第6話

 全ては決したかのように思えたが、仕事はまだ残されていた。その建物は四階建てで、一つの階につき八部屋あるため、計三十二部屋の鍵穴が待ち構えているのである。しかも、今回は無闇に鍵を使っていると、住人に見つかる恐れがあるのだ。

 そして、恐れていた事態は得てして起こるものである。

 101号室、調べたばかりの扉が、ガチャッと音を立てて開いた。そして中からは女性が恐る恐るこちらを伺っていた。ぼくは動けなかった。鍵を差し込む音は、予想以上に室内に響くらしい。

 冷や汗が脇を伝って落ちた。

「今、何かしませんでしたか」

「い、いえ」

 ぼくはぎこちない笑みを浮かべて弁明した。

「友人に忘れ物を頼まれたのですが、部屋が分からなくて……」

 ぼくの手に鍵を認めた彼女は、険のある目つきで「馬鹿なんですか?」と言った。

「不審者として通報されますよ。……その友人の名前は何というのですか」

「え」

「名前ですよ。ここの管理人に電話で聞けばわかります」

 唐突の質問に対し、当然のことながらぼくは答えを持ち合わせていなかった。ぼくの自宅と同様、玄関の郵便受けに各部屋の住人の名前は記されていなかった。ぼくは見知らぬ建物に住む人間の名字を、誰一人として知っているはずがなかった。

「榎本です」

 咄嗟に口をついた名前だった。今朝耳にした名字が、脳裏に残っていたらしい。

「榎本さん? そんな人いたかな」

 どくん、と鼓動が跳ねる。

 いるはずがない。だって榎本さんは自分と同じマンションに住んでいるのだから。

「ちょっと待ってて、大家さんに聞いてあげる」

 ぞっと血の気が引いた。彼女はスマートフォンを取り出すと、目の前で電話をかけ始めたのだ。ぼくは言葉をなくして、彼女の挙動を見ていることしかできなかった。こちらを怪しんでいるのは目にも明らかだった。「夜分に失礼します……」

 ぼくは今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られた。必死にこの状況を打開する口実を考えたが、上手い言葉は見当たらない。体温が下がっていくような気がした。

 けれど次の瞬間、ぼくは信じられない思いで彼女を見返すことになる。

「――いらっしゃる? ……206号室ですか? わかりました、ありがとうございました。お手数をお掛けしました……」

 そうして彼女は通話を終えた。心なしか、目に宿っていた険のある光は和らいでいた。

「206号室とのことです。以後気をつけてください」

「あ、ありがとうございます」

 彼女はじっとぼくを眺めた後、黙ったまま扉を閉じた。取り残されたぼくは、言葉を失って事態を整理するしかなかった。ぼくが咄嗟に思いついた榎本という名字。その名字に該当する人間が、たまたまこの建物に居住していたのだ。ぼくは再び榎本さんに窮地を救われたのだった。こんな幸運があるだろうか。昨晩に世話になった榎本色葉さんに改めて感謝の念を抱いた。

 ぼくは深く息をつくと、その場から離れることにした。念のために一階を避けて階上へと進んだ。

 ぼくは妙な違和感に囚われた。

 206号室……。

 偶然だろうか。残された合鍵が開いたマンション。そして自宅。両方のマンションの206号室に榎本という名字の人間が住んでいる。そんな偶然があるだろうか。

 ぼくはある予感にぶるりと身を震わせた。ぼくは混乱した。どこまでが夢の記憶で、どこからが現実のそれかわからなくなった。ただ、この扉を開けば、全てが明らかになるような気がしていた。

 ぼくはまっすぐに206号室に向かった。扉の前に立ち、ごくりとつばを飲み込む。

 震える手で、鍵を差し込み、捻った。

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