第7話

 少しでもミステリーを読み慣れた読者諸君ならば、すでに事の真相に気づかれていることと思われる。というのも、このお話に登場する人物といえば、ぼくを除いて一人しかいない。今回の場合、犯人というのは大仰かもしれないが、ミステリの大前提として、犯人は予め提示されなければならない、というルールがある。よって、この時点で犯人は榎本色葉というわけになるのだが、当時のぼくにはもちろん、予知できるはずもなかった。

 扉を開けたぼくは、「遅い」という聞き覚えのある声に、絶句した。声がした先には、エプロン姿の榎本さんが不機嫌そうに立っていた。ぼくはただ、「どういう……」と脳内をぐるぐると回転する疑問を吐き出すので精一杯だった。香ばしい匂いがした。

「上がっていいよ」

「あ!」

 通された部屋で、ぼくは目を見張った。そこには、今朝触れたばかりのきつね色の毛布が無造作に広がっていたのである。

「……そんなに珍しい?」

「何が何やら……」

 ぼくは柔らかい絨毯の上に座り込んだ。

「やっぱり、気づいてないんだ」

 彼女は淡々とした表情で、「待ってて」

 小柄な彼女はとことことキッチンの方へ行くと、湯気の立った鍋を加熱し、何やら具材を投入し始めた。

「私お腹すいた。ご飯にしよ? ――お酒、飲む?」

 ぼくはかぶりを振った。「お酒は苦手です」

「昨夜は飲まされたって訳ね。……なってないオトモダチ」

 まごつくぼくそっちのけで、榎本さんは皿や箸やらを用意すると、鍋を運んできて中身をつつき始めた。

「遠慮しないで。勝手にあなたの家に上がり込んだ分のお返し」

 ぼくが割り箸を手に取るのを見ると、彼女は少し満足そうに頷いた。

「まずは謝らないといけない。勝手に上がり込んでしまって。悪気はなかったの」

 彼女は何でもないことのように言う。

「初めはあなたを助けようと思った。鍵を拾ってどうしようかと周りを見回すと、玄関先で酔い潰れたあなたがいた。迷ったけれど捨て置けなくて、あなたを家まで運んであげることにした。最初住人のふりをしたのはちょっとした好奇心。そのほうが面白そうだったからね。部屋に入ったら鍵を返してそのまま帰ろうと思ったけど、どうも吐いて窒息でもされたらたまったものじゃないわ。せっかく家まで運んだのに死なれては後味が悪いし。まあ、しばらくして顔色も良くなってきたし、吐くこともなさそうだったんだけど」

 ぼくはただ耳を傾けていた。

「気分が変わったのはそれから。きっかけはあなたの本棚。相当、読み込んでるでしょ」

 相沢の視線を追うと、巨大な本棚にぶつかった。私は素直に驚いた。圧倒的な蔵書の数。それも、ミステリが大半を占めていた。ぼくは感激せざる終えなかった。

「私はあなたに興味が湧いた。それでこんなゲームをしたくなったの。書き置きの中に『探偵』と書いていれば、食いついてくれるだろうと思った。……とまあ、話はこういうこと。私はあなたがどうやってここにたどり着いたか、知りたい」

 ぼくはこの時、ようやく心から安堵することができたのだ。

「なるほど、ずいぶん大胆な人だ」

 ぼくは無性に話したい気分になった。

「大胆不敵とはよく言ったものです。おかげさまでずいぶん怖い経験が出来ました。

 あなたは見事に僕を攪乱しました。鍵を拾ったあなたは、僕の家の前を通った際に酔い潰れた僕を発見した。マンションの入り口で酔い潰れた人間がいれば、鍵をなくしたのだろうかと連想するのはそう難しくありません。あなたは親切心でしょうか好奇心でしょうか、建物の住人のふりをして、僕が鍵の持ち主であることと部屋番号を聞き出した。その上で、僕を僕の家に運び、さもそこが自分の家であるかのように振る舞った。僕があの晩、酔いから覚め、そこが自分の部屋だと気づいたならば、素直に真実を話せば済む。だけど、僕は眠ってしまった。

 そこであなたは徹底して僕を騙すことにした。あなたは自身の家から毛布や靴などの私物を持ち込むと、一見して僕の家とわからぬように細工をした。時間はたくさんある上に、僕は熟睡していました。玄関口で寝てしまったから、大きな工作は必要ない。リビングに入れなければ、僕の家だとバレることはなかったでしょう。中でも、毛布の存在は寝起きのぼくにとって効果的でした。僕に疑いの余地はありませんでした。

 そして、あなたは時間のない振りをしてせっせと僕を家から追い出し、鍵の話や交番の話をして、そこが303号室だと気づかれないように芝居を打った。完全に気をそらされてしまったのは僕の不覚です。

 僕を追い出したあなたは、家を出た振りをしてすぐに戻ってくると、自分の荷物をまとめ、部屋を元の通りに戻すと、書き置きと合鍵を残して家を出る。そのまま交番へ急ぎ、鍵を預けて自宅へと戻った。あとは僕の到着を待つだけです。

 あなたはずいぶん大きなヒントを残していました。206号室の榎本さん。でも、その意味をはき違えているぼくにとってはヒントでも何でもない、合鍵の解とは無縁なものでした。まさか泥酔した人間の家に上がり込み、さも自分の家のように振る舞うとは、考えもしませんからね。ぼくはあなたが、同じマンションの206号室に住む榎本さんだと信じ切った。その大前提からして間違っていたのです。ぼくはずいぶんと悩みました。

 ぼくが出した最良の答えは、マンションの玄関の鍵穴でした。そこを試して、適合する建物の中に、差出人の家がある。今日の半日をかけて探し当てました。運良く半日で見つかりましたが、七日では見つからない可能性だって十分あった。ここの部屋を探している際に、住人に不審者扱いされてずいぶん危ない目にも遭いました」

 なるほど、と榎本さんの口元に愉快そうな笑みが浮かぶ。

 それで、と彼女は続けた。

「今だったらどう思う? 最適解とは何か」

 ぼくは言葉に詰まった。他にあっただろうか。彼女がぼくの家を見つけた状況と、ぼくが彼女の家を見つけた状況では、明らかにこちらが不利だ。

「不利だと思ってるの?」

「なっ」

「図星ね。でも案外、そうでもないの。私はちゃんとヒントを残しておいたから」

 どう? と榎本さんは試すような視線をぼくにくれる。

 あれ、とぼくは思う。ずっと無関心そうだった目が、心なしか輝いて見える。

「――時間切れ。ヒントは手紙の冒頭から。手紙にはこうあった。『二日酔いの家主さんへ』。手紙の主はどうしてあなたが酔い潰れたことを知っていたの? 鍵を落とす人間が全て酔っ払いとは限らないわ」

 あっ、とぼくは口を開けていた。

「そう。差出人はあなたが酒にやられたことを知っていた。とすれば、鍵の拾い主は、家の前で酔い潰れたあなたを目撃した」

 ぼくは固唾を呑んで聞き入った。

「こうして拾い主はあなたを見つけマンションを突き止めた、ということが保証される。その過程がどうであれ、拾い主はあなたのマンションを特定することができた。

 よって、大事なことはどうやってマンションを特定したのかではなく、どうやって303号室を見つけられたのか、ということ」

 なるほど、とぼくは思った。合鍵の家を探す際、まずマンションを特定しようと考えた。そのため、犯人もどうやってマンションを特定したかにとらわれてしまった。

「さて、ここから可能性は四つに分かれる。一つ目はそもそも知っていたという場合。あなたの友人とかね。二つ目は眠りこけるあなたの前を素通りして建物内に侵入し、あなたがさっきやってきたように、順に鍵穴を確かめていく方法。三つ目は、建物の鍵が開くことを確かめてから、住民が寝静まるのを待ち、同じように鍵穴を確かめていく方法。そして四つ目――」

 彼女は相変わらず淡々とした表情で、ぼくを見た。

「本人に尋ねる方法。このどれかしかない。だから、このうち三つを消していけば良い。

 一つ目はどうとでもなる。最悪、友人の家を調べていけばいいから。今回の場合は当てはまらない。問題は残り三つ。けどこれらも案外、簡単に消去できる。

 まずは二つ目。さっきあなたが話していたように、鍵穴ってのは意外に大きな音を立てる。住人が静かな部屋にいれば、どれだけ慎重になっても聞き取られてしまうの。だから建物内の住人、例えば101号室の住民。その人に、鍵を挿してきた怪しい人間はいなかったかと聞けば良い。おそらく、誰に聞いてもなかったと返ってくる。102号室や103号室にも尋ねれば、信憑性は増す。こうして二つ目の可能性は消える。

 三つ目も簡単ね。あなたのマンション、ずいぶんと夜更かしをする人間がいるようだった。こう言っちゃなんだけど、あの建物は鍵の音だけでなく、足音もそこそこ響く。真夜中にパソコンをつついている人間の耳には足音だって届くだろうね。たとえ、人の気配のする部屋以外の鍵を試したところで、不審な足音は住人の誰かに記憶される。あなたはマンションの人間の中で、昨日徹夜をした人間を探し出し、誰かが来なかったかを尋ねれば良い。みんな、聞かなかったと答えるわ。ちなみに、私がベランダから確認したところ、昨日は103号室と207号室、301号室の人間が夜三時半でも活動していた。

 こうすれば、必然的にあなたは四つ目の可能性を認めざるを得なくなる。住人の耳があるが故に、鍵を試していくのは不可能なの。あなたの部屋は303号室と中途半端なところにあるから、一発で当てることだってあり得ない。

 結局、あなたはあなたのマンションで聞き込みを行えば良かったの。まあ、206号室を尋ねてみれば、見知らぬ人間が出てきて即解決だったけどね。何にせよ、手がかりは十分掴めたってわけ。――ね、フェアでしょ?」

 涼しい顔をして言う彼女に、反論の余地はなかった。ぼくは完敗に打ちひしがれた。けれど、自然とすがすがしい心地がしていた。

「でも差出人があなただと分かっても、ここを見つけられないのでは?」

 彼女はゆらりと首を振った。

「私言った。『大学近くの本屋でお仕事なの』って。店番の間、ずっとあなたを待っていたのに」

 ぼくはただ笑うしかなかった。



 こうしてぼくは、榎本色葉という風変わりな女性との出会いを果たしたのだった。

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