第2話

 翌朝、ぼくは彼女の手で起こされた。

「起きて。今日は朝からお仕事があるの。そろそろ家を出るよ」

 ぼくは硬く目を閉じたまま身を起こした。頭痛がひどい。胃がムカムカする。それに、身体の節々が痛い。

 額を抑えながら、ゆっくりと目を開けると、見知らぬきつね色の毛布がはらりと落ちた。ぼくの肩に掛かっていたらしい。慣れない柔軟剤の匂いがした。

 ぼくは昨夜の顛末を思い出していた。はっと顔を上げると、見知らぬ女の子がこちらを窺っていた。

 女の子、と咄嗟に思ったのはその小柄な体つきによる。だぼっとしたローゲージニットのカーディガンに小さな肩を包み、袖からは繊細な手が覗いている。その一方で凛と澄ました切れ長の眼が綺麗だと思った。どこか無関心でいて深遠な光が宿り、大人びた切れを秘めている。肩まで伸びた明るい茶髪のショートヘアは赤と青のピンで留められ、ナチュラルな印象。どこか人を寄せ付けないような、そんな雰囲気を感じさせる。

「二日酔い、大丈夫?」 

「大丈夫……です。それより僕、吐いてませんよね?」

 彼女は小さく首を振って、

「うん。それより、あと五分くらいで出るよ。大学近くの本屋でお仕事なの。……お水、いる?」

「いただきます」

「待ってて」

 彼女はドアの向こうへと消えた。

 ぼくは視線を上げる。ぼくは玄関口に座り込んでいた。見回すと、なるほどと思う。同じ建物なだけあって、屋内の造りは全く同じだった。狭い廊下を直進して扉を開けば七畳のリビングに出るはずだ。廊下の右手には手洗い、左手は浴室だろう。廊下と玄関は狭いから、女性のお宅とはいえ、ぼくのそれとあまり変わらない。女性ものの靴が二足、ちょこんと置いてあることくらいだろうか。

 リビングへの扉が開いて、女性が戻ってきた。グラスを手にしている。

 礼を言って水を受け取る。一息に飲み干すと、生き返った心地がした。

 それからぼくは、彼女の名前すら聞いていないことに気がついた。「あの、昨日はありがとうございました。本当に助かりました」

「どういたしまして」

 彼女は澄ました表情で言う。ぼくは少し口ごもって、

「あの、あなたのお名前は……」

「いろは。206号室の榎本色葉」

 顎に人差し指をあてた榎本さんに、ぼくも名乗る。

「303号室の神崎律です。S大学二回生です。本当にお世話になりました」

 彼女は一つ頷いて、

「それより、鍵はどこでなくしたの? 心当たりはないの?」

「あ、そうでした」

 ぼくは鍵をなくしているという重大な事実に気付いた。これといって心当たりはなかった。

 ぼくは彼の家を出ながら、なくした可能性のある場所を思い浮かべた。自動販売機で水を買ったときに落とした可能性が高そうだと見当をつける。

「交番にも当たっておくといいよ。案外、誰かが届け出てくれているもの。――行こ」

 玄関を出ながら脳内で交番の場所を探したが、思い当たらない。

「交番なんてありましたっけ」

「あるよ。木屋町通りの……」

 榎本さんは空中に地図を浮かべて指でなぞっていく。ぼくは朧気な記憶を辿る。

 そうしている間に、ぼくたちはエントランスに下りた。建物を出ると、彼女はぼくを一瞥して駐輪場の方へ消えていった。ぼくは何度も礼を言い、それから鍵探しの旅にでた。

 ぼくはおぼろげな記憶を頼りに昨夜の道を辿っていった。昨晩は良心的な住人のおかげで難を逃れたが、まだ事件は解決していない。自宅の鍵が見つかって初めて、ぼくは心から安らぐことができるのだ。

 ぼくは二日酔いに痛む頭をなだめすかしながら、なくした鍵を探していったわけだが、これが一向に見つからない。いつの間にか陽は高く昇り、ぼくはふらふらと道ばたの公園の隅、砂に汚れた石造りのベンチに体をなげうった。すでに精神は蝕まれ、白昼の公園で頭を抱え込みたい衝動が湧き上がってくる。

 そこでぼくは、最後の希望である交番を尋ねることにした。これまでぼくが後回しにしていたのは、交番こそ鍵を見つけられる最後の砦だったからだ。もし先に交番を訪ね、そこで見つからなければ万事休す。ぼくは絶望に打ちひしがれながら路上をさまようことになる。路上を探すのは、せめて交番という希望を残したまま行いたかった。

 ぼくはすり切れた体を引きずって交番に突撃した。

「すいません。昨晩、この辺りで鍵をなくしたのですが、届いていないでしょうか」

 必死で形状を説明する。ぼくに残された最後の光は、いかにも気怠そうな顔をしていた。「鍵? 知らんな」

 ぼくは全身を雷に打たれた。再び崩れ落ちそうになる体を、交番の机にしがみついてなんとかこらえきった。最後の希望が潰えたのだ。真っ暗になってゆく視界。もう、ダメだ。

 その時、もう一人のお巡りさんが現れた。そして彼こそが二人目の恩人であった。「先輩、鍵なら一時間ほど前に届いてますよ。ちょうど先輩が巡回されていた間に」

 その掌に載っていたのは紛れもなくぼくの鍵であった。

「これです!」

 ぼくは必死になって頷いた。

「それじゃあ、ここに名前と電話番号だけ書いておいて」

 ぼくはいそいそとペンを走らせ、思いつくままの謝辞を並べて、安楽の空間へと身を翻したのだった。



 ところが、事態はたちどころに急変する。

 自宅の賃貸マンションに戻り、握りしめていた鍵でエントランスの扉を解錠し、階段を上る。303と書かれた扉の前に立つと、ぼくは玄関の扉を開けた。帰還したのだ。安堵のため息が漏れる。

 ところが六畳の部屋に足を踏み入れるや、ぼくは強烈な悪寒に身を震わせたのだ。

 そこには一枚の置き手紙と一本の鍵が残されていた。



《二日酔いの家主さんへ


 突然の訪問をお許し願う。私は好奇心に負けて、つい拾った鍵の本拠地を覗いてみたくなった者だ。もちろん、君に対して危害を加えるつもりは毛頭ないのでご心配なく。不安なれば、何も盗まれた物がないことを確認したまえ。

 さて、他人の家の鍵を拾う、という珍妙な出来事に出会ったのも何かの縁。そして君という人間の家にたどり着いたのも縁。そこで、私はほんのちょっとした遊び心から、こんなゲームを提案したい。

 ここに、一つの合鍵がある。これは偶然、私が持ち合わせていた物で、正真正銘、私の家の鍵だ。これを使って、君には私の家を突き止めてもらいたいのだ。ちょうど私が昨晩、君の鍵を拾い、この家を突き止めたように。そう、これは探偵ゲームだ。

 ヒントはなし。ただし、範囲は京都市内である。期限は今日から一週間だ。私が数時間で見つけたのに比べたら大きなハンデだと思わないか? 期限の翌日、私は再び君の家を訪問させてもらう。

 話は以上だ。君がこの暇人の相手をしてくれることを祈る。》

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る