引いては忠義をその都度胸に刻むための証のようなものなのだ。
館の執事として、見習いから足掛け早十三年。それだけの時間の中でもかなり稀有なケースの盗みだ、というか初めてだろう。
故に、俺にとってもお気に入りであるお嬢の私物を、あろうことか俺がいながら他人に盗まれてしまったこの失態。その汚名は自ら雪ぐべきと勇みいまに至る。
大切な物を盗んだ賊を、俺は決して許さない。
お嬢のためにも、必ず取り返す!
「うぉおおおおおおおお!」
繰り出す足をより一層に速めた。体感的に五十メートル走なら六秒も切れるだろう。
館の勝手口を勢いよく押し開けて裏庭に躍り出る。
先の情報が正しければ、ここへ来るのは間違いない。裏門は百メートルという目と鼻の先にあるからだ。館の角を曲がってくるとしても、ここから見える範囲で背の高い遮蔽物はほとんどない。確実にその姿を捉えられるだろう。
裏門は主に館に従事するスタッフや業者の通用門だが、ほとんどスタッフしか使わないからと手抜きはしない。ガゼボが置かれ、池が陽に煌めき、目に鮮やかな花々に彩られた春の美しい庭を演出している。
その温かな光景にホッと一息つきかけて、思わず頭を振った。いまは和んでいる場合ではないのだと。
ぐるりと敷地を取り囲む、レンガ造りの背の高い茶色い門壁の東側に目を向ける。迂回してくるという賊の姿はまだ見えない。
ここで仁王立ち待ち構えているのもいいかもしれない、が。
俺は地を蹴り、自ら賊を迎え撃ちに行くことに決めた!
すると少しもしない内に賊と思しき男が館の角を曲がってきて出くわす。
見るからに、悪いことでも小さなことしか出来なそうな小物だ。俺だけで十分事足りる、たぶん。
「――ちぃ!」
俺の姿を見た賊は口惜しそうに舌打ちし渋面を浮かべる。けれど、臆することも躊躇することもなく向かってきた。良くはないがその意気だけは買ってやろう。
「どけぇええええ!」
「馬鹿め、どけと言われて退く馬鹿がどこにいる。お嬢のパンツを盗んだ罪人に遠慮などしないぞ」
「言ってろ三下カス野郎がぁ!」
「ゴミにカス呼ばわりされる筋合いはない!」
口汚く吐き捨てながら賊が拳を振りかぶる。その手に握られた真っ白いパンツを見咎め、俺は忌々しく思い口を歪めた。
突進と同時に繰り出されたパンチを冷静に見極め、腕をクロスさせて下から掬い上げる。そして横にいなしてその勢いのまま、憤懣やるかたない右拳を脇腹へ叩き込んだ!
鈍い音を響かせめり込んだ一撃に、「がはっ!」と賊は苦悶の表情を浮かべて地面を転げる。
実戦で使うのは初めてだが、これが親父から唯一教わった護身術だったり。
「成功してよかった……」
思いのほか心拍が荒ぶる胸を押さえ、ホッと安堵の息をついて気息を整える。
脇腹を押さえのたうつ賊に目をやると、その手からパンツが零れ落ちていたので拾い上げた。
凝ったレースの清楚系純白パンツだ。いまは芝くずのオプション付き。危うく緑の着色がされかねなかったが、なんとかその前に救出出来たな。
「お嬢のパンツを盗むとは不届き千万なヤツ。この館へ盗みに入って俺から逃げられるとでも思ったのか?」
付いていた芝くずを優しく叩き落とし、綺麗な三角形に折ってジャケットの胸ポケットへ収めた。ゴムが波打つヨレ感がいい感じに花を咲かせているみたいで、胸元が華やいだ気分だ。
「おい、」ちょうどそこへ男から声がかかる。
「なんだ泥棒。弁解なら聞く耳は持たん。貴様におい呼ばわりされる筋合いはないが、命乞いなら聞いてやる」
「なんでパンツを胸ポケットに入れるんだ」
「……勘違いするな。これは後でちゃんとお嬢にお返しするのだ。落とさぬようひと先ずここへ入れておくというだけのこと。決してハンカチの代わりなどではない」
「それなら腰ポケットでいいんじゃ――」
「貴様はなにを言っている。サイドポケットはハンカチを入れるところじゃないだろう」
「………………」
「ふっ、完璧なまでの忠義にぐうの音も出ないか。……連れて行け」
背後から気配がしたので背中越しにそう呼びかけると、
「連れていけ、ではないです。誰に向かって口を利いているのですか」
ぴしゃりと冷ややかな声音が背を叩いた。メイドのベアトリスだ。正直苦手だ。
お嬢の傍にいつもいるし、二つ年上だからって偉そうだし。俺だってお嬢の傍にいつでも居たいのに。
「それにどう見てもその男、ぐうの音が出ないというより呆れて物が言えないだけだと思いますけど」
「……はぁ」
と、俺の代わりにつかれたため息は、明らかにベアトリスのものではなかった。憂いて聞こえた音は、まるで砂糖菓子を溶かしたような甘さが香ってきそうな甘美なもの。
落ち着き始めていた心拍は別な意味で早鐘を打つ。俺は脈が二拍目を数える前に振り返った。
そこには、楚々と控える金髪ポニーテイルのメイドを従えた、それはもう愛らしくも美しい銀髪ツーサイドアップのお嬢が!
ほんのりと頬を赤く染め、じゃっかん嫌悪感を露わにした顔で俺を見ていた。
それはそうだろう。初めて下着泥棒に遭遇したのだから、心情は察するに余りある。
しかし! 俺は言い知れぬ高揚感からか、そんなこともお構いなしに嬉々として報告する。
「お嬢っ! 泥棒を捕まえましたよ!」
「そうみたいね、ご苦労様」
労いの言葉に胸が躍る。ちなみに俺は褒められると伸びるタイプだ。
チラリと俺の脇で転がっている泥棒に目を向けたお嬢。眉間に寄った皺の具合から、かなりご立腹なようだ。だがそんな表情ですら絵になるお嬢は、やはり自慢のご主人だったり。
「ところで。アンタはなんでまたそんなところにわたしのパンツをしまってるわけ?」
「あ、これですか? 実はですね、ハンカチを取りに行こうと物干し場に行ったらお嬢のパンツがなかったんですよ。いつもはちゃんとかかってるのにおかしいなと思ってたら、ベアトリスから下着泥棒だと連絡があったわけです。なんやかんやあって、そしていまに至るんですが――」
「誰もいきさつなんて聞いてないんだけど」
腕を組んで目を眇め、俺の瞳の奥をジッと見据えてくる。
いまにも胸がトキメキかけたが、そのような時と場合ではない。この場はとりあえずお返ししておかなければ。さすがに芝とはいえ、地面に落ちたパンツを使うわけにもいかないからな。
胸ポケットからコサージュのようなパンツを取り出してそっと差し出す。
「……ではお嬢。一応、ひとまずこれお返しします」
「いらないわよ」
するとにべもなく拒否された。
「いらない、ですか。でもお気に入りだったんじゃ」
「お気に入りだった。でも、他人の手が触れた下着なんて普通は身に着けたくないでしょ」
たしかに、それは一理あるかもしれない。
こんなどこの馬の骨ともしれない奴の手が触れたパンツを、俺もお嬢に穿いてほしくはない。
しかし、いらないということはこのパンツは廃棄するということ。俺にとってもそれは残念でならない。なぜなら――
「お気に入りだったのに……」
「わたしが肩を落とすなら分かるけど、なんでアンタががっかりしてるのよ。ていうか、わたしのパンツハンカチにするのいい加減やめなさいよねっ」
「その叱責は甘んじて受けますが、聞き入れられません! 忠義なので!」
「はぁ? 意味分かんないし」
前のめり「忠義です!」と再度力強く迫ると、お嬢は少したじろぐように仰け反る。わずかに頬をひくつかせては、気力を失うような吐息をこぼした。
「――はぁ。今日のところはまあいいわ。泥棒を捕まえてくれたんだし。『下着盗られたお嬢様』なんて不名誉なレッテルを世間から貼られなくて済んだから。……それは、ありがと」
不器用に言って照れくさそうにぷいっと顔を背けると、フローラルの香りを残しお嬢は館へと戻っていった。
ありがと。その言葉が耳にやわらかく木霊する。
じんわりと胸に広がる温かさは、たしかに幸せという名の感情だった。確認するまでもないことだが。
……ダメだ、嬉しさ満ち溢れて高まり過ぎたお嬢への想いが今にも爆発しそうだ!
改まって言うことではないかもしれないが、俺はここに声を大にして口にしたい――
「俺はお嬢の、忠実な執事であるとっ!」
天高く響いた熱き宣言は、
「やかましいですね、近所迷惑でしょう。バカなことしてないで早く警察に通報してください。いつまでコレを敷地に置いておくつもりですか。オブジェじゃないんですよ」
泥棒を荒々しく縛り上げるベアトリスの冷ややかな声に、春のうららかな陽気へと流され霞となって消えた。やっぱりこいつは苦手だ。
こうして俺の日常は平穏無事に幕を開ける――桜舞う、何気なくない土曜の昼下がり。
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