落とした鍵

香(きょう)

第1話

 大荒れの宴会とは不条理なもので、お酒が好きな人間は好き放題に飲み倒し、周囲に迷惑をまき散らし、挙げ句の果てに平常者の足元に倒れ伏して介抱を余儀なくさせる。一方、お酒の嫌いな者は、成人した人間の集まりとは思えないほど荒れ狂った場に居合わせた上に、飲みに飲んだ人間の介抱を命ぜられる。それでも、大人しく酔い潰れて静かになる辛党ならいい。だが最もたちの悪いのは、酔えば酔うほど他人に酒を強要する人間である。彼らは本能のままに他人を酔わせたがるのである。その晩、ぼくはそんな彼らの餌食となったのだった。

「撤収ー!」という幹事のかけ声が聞こえた時、ぼくは壁に背を預け、脚をだらりとのばした長座体で放心していた。胃の辺りがゾクゾクし、全身が妙に気怠い。力を入れようと思えば立ち上がれるが、とてもやる気が起きないような状態。ぼくは固く目を閉じたまま、どこか不抜けた感じで自分自身を客観視し、情けないなと内心おかしさがこみ上げてきて、またすると、読みかけのミステリが今晩中に消化できないことが、この上なく哀しくなるのだった。

 しばらくすると、心配したサークルの人間が声を掛けてきた。ぼくは何度かこういった酩酊前の状態を経験したことがあったが、これだけ酔ったとしても、全ての記憶は忘れないことと、周囲への気遣いはできる人間であった。自分のために彼らの手を煩わせるのは忍びない。ぼくは大丈夫だと断ってなんとか立ち上がると、一度お手洗いで胃の中を絞り出してから、彼らを振り切って自分の荷物を手に取り、靴を履き、ふらつく視界のなか会場の店を後にした。

 酩酊した体を無理に動かすのは大変な苦行だ。ぼくは荒れ狂う胃腸と戦いながら、人通りの絶えない通りを進んだ。最初に目に付いた自動販売機で水を買い、休憩場所を見つけては、腰を下ろした。会場でのリバースが効いたのか、これ以上その心配はなさそうだった。

 宴会会場と自宅は歩いておよそ十五分だったが、ぼくはその倍以上の時間を掛けて帰宅した。ようやく我が賃貸マンションの一階、エントランスの前にたどり着いた時には満身創痍、心身ともに疲労困憊といった有様で、ぼくは安堵の息をついて鞄をまさぐった。ところが――。

「ない!」

 ないのである。普段入れているはずの場所に、鍵は存在しない。それどころか、その場所のファスナーがしっかりと開け放たれていたのだ。

 ぼくの精神グラフは急転直下。絶望の淵に沈み込んだぼくは動転し、理性もどこかへ放り遣って、玄関先のコンクリートの上にずるずると座り込んでしまった。ここは大通りから外れた閑静な住宅街にたたずむ建物で、人通りは少ない。街灯の明かりも弱く、夜闇が黒々と辺りを覆っているため、人目を気にする必要はなさそうだった。酔いのせいか、秋の夜風も気にならない。そんな気の緩みがあったのか、ぼくはそのまま酔い潰れた。

 それからどれくらいたっただろうか。といっても、後に聞いたところによると、ぼくが玄関前で眠りこけていたのはせいぜい一時間程度だったそうだ。ふと近くから声がした。

「あの……大丈夫、ですか」

 凛とした張りのある声。怯えたような遠慮がちな響きの中に、ぼくを労るような気遣いを感じた。

 ぼくはガンガン痛む頭を抑え、呻きながらもなんとか顔を上げた。わずかに片目を開けると、一人の女性がかがみ込んでぼくを見ていた。年齢はぼくより少し下くらいで、大学生か高校生か。茶色の髪が街灯の下で小さく揺れた。

「かなり酔っているみたい。連れの人とかはいないの?」

 いません、とぼくは呻くように言と、小さな吐息が聞こえた。

「……お家はここ?」

 うん。

「何号室?」

 303……。

「だったら、私が運んであげる。ちょうど私もここの住人だから」

 ありがたい、と思った。けれど、それは骨折り損なのだ。

「どうしたの? 鍵をなくした? ――呆れた。このまま干からびたらどうするの」

 彼女はぶつぶつ何か呟くと、

「……仕方ない。私の家に来て。鍵は明日探せばいいから。あなた、S大学の人でしょう。同じ大学のよしみで特別許可してあげる」

 当初、ぼくは懸命に断った。見知らぬ人間が泥酔した状態でよそ様の家に上がり込む。それも女性のお宅だ。明らかに非常識だ。けれど彼女は淡泊な口調で、「煮えきれない人」とか「それなら警察に届けるよ。交番と私の暖かい家、どっちがいいの」などと言う。

 結局、ぼくはあっさりと折れた。何しろ体中が悲鳴を上げていたから、何よりも安息の地を欲していた。

 ぼくは彼女に肩を貸してもらうことになった。朦朧とした意識の中、ふわりと甘い女性の匂いが記憶に残った。必死に目を開けて床を睨め付けながら、開けてもらったエントランスの扉を潜る。先導に従い、ふらふらと階段を上っていく。やがて彼女の鍵が、一軒の扉を開けた。「着いたよ」

 屋内だ。助かった。

 そう思った時には、床に崩れ落ちていた。「――もう、だらしない」

 誰かの手が身体を起こす。素直に従っていると、楽な体勢になった。

 なんといい人だろう。この世も捨てたものではないと感動に打ち震えた。直後、泥酔による悪寒が走る。

 限界だった。

 靴も脱がずに、ぼくの意識は途切れた。

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