第52話 御堂菖蒲
教室内は静けさに包まれていた。
それ故にクーラーの稼働音だけがやけに大きく聞こえる。
黒板の前では担任の山ちゃん先生が、腕時計を見ながら時間を気にしていた。
視線だけを動かし横を見ると、隣の席の一ノ瀬結衣と目があった。
”頑張ろうね”
そう一ノ瀬は口だけを動かし、前を向いた。
しばらくして、中身が見えないように裏返しにされたプリントが配られる。
俺はそれを見て固唾を呑んだ。
ついに始まるのだ。
あれが。
この結果次第で、夏休みが変わる。もし赤点をとってしまったら学校に補修にこなければならない。高校生にとって一番自由な時間である夏休みという最高の期間が、勉強で終わってしまう。それだけは避けねばならない。マジで。
「よーし、じゃあ時間だし始めるか。問題開いて良し」
一斉に用紙を裏返す音が教室に響く。
そうして夏休み前最後の関門である期末試験が始まった。
*
「二人共どうだった? ちゃんとできた?」
柊子が近くの席に座り、俺と一ノ瀬に聞いてくる。
「うん、大丈夫だったよ~。思ったよりって感じだったかな」と一ノ瀬。
「それねー。あんまり難しくなかったよね、どの教科も」
「……」無言の俺。
「恋詩?」
「ついに明日からテストか、頑張ろうぜ」
「おい、現実逃避するな」無言でチョップをする柊子。
「なに? できなかったの?」
「……わからん。できたような。できなかったような」
「あはは、ちょっとそれは怖いね」
「あんなに教えたのに」ぐさっ。柊子の言葉が胸に突き刺さる。
「面目ない、でも心配するな。もしそうなっても犠牲になるのは俺だけだ」
「当たり前でしょうが! バカ」
「うぐぐ」俺の両頬をつねる柊子。
「夏休み補修になったらいっぱい遊べないでしょうが、もう」
「ま、まだ決まったわけじゃないから元気だして恋詩くん。明日のテストに集中しよ」
俺たちの学校の試験は約2日間に分けて行われる。
なので試験は後半分残っている。
「そうだな、勉強するわ」
そう言って、俺はノートと教科書をカバンから取り出した。
もう放課後だが、残って勉強することにした。
影静に連絡しなきゃ。
家で待ってくれている妖刀の家族に俺は「少し、遅くなる」と連絡を入れた。
*
柊子たちとの勉強を終え帰路につく。午後7時を超えているが、夕日はまだ町を照らしていた。静かで穏やかな雰囲気が町にある。先日の異形の騒ぎが嘘のようだ。
先日、叛鬼衆のアジトのような場所に2体の異形が現れた。
まるでその場所を狙ったかのように。
そして俺と影静はそのうちの1体と戦った。巨大な馬の身体に、巨人のような上半身。そして獅子の顔をした異形の姿を思い出す。
強力な異形であった。思い出すとまだ手に力が入ってしまう。
あと1体とも戦っていればどうなっていたかはわからない。
「……」
異形が現れたことで、町には大きな影響があった。
異形が現れる際に、生じる狭間と呼ばれる空間。
狭間がこの世界に生まれることで、その周囲の人は意識を失ってしまう。
今回は開いた狭間が大きかったのか、あの場所から離れた所でも意識を失う人がいたくらいだ。町では事故も多発したらしい。警察はテロの可能性も踏まえ調査をしているとニュースで流れていた。
だが、いずれこのニュースも風化していくだろう。影静は言っていた。
叛鬼衆は古よりこの国の中枢部と繋がっていると。
これまで異形の存在がバレていないのは、そういった部分もあるからだと。
「……」
今でもそんな組織に幼馴染で元恋人であった彼女、御堂朱里がいることが信じられない。俺は何を今まで見てきたんだろう。なぜ、気づかなかった?
あの場所で俺を”無名”を見る彼女の瞳を思い出す。
「大丈夫かな」
朱里はあれ以来、学校を休んでいるらしい。そのことを風の噂で聞いた。
朱里のことだから学業やテストに関しては心配いらないと思うが。
と、そんなことを考えながら歩いているといつの間にか自宅であるおんぼろアパートが見えていた。
「ただいまー」そう言いながら扉を開ける。
「おかえりなさい恋詩」
自宅では、影静がエプロン姿でキッチンに立っていた。
手にはおたまを持って、鍋で料理をしている。
「おっ、いい匂いがする」
「今日はシチューです、初めて作ったので美味しいかはわかりませんが」
「影静の作るものなら何でも美味いって。ってかシチュー食べるの久しぶりだ、すげえ楽しみ」
「ふふ、まあ期待に沿えるように頑張ります。もう少しかかるので先にお風呂に入っていてもいいですよ」
「了解~」
そうして風呂に入った後、食事をして2日目の試験に向けて勉強した。
影静は隣で読書をしていて、穏やかに時間が過ぎていった。
今日異形がこの町に現れることはなかった。
*
そこは叛鬼師にとって特別な場所だった。叛鬼衆統括本部内にある広大な開かれた空間。そこには天井がなく、月光が降り注いでいる。
そしてその中心には、その光に反応するように光り輝く大樹があった。
御堂朱里はその場所に足を踏み入れた瞬間、空気が冷え込んだような感覚を覚えた。
「来たか」
「春子様お久しぶりです」
総巫女と呼ばれる叛鬼衆でも特別な役職につく者。
「春子様、今日はよろしくお願いします」
朱里の隣で母の
だがわかる。近づくだけで神聖な”力”を感じる。
これは無くてはならないものだ。
「
春子が名を呼んだ。朱里は自分の背後に誰かが立っているのに気づいた。
振り向くと、自身の半分ほどの身長の少女が背後にいた。
見覚えのある少女だ。
「心緒ちゃん……久しぶり」
「……」
朱里は少女の様子がおかしいことに気づいた。以前は、明るく活気があり”元気”という言葉が似合う子だったはずだ。だが、今の彼女はまるで心を失ったかのようだった。表情がないだけじゃない、視点も合っていない。動きもゆっくりで、生気がない。
「気にするな修行の副作用のようなものじゃ。話は聞いているから朱里、そこに膝をついて背をまっすぐにしな」
「……はい」
朱里は言われた通りの姿勢をとった。
どうやら始まるようだ。朱里がここを訪れた目的は一つ。
自らが神術を使えなくなった原因を探るため。
先日の東部統括本部を襲った2体の”鬼”。あの時から神術が使えなくなった。
分からない。なぜ使えなくなったのか。
「……」
背中に手の感触がある。
少しだけ後ろを見ると、心緒がその小さな手を朱里の心臓がある辺りに置いていた。春子もその上から手を重ねるように置いている。
「”見ろ”」
春子がそう言葉を発した瞬間、朱里の中に何か得体のしれないものが入ってきた。
探られている。そんな感覚があった。
そんな時間が数分間続いた。
身体にあった違和感が消える。どうやら終わったようだ。
「春子様、朱里の状態は」
母の菖蒲が春子に聞く。その表情は不安げだ。
「”魂”にも、身体にも問題はない。原因は精神的なものだろうね」春子はそう言った。「そんな」菖蒲が絶句する。朱里は何故か自分がそれほど驚いていないことに気づいた。
「まったく、御堂の直系の女が情けない」春子はため息をつき、菖蒲を見る。それに応える言葉はなかった。そうして、輝神樹の間から朱里と菖蒲は去った。
母と統括本部の廊下を歩く。そこに言葉はない。
しばらくして母が口を開いて言った。
「これから十二郎様と話をしてきます、そこで待ってなさい」
「はい」
一人になると、先程言われたことが蘇る。
神術を使えないのは、心に問題があるから。
分からない。何もかも。
どうすればいいのだろう。
もしこのまま神術が使えない状況が続けば、自分はどうなる?
叛鬼師としてはもう活動できないだろう。
叛鬼師としての存在価値すら失ってしまう。
(じゃあ何のために私は……)
そうしていると、廊下の奥から2人の叛鬼師が談笑しながら歩いてくるのが見えた。背の高い男と、茶髪の女。
見覚えはあるが、名前は分からない。他家の一般の叛鬼師だ。
あちらも気づいたのか、軽く会釈し過ぎ去る。
朱里は2人の目を見ないようにしながらも会釈した。
「なぁ、今の……朱里様」
「そうそう……叉堂の……一般の」
そんな声が俯いている朱里に聞こえていた。
あれから月日が流れても噂はそう無くならない。
特に普段接しない人であれば。
「……」
*
「どこまで恥をかかせれば気が済むの!」
自宅に菖蒲の声が響いた。朱里は俯き、何も応えない。
天井のシーリングライトだけがただ2人を照らしている。
そこに姉の姿や父の姿はない。
「あなた自分がどういう立場かわかっているの!? 御堂の娘なのよ!」
「……すみません」
「さっきからすみません、すみませんってそれしか言うことがないの!? 分かってるなら……ああぁ、もう最悪」
「……」
「昔はあんなにできる子だったのに……あの人の言う通り自由にさせすぎたのが悪かったわ」
「……はい」
「育て方を本当に間違ったわ、まったく……」
「っ」
菖蒲はその後も話を続けていたが誰かから連絡があったようで、家を出ていった。
朱里は自室に入り、力を失ったかのようにベッドに横になった。
「御堂の娘ね……」
幼い頃から何度も聞いた言葉。御堂という叛鬼師の中でも特別な家に生まれた。
だけど、望んだわけじゃない。
「
手のひらを天井に向けて神の名を唱える。
だが、何も変化は起きない。純白の小弓がその手に現れることはない。
「……」
幼馴染の少年を失って。叛鬼師としての存在価値すらも失った。
もう自分には何もない。
「全部……自分のせい」
朱里の手は無意識のうちにスマホのフォトアルバムを開いていた。
彼の写真を見るだけで、壊れそうな心が落ち着いた。
依存。そう呼ぶのかもしれない。
でもどうでもいい。朱里はただ苦しみから逃げるように写真に縋った。
*
またいつものように目が覚めた。そうして朝の鍛錬に向かおうとして朱里は気づいた。スマホがない。昨日、彼の写真を見た後テーブルの上に置いたはずだ。
落としている可能性も考えテーブルの下や、ベッドの近く全てを探す。だがスマホが見つかることはなかった。
「嘘……どこ、なんで」
朱里は部屋を出て、リビングに向かった。
そこには昨日出ていったはずの母と、家政婦の斎藤がいた。
「お母様、戻っていたのですか」
「ええ、あの後仕事が早く片付いてね」
嫌な予感がする。
スマホがどこにあるか、母は知っているような感じがした。
「私の携帯を知りませんか?」
「あぁ、あれ捨てたわ」
「……え」
朱里は何を言われたのか一瞬理解できなかった。
「捨てた……?」
「ええ、あなたが寝ている内にね」
「なんで……」
「だから昨日言ったでしょう、自由にさせすぎたって。まずは交友関係からね、叛鬼師の人間以外と連絡を取る必要はないでしょう」
「何を……言ってるの? 学校の友だちだって……学校の連絡だってあるし」
「じゃあ辞めたら? 私はもともと反対だったし。学ぶことはどこでもできるもの」
「……」
「いい? 朱里聞きなさい。私達は民間人とは違うの。何度も言っているでしょう。あなたに叛鬼師以外のことは必要ない」
「……」
「学校を続けるとしても民間人と深く付き合うのはやめなさい、ろくなことにならないわ」
朱里は目の前の母が自分には理解できない存在に思えた。
そして、心の中でポキリと何かが折れた気がした。
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